第5話 強面シェフの恋物語
その日の昼下がり、一行は細い路地をひたすら頂上に向かって歩いていた。時折通り過ぎる風が、向かい合った窓に掛けられた物干し竿の洗濯物を揺らしていく。
「ニノンは、どうしてこの町にいたの」
歩きながら、ルカはずっと気になっていたことを口にした。
あの森には道と判断できるものは一本しかないはずだった。遺跡からは歩けば十分足らずで村に到着する。迷いようがないが、仮に迷ったとして、歩けば半日以上掛かるポルトヴェッキオに偶然辿り着いたとは思い難い。
「ルカの言ってた村には着いたんだけどね。偶然通りかかったおじさんに、道野さんのお家はどこですかって聞いたの」
「おじさん」
うん、とニノンは真剣に頷く。
「そのおじさんが、『たしか今日あたりに港町に行くって言ってたから、お家に行っても留守だよ』って」
そこでご丁寧にポルトヴェッキオへの行き方まで詳しく教えてもらったニノンは、乗り心地の最悪なバスの最終便に飛び乗ってはるばるこの町までやって来たらしい。
「それ、名物のトムおじさんだよ」
呆れたようにルカは呟いた。レヴィには中途半端に情報を仕入れては道行く人にあることないことを吹き込む、厄介なおじさんがいる。今まで何人もの村人が言い募ったが、本人には嘘を吐いている自覚などまったくないらしかった。
「ふぅん……? でも、また会えてよかった。私早くルカに会わなきゃと思ってたから」
「早く?」
首を傾げるルカに、ニノンはポケットから例の古紙を取り出して、新たに発見した裏面の文字を見せた。
「え――ミチノって」
「ルカのファミリーネームでしょ?」
ルカは目を白黒させた。道野という和名がこの辺りにゴロゴロと転がっているはずもない。ルカは己の名前が記された古紙を穴が開く程眺めると、身に覚えのない事実に首を捻った。
「なぁ、二人はどういう繋がりなわけ?」
先ほどから背後でそわそわしていたアダムが、ついに首をつっこんだ。
「昨日ね、森の中で会ったの」
「昨日? 以外と短ェな」
「アダムより長いんだから」
二人が
崖下には大きな湾が広がっていた。空ではキョオ、キョオ、と鳴きながらカモメが舞い、眼下では豆粒のような船が何隻も、白波を立てながら走っている。間近で見た海よりも深くて濃い青色をしているそれが、何より想像していたよりもずっと遠くまで広がっていることにルカはとても驚いた。
「ここがコルマンさんのお宅だ」
高台にポツンと建てられた白い石造りの家は、三階建てのアパートメントを二棟繋げた様な大きさだった。周りには植木鉢が並び、ピンクや黄色といった色とりどりの可愛らしい小花が咲き乱れている。
ルカは恐る恐る玄関先まで歩いていくと、建物と同じく白い石造りの柱に埋め込まれた呼び鈴のボタンを押した。しばらくしてゆったりと玄関のドアが開かれた。
「どなたさんかな」
伸びやかな声と共に現れた男性の顔を見て、三人は飛び上がった。ドアから顔を覗かせたのが、先程苦労して捲いたはずの強面のシェフだったからだ。
「こ、この度はお騒がせして誠に申し訳ありません! あんなことするつもりじゃなかったんです、ただほんの出来心で……」
心にもない謝罪の言葉を並べてひたすら平謝りするアダムを前に、男はふくよかな体を揺すった。
「もしや港のレストランのシェフと間違えておるかな? あそこで働いてるのはワシの息子だよ」
光栄なことによく間違われるのだと、コルマンはもう一度高らかに笑い声を上げた。
応接室に通された三人は、外観に劣らない豪華絢爛な内装に圧巻された。床一面に敷き詰められた深紅の絨毯には土埃ひとつなく、天井では映画に出てきそうな巨大なシャンデリアが垂れ下がっていた。重厚な棚の上には溢れんばかりのカラフルな生花が活けられている。
おおよそ見る物も無くなってきたところで、盆にコーヒーカップと山盛りのチョコレートを乗せたコルマンがにこやかに戻ってきた。
