4章 星の降る村

第9話 寂れた村フィリドーザ

「あの山、たくさんのぶろっこりみたい」

「ブロッコリーな。危ないから窓から顔出すなって」


 オンボロの車――すすけた紅色のビートルは、緩やかに曲がりくねる山道をのんびりと走っていた。ホリゾンブルーの空に浮かぶ雲もゆったりと流れている。昨夜の嵐が嘘のような快晴だ。

 ルカは助手席に座り、窓越しに流れる景色を眺めていた。レヴィの森に生えていた木とは違った、少し背の低いずんぐりむっくりとした木が背を並べている。

 そんな低木並木を両脇に、きちんと舗装された道がリボンのように続く。ポルトヴェッキオへ向かった時の、あの荒々しい山道とは大違いだ。


「アダムがまさかついて来てくれるなんて」


 ルカはぼそっと呟いた。独り言のつもりだったが、運転席から軽快に鼻を鳴らされた。


「思ってなかったって? 嘘だね。俺がついて来たいって、知ってたくせに」


 アダムはにやりと笑う。つられてルカも微笑んだ。


「ねぇ、どうしてアダムは旅をしてたの?」

 前席のヘッドシートの間からひょこりと顔を出してニノンが尋ねる。アダムは少し考え込んで、そうだなぁ、と首を捻った。

「俺はカルヴィって町でずっと暮らしてたんだけどさ。この島には他にもっと見るべき町や、景色や、人なんかがたくさんいるんだって気付いたんだよ。狭っくるしく生きる人生なんて勿体ないだろ?」

 アダムは道路の上に広がる青空を見上げた。どこを切り取っても絵になる風景は、コルシカ島が《最後の楽園》と呼ばれる所以ゆえんなのだろう。


「意外とロマンチックなんだね」

「意外ってなんだよ。こんな素晴らしい車に乗れることを感謝してくれ諸君」

「何か企んでるわけじゃない?」

 お金儲けとか。と、ルカも冗談気味に話題に乗っかる。すぐに否定の言葉が飛んできたが、ルカは自分の読みがあながち間違っていないのではないかと踏んでいる。


「食い逃げ事件の時は悪かったって。正直言うが、俺はあの時胸を打たれたんだぜ。ルカ、お前の腕は本物だよ。素直にすげぇって思った。まるで魔法みたいだったんだよ」

 アダムは興奮気味にまくし立てた。ボードレールのポスターの修復作業を見ていた人は皆一様に「魔法だ」もしくは「奇術だ」と思ったことだろう。それほどに修復とは物珍しく、人目に触れる機会が少ないのである。

「修復は魔法なんかじゃないよ。化学的根拠と綿密なる調査に基づいて行われるから、むしろ真逆の存在だと思う」

 少しでも手間を省いたり作業を怠れば、完成度にまともに響くのが修復作業の実態だ。裏を返せば修復家によって出来栄えががらりと変わるということだ。リスクを負ってまでオリジナルの絵画を修復する物好きなど、今の世の中にはそう多くはいない。


 ふぅん、とアダムは聞いているのかいないのか、よく分からない相づちを打った。

「でもやっぱ凄ぇよ。なんつーか、ワクワクしたんだよな。俺もまた絵描いてみようかなって気になったし」

「え! アダムって画家だったの」

 アダムの発言に、ニノンは驚き目をまるくした。途端にビートルが揺れる。ハンドルを握るアダムの手に力が込められている。その顔は恥ずかしさからか火照ったように朱色に染まっていた。


「な、なんだよ。笑うなって。別に修道士に不満があるわけじゃないぞ。画家はただの夢だよ、夢」

「修道士!」

 と、ニノンは叫んで次こそ笑い声を上げた。

「おい! ニノン、てめぇは笑いすぎだ」


 修道士のイメージはと問われればおそらく皆一様に、穏やかで物腰が柔らかく、俗にまみれていない、落ち着きのある人物像を思い浮かべることだろう。間違っても暴言など吐かず、ましてや食い逃げなど企てるはずもない。ニノンはひぃひぃと喉に何かがつっかえたように息継ぎをした。


「ニノンの反応は普通だと思うよ」

 ルカの口から思わず含み笑いが漏れた。「ルカ!」とアダムの悲痛な叫び声が飛ぶ。断髪していない髪の毛、町中の女性を口説き倒すさまはもはやただのチャラついた若者である。