「先週フランスへ仕事に行った際に買い付けたコーヒーだが、砂糖とミルクはいりますかな? ワシはしがない商人をやっとりまして、ええ。それでこのベルギーのチョコレートがまた非常にボーノ! な味わいで、ええ。これを食べたら他のものは食べられませんぞ。みなさん、チョコレートはお好きかな?」
ちょこれーとって何、と尋ねるニノンに向かってアダムは「この世の中で一番うまいモン」と随分ぞんざいな回答を投げた。
ガチャガチャと並べられていく高級なティーセットと強面の満面の笑みを交互に見比べながら、ルカはそのギャップに気圧されて苦笑いを浮かべた。
「それで今日は、ミスターミチノは風邪か何かで?」
「あ、いえ。父は今手が離せないので、代わりに絵画を届けに来たんです」
ルカはトートバッグから慎重に絵画を取り出して依頼人へと手渡した。先日にも増して色鮮やかに見えるのは、絵画が金色の煌びやかな額縁に収められているからだろう。
「素晴らしい! この鮮やかな色合いはまさにこの画家の特徴。これなら修復前よりも数倍多くのエネルギーになるに違いないですぞ。ああ、本当に、何度見ても素晴らしい」
エネルギー。その単語が耳に入って、ルカは少し淋しい気持ちになった。修復とはもちろん絵画を本来の在るべき姿へ戻す作業だが、その目的は絵画をより美しい形で鑑賞したいからではない。絵画をより多くのエネルギーに還元する為なのだ。
「ミスターミチノは仕事が丁寧な上に速い。いつも助かっていると伝えてくれるかな」
「ええ、きっと父も喜びます」
父が本当にやりたかったこととは何だろう。
ふと昨夜の出来事を思い出してルカはぼんやりと机の上の絵画を見やった。それは、絵画の修復と関わりがあるのだろうか。
緩く湯気の立つコーヒーカップに口をつける。爽やかな苦みが心地よい。最高級のコーヒーに、窓から眺める絶景。本来ならばもう少し穏やかに午後の一時を満喫することができたに違いない。――隣で無神経にチョコレートを頬張るアダムとニノンさえ視界に映らなければ。
ルカは二人に聞こえるように咳払いをした。
「つかぬ事をお聞きしますが」
「何ですかな、ミチノジュニア」
ミチノジュニア……。
間違ってはいないが少し複雑な気分だ。
「ルカです。コルマンさん、この絵画の他に何か困っていることはありませんか」
「困っていること、ですか」
「たとえば修復したい絵画があるとか……」
コルマンは強面に似合わない可愛らしく整えられた鼻下の髭を指で撫で付けた。そして、考える間もなくきゅっと表情を引き締めると、仰々しい口調で話し始めた。
「ありますとも。それも非常に重大で、難解な困りごとが」
*
人通りの多い大通りへ戻ってきた三人は、様々に首を捻ったり顎に手をあてたりして突きつけられた難題について考えていた。
「まさかあの強面シェフの見合いの説得をする羽目になるとはな。これがお前の言う『三十ユーロ稼ぐ方法』ってか?」
とんだ茶番劇だぜ、と皮肉を言うアダムの横でルカは苦笑いを浮かべるしかなかった。
当初はコルマンの所有する別の絵画を修復することで報酬を得るという算段だったのだ。それが一体全体どうして息子に関する人生相談に転じてしまったのだろう。
「ゴーレムみたいな面して怒りっぽいときたらそりゃモテないだろ。俺が女だったらご免だね。そもそも、本人がお見合いしたくないって言ってんだから放っておきゃ良いのによ」
「アダムってば、声大きい。誰かに聞かれたりしたら――」
「あの……すみません」
突如消え入るような女性のか細い声が背後から聞こえて、アダムとニノンは肩を強張らせた。
振り返るとそこにはほっそりとした白いワンピース姿の女性が立っていた。腰まで伸びた艶やかな亜麻色の髪が、風にさらわれて揺れている。健康的な肌色なのに目元がすっきりしている為か随分と涼やかな印象を受ける。
ルカを押しのけアダムがずい、と一歩前に出る。
「素敵なワンピースですね。僕たちに何かご用でも?」
女性に見えない所でニノンがルカの裾を引っ張り、「僕たちだって!」と笑いを堪えながら訴えた。
白いワンピースの女性はひっそりと頬を桃色に染めたかと思うと、囁くように尋ねた。
「先ほど父にお会いしていた方々ですよね」
「ええ、まぁ。――父? あなた、コルマン氏の娘さんなんですか?」
「はい。サラ・コルマンです」
頷くサラを、アダムは上から下まで今一度凝視した。橋の下で赤子を拾ってきたなんてよくある話を今なら鵜呑みにできる程、サラの容姿は父親のそれとはかけ離れていた。
「お姉さん、コルマンさんとその息子さんとは随分似てないのね」
「ええ。よく言われます。私は母親似なので」
そこで一旦会話を切ったサラは、非常に気まずそうに俯いた。
「どうかしたの?」と、ニノンが尋ねる。
「――父に、兄の事を何か頼まれませんでしたか?」
俯いたままのサラに、ルカはコルマンから息子を見合いに出るよう説得してほしいと頼まれた事を話した。サラはやや青ざめた様子でその一部始終を聞き、最後に「ああ、やっぱり」とため息を漏らした。
「いつもそうなんです。三十を過ぎても一向に女性と交際する気配を見せない兄に父の方が焦りを感じていて。最近は自分だけに留まらず、こうして見ず知らずの方々にまでご迷惑を」
サラは顔を伏せてさめざめと謝った。
「顔をあげて。サラちゃんが悪いわけじゃないんだからさ」
アダムは壊れ物を扱うように優しく声をかけた。
「どうか、どうか父の頼まれ事はお忘れください。そして兄の――セドリックのことはそっとしておいてやってください」
「俺もそう思うよ。恋ってのは無理にするもんじゃない。いつの間にか落ちちゃうもんさ。サラちゃんの兄さんもあんな顔だけどさ、運命の人に出会っちまえば案外早いもんだぜ」
若干失礼な単語を交えつつも励ましの言葉をかけるアダムに、サラは表情を暗くしたまま頷いた。
「だと良いのですけれど。兄には忘れられない女性がいますから……今でも部屋の壁に張り付けた古ぼけたポスターを眺めては、ため息をついているくらいですし」
「げ、兄さん、もしかして女優とかそういう手の届かない女性を狙ってんの? そりゃあ無理だ、頑張っても無理だ。説得した方が良いなそりゃ」
「ロマンが無いなぁ、アダムは。大丈夫だよ。愛があればなんとかなるって」
「ならねっつーの。愛だけじゃ住む世界の格差はカバーできねぇの」
言い合うアダムとニノンの間に割って入るとルカは二人を両脇に押しのけ、サラの深く沈んだ琥珀色の瞳を見据えた。
「その話、詳しく教えてもらえませんか」
*
大通りから一歩入った裏路地に佇むカフェでは、午後三時を回っているにもかかわらず随分と落ち着いた雰囲気を醸し出していた。知る人ぞ知る隠れ家なのだろう。
品の良さそうなウェイターが、分厚いリサイクルグラスのコップに並々と注がれた葡萄ジュースをテーブルに運ぶ。あまり車窓から景色を眺められるほどの心地よい道中ではなかったが、ポルトヴェッキオに近づくにつれてぶどう畑が広がっていた光景を、ルカは頭の片隅でぼんやり思い出した。
「このあたりでは葡萄の栽培が盛んなのでワイナリーが多いんですよ。実はこのぶどうジュース、ここのカフェのオリジナルなんです」
艶やかでいて澄んだ赤紫色の液体からは
「もう十年も前のことだったと思います。兄が厨房に立って調理を任され始めた頃、とある商人がイタリアから一人の若い踊り子を連れてきたんです」
踊り子の名はビアンカと言った。気の強そうな大きな瞳をいつも吊り上げて、どこか肩を張って生きているような女性だった。
彼女はポルトヴェッキオに着くとすぐに町で有名なキャバレーで働きはじめた。セドリックは間もなくしてそのお店でビアンカと出会ったという。
「はぁん、なるほどね。そこで踊り子にハートを打ち抜かれたお兄さんは、今も片思いを続けてると」
悲しい恋物語だねぇ、とアダムがこめかみに右手を抑える様を冷ややかにルカが見つめる。
「一目惚れというより……ビアンカさんと初めて会った時、兄は彼女と喧嘩したらしいんです」
「あ?」