 運転手の心情が影響してか、ビートルの揺れはいっそう激しくなった。ルカは思わず頭上の手すりにすがりつく。


「でも画家って夢、素敵だね。いつか絵を見せてよ」

「笑うやつらには絶対見せねぇ」

「笑ってないよ! 夢があるのは素敵なことだもん」

「……いつかな」


 そう言ってアダムはぷいっとそっぽを向いてしまった。しかし、その声色に照れが含まれていることを、ニノンはちゃんと分かっていた。

 そんなやり取りを微笑ましく眺めながら、ルカは膝に乗せられた自身の右手に目線を落とす。薬指にはめられた指輪が鈍く光った。それは夢を語るアダムの瞳に垣間見えたような輝きだった。



 時は二時間前にさかのぼる。


「ん……うんん」

「父さん、大丈夫?」


 程なくして光太郎はベッドの上で目を覚ました。丁度ルカの指にはまっている指輪と、ニノンの持つ首飾りに掘られた模様が同じだということが判明した時だった。

「ルカ、おはよう。今日も早いじゃないか。……ところでこちらの方々は?」


 ルカはどこから話せば良いのかしばらく思案したのち、順序立てて話し始めた。

 ベニスの仮面にさらわれたマリーを救出したこと、工房の地下室のこと、扉につけられていた謎の機械、そしてその地下室に保管されていた損傷の激しい絵画が盗まれたこと――いろんなことが一夜に起きすぎて、話している当の本人でさえ混乱しそうなほどだった。


「あの絵画は一体何? それからこの指輪――そうだ、父さん。指輪と同じ紋章がこの首飾りの裏に」

 ニノンは首から外したペンダントを光太郎に手渡した。その紋章を見て光太郎が息をのんだ。驚きに瞳を見開き、じっとラピスラズリを見つめたまま微動だにしない。


「父さん、これは」

「ああ。僕も実際見るのは初めてだ。ルカ、約束は覚えているね」


 ルカは静かに頷いた。それ以上の説明はなかった。ルカも深くは言及げんきゅうしなかった。光太郎が自ら口を開かないということは、それ以上の追及は不要であるということを理解していたからだ。

 アダムとニノンは、親子のやり取りの意味を聞けないまま二人をじっと見守っていた。


 について深く語らぬまま、光太郎はベッド脇のサイドボードの引き出しを開けた。ノートブック数冊と長さの違う鉛筆二本、それから何かのおまけで付いてきたようなチープな造りのくまのクリップ、大昔の書類などなど無造作に突っ込まれていたガラクタをサイドボードの上にぶちまける。中身がきれいさっぱり無くなった引き出しに残ったのは、端からはみ出た紐だけだった。その紐を引っ張れば底板が外れ、中から古びた手紙が姿を現した。きなり色をしたその手紙はところどころを虫に食われているようだった。


「大事な話をしよう」

 ベッドに戻り、光太郎は手元の手紙が破れないように丁寧な手つきで封を開けた。しわだらけの手紙は二枚。一枚目には文字が、二枚目には地図らしきものが描かれている。


「あの絵画は、四枚繋げてはじめて完成するものなんだ」

 ルカは絵画に残された痛々しい切断跡を思い出した。上部分と左側面がボロボロだったところを見ると、盗まれた絵画は右下のパーツに当たるようだ。


「絵画が隠されている場所はこの地図の通りだよ」

 光太郎は三人によく見えるようにきなり色の地図を広げた。コルシカ島の地図上に四点の●が記されている。それぞれ下部に〈レヴィ〉、左部に〈フィリドーザ〉、中央部に〈コルテ〉、そして上部には〈カルヴィ〉と町の名前が記されていた。まるで海賊たちが持っている宝の地図のようだ。


「仮面の男がどうしてレヴィに絵画の一部があることを知っていたのかは分からない。けれど、情報がどこからか漏れていることは確かだ」

「おじさん、その絵画が盗まれるとまずいの?」

 光太郎の瞳はいつになく真剣味を帯びていた。深く頷き、再び地図に目線を落とした。


「この絵画が善意ぜんいなき者の手に渡ってしまったら、きっとコルシカ島は滅びてしまう」


 三人は息を呑んだ。空気が滞ってゆく。

 隠された絵画の四分の一に描かれた少女の微笑みを、ルカは思い出していた。天使のように見える羽織り、やわらかな色合い。とてもじゃないが恐ろしい絵画には見えなかった。全てのパーツが集まったとき、はたしてそこにはどのような絵が描かれているのだろうか。


「そうならないように、人知れず僕たちは世間の目から遠ざけるように厳重に隠してきたんだけどね」

 ため息をついた拍子に傷口が開いたのか、光太郎は右手で下腹部をさすった。


「残りの三枚、集めるよ」

 ルカが呟いた。

「俺も一緒に行っていいよな? ルカにはたっくさん世話になったことだし」

 アダムはにっかりと笑ってみせた。

「私もルカと一緒に行く。そうしたらきっと、色々と思い出せる気がするの」

 ニノンの首飾りのラピスラズリが窓から差し込む陽射しにあてられて輝いた。ルカと出会ってから度々失くした記憶の夢を見るようになっていたニノンは、確信にも似た思いを抱いていたのだった。


 賑やかな声を聞いて、光太郎はココアに溶けたマシュマロのような笑顔で己の息子を見つめた。もうおぼつかない足取りで自分の周りを歩いていた赤ん坊ではない。すくすくと成長し、今や自らの足で旅立とうとしているのだ。

 光太郎はルカの両手をそっと握った。


「頼むよ、ルカ。あの絵画はコルシカ島の運命を握ってるんだ。って、全て任せてしまって申し訳ないけど」

「うん。大丈夫だよ。父さんは怪我の治療に専念して」


 ありがとう、と光太郎は自分とよく似た真っ黒の髪の毛をくしゃくしゃと撫ぜた。たった二人、村の離れの丸太小屋で過ごしてきた。しばしの別れは心寂しいけれど、そんな気配を微塵も見せることなく父親と息子は見つめあった。そこには寂しさを凌駕りょうがする未知なる世界への希望と、大きな使命感が渦巻いていた。


「ベルナールの末裔の少女を護ってあげるんだよ」

「うん。行ってきます、父さん」





 再び路上に小石が目立ち始めた。舗装のされていない道路に差し掛かり十分ほど進んだところで、木製の看板が立てられた村の入り口に到着した。白いペンキで『フィリドーザ』と書かれた看板には、真ちゅうでできた枠とガラスによって作り出される立体的な形の星々が、いくつも連なりあってぶら下がっていた。中に電球が見える。夜になると灯りがともり、看板を照らす役割を果たすのだろう。

 可愛らしい看板のすぐ後ろにもう一つ、簡素な木製看板が大々的に建てられている。


「『星の降る村へようこそ』……? フィリドーザってそんな村だっけか」

 アダムは聞き覚えのない宣伝文句に首をかしげる。すると突然、少女の声が村の方から聞こえてきた。


「いらっしゃいませ、ようこそ星の降る村、フィリドーザへ! お宿は決めてますか? お食事は? 観光案内なんかどうですか?」

「だー、ちょい待てって」


 猛スピードで迫りくる質問の嵐に、アダムが規制をかける。そこにいたのはニノンよりも背の低い、ぱっちりとしたヘーゼルの瞳が特徴的な幼い少女だった。肩より伸びた芯の太い赤毛を耳の下で二つに結わえていて、ボーダーのシャツに、明るいジーンズのオーバーオールという出で立ちをしている。良くも悪くも田舎娘という印象だ。

 その少女は三人を頭のてっぺんからつま先までよくよく観察した後、一番話を聞いてくれそうと判断したのか、ルカの両手を勢いよく握り込んだ。


「お兄さん、名前は?」

「え? あ、ルカです」

「ルカさんね。ここで出会ったのも何かの縁。ってことで、今日はゆっくりこの村で過ごさない?」

 ずい、と少女がルカに顔を寄せた。それを見たニノンの眉間にしわが寄る。

「いや、ここに泊まる予定は無いんだけど――って、あの」

「私はジルダ! 十二歳、この村に住んでるの。大丈夫大丈夫、宿の手配とか面倒ごとは全部私がやっちゃうから」

「ダメダメ、私たち急いでるんだから。もう、ルカの手を放してよ」

 荒げるニノンの声はジルダには届いていないようだ。手を捕まれたルカは引きずられるようにして村の中へと足を踏み入れたのだった。


 フィリドーザは随分と小さい村だった。レンガ造りの古びた建物はたっぷりと距離を置いて立ち並び、歩いても十五分ほどで全て回れるほどこぢんまりとしている。人通りも少なく、そのくせ先程から『宿屋』と書かれた看板が多くぶら下がっているのが目につく。時折出くわす人々の顔はどれも土気色をしていて活気がない。ずいぶんと寂れた村だなぁ、とルカは思った。


「ねぇ、どうするのルカ。まさか本当に泊まるの?」

 ニノンは声をひそめて尋ねた。困り顔のルカに代わって口を開いたのはアダムだ。

「とりあえず”ゾラさんの家”を探さなきゃいけねぇんだし、このままついていって情報貰うのがいいんじゃねぇの」


 光太郎によると、破れた絵画の二枚目の在り処はフィリドーザに住まう『ゾラ』という男の家だという。それ以上の情報は何もなかったが、非常に小さい村での捜索はそう難しくはなさそうだ。村と名のつく集落は、名前を出されればその人がどこに住んでいるのか、誰もが周知していることが多いのだ。


「今日の宿屋はここね。私の両親が経営してるの。とっても寝心地の良いベッドが売りなんだ」

 到着した宿屋はやはりレンガ造りの小さな二階建ての家で、屋根はジルダの髪と同じ真っ赤な色をしていた。さぁ入って入って、とジルダにうながされて三人はしぶしぶと宿のドアをくぐった。


「なんとまぁ、お客さんなんていつぶりだろうねぇ。道に迷われたんですか?」


 質素なカウンターの奥からエプロン姿の女性が顔を出した。ジルダと同じ赤い色の毛を後ろでお団子の形にまとめている。おそらくジルダの母親だろう。その頬はこけていて、やはり土気色をしていた。


「あなた。お客様が来ましたよ。あなた」

 カーテンの奥から流れてくるのはバラエティ番組の司会者の饒舌じょうぜつなトークと、それに時折混じる中年男性の掠れた笑い声。奥の部屋でジルダの父親がテレビを見ているのだろう。

 ジルダはつかつかと足音を鳴らしてカウンターの奥へ近づき、深緑のカーテンを勢いよく開け放った。


「お父さん、お客さんが来たんだよ、この村に! 聞こえてるの? ねぇ――どうしてそんななの!」


 ジルダの拳は怒りにぶるぶると震えていた。瞳にたまった涙を流すまいと歯をくいしばっているが、涙はみるみるうちにあふれ出ててしまう。それらはぽろぽろとこぼれてジルダの頬を濡らした。娘の剣幕に驚くも黙ったままの父親に、ジルダはいっそうその情けない姿を睨みつけて、勢いよく宿屋を飛び出していった。

 ルカ達は顔を見合わせた。そして、呆気にとられている夫婦を見比べて、とりあえずジルダの後を追おう、と頷きあった。


「ぐすっ……」

 そこは村の外れ、一本道の続く通りの脇に置かれた古びたベンチだった。赤い髪の毛をしなびさせ、俯き加減にジルダは腰かけていた。


「ジルダ」

「うっ……ご、ごめんなさい。普段はもっとちゃんとした宿、なんだ、けど。ひっく」

 嗚咽おえつの止まらないジルダの背中を、ルカは優しくさすってやった。

「ジルダは悪くねぇよ。おやっさんもなぁ、これだけ村が寂れてちゃな……」

 アダムは辺りを見渡した。こんなへんぴな村なのに、やたらと同業者が多いのでは、需要と供給のバランスが悪いのは目に見えている。村人に生気がないのも頷ける。


「ここは、本当は、すっごく綺麗な村なの……だけど大人たちは皆諦めてる……私は、そんなのは嫌」

 すん、と鼻をすする音が聞こえる。泣きはらした目は真っ赤に充血しており、それでも油断すれば涙は溢れるばかり。今まで溜めこんできたものが一気に溢れ出ているようだった。


「私たちでよければお話聞かせて? 悩みごと、たくさんあるんだよね」

 そう言ってニノンが微笑むと、ジルダの目からまたぽろぽろと涙が溢れた。手の甲でそれらを拭って、ジルダは話し始めた。

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