「詳しいことは聞いてないんですが、彼女の態度がどうも高飛車というか、金を払っている客に取る態度じゃなかったみたいで。兄も一応シェフをやっていますから。思うところはあったんじゃないでしょうか」
サラは話を戻した。それから一月以上の時が流れ、二人が再会を果たした場所はセドリックの働くレストランだった。
プライドの高い彼女が単身で賑やかな大衆のレストランを訪れたことに大変驚いたセドリックは、その夜再度キャバレーを訪れる。もちろんビアンカに会うために。
「駆け出しが上手くいかなかった彼女は、態度にも表れていたのでしょうが、稼ぎも悪くなる一方で。そんな彼女を放っておけなかったんだと思います。兄はこっそりまかないを作っては彼女に食べさせてやるようになりました」
それからほどなくして二人は互いに惹かれあい、愛するようになったという。
「え。結ばれちゃうの」
拍子抜けした、という風にアダムは突っ込みを入れる。
「ええ、一度は恋仲に。喧嘩も多かったですが同じくらい深く愛し合っていた様に私には見えました」
しかし、とサラは続ける。幸せな時間は永遠ではなかった。二人が出会って三年後。その時は一隻の商船と共にやって来た。フランスから訪れていたとある商人がビアンカをいたく気に入り、彼女をパリ一と称されるキャバレーに勧誘したのだ。
そんな話など露知らず、その日もセドリックは愛するビアンカの為にディナーを作って彼女が帰ってくるのを待っていた。彼女の大好物であるアクアパッツァを眺めながら、ずっとずっと待っていた。
しかし、とうとう彼女がセドリックの元へ帰ることはなかった。
「それからというもの、兄は女の人を信用しなくなりました」
「結構キツイ話だなあそりゃ。初めてお兄さんに同情したよ」
「ビアンカさん、愛する人を捨て置いて違う人に付いていくなんて……本当に愛してたのかな。ねぇ、ルカはどう思う?」
ニノンが話を振ると、ルカは最後のぶどうジュースを飲みほしてサラに質問を投げかけた。
「サラさん、最初に言ってた壁のポスターっていうのは、ビアンカさんですか」
「ええ、フランスの商船に乗っていた有名な画家の方が、キャバレーの踊り子を専門に描いていたみたいで。ビアンカさんを描いたポスターを、兄が記念にと購入したんです」
それも今では兄に睨み付けられる為だけに貼られているのですが、とサラは気の毒そうに付け加えた。先ほどまで興味のない素振りを一貫してきたルカの瞳に、エンジムシを追いかけていた時のような欲の焔が灯った。
「それ、見せてください」
「え? あの、でも、そのポスターは兄の部屋に――」
「だったらお兄さんに交渉してきます」
セドリックの悲劇の物語を聞いている最中は地蔵のように全く動かなかったルカが、問答無用で相手を気圧す様を目の当たりにし、アダムは大層驚いた。なんなんだろう、こいつのやる気スイッチが入るタイミングの分からなさは、と。
「ちょい待てって。何でポスターにこだわるわけ? そこを責めてもお兄さんに恋人ができる訳じゃあるまいし」
「――その、ポスターを描いた画家」
「うん?」
「すごく有名な人かも。だったら一度この目で見てみたい」
それは、完全に個人的な欲求ではないだろうか。アダムが心の中で突っ込みを入れたところで瑠璃色の瞳に灯る青い焔は一向に衰える様子を見せなかった。
「私もルカについてく」
「は? お前まで何言い出しちゃってんだよ。そんなポスターのどこに解決の糸口があるっての」
「勘」
ニノンはすっぱりと言いきった。どうやら二人が今から再びあの強面を拝みに行く気満々らしい事にアダムは額を抑えた。
空っぽになったグラスがウェイターによって片づけられたのを合図に、アダムは席を立った。
「アダム、どこ行くの?」
「ちょっと情報収集にな。俺はあんな恐いシェフにのこのこ会いに行って報復されるのは御免だぜ」
そう言い捨てると右手でひらひらと手を振った。だが店を出ようとしてふと立ち止まり、アダムはくさい捨て台詞を吐いた。
「サラちゃん、ぶどうジュースのお礼にお兄さんのトラウマきっちり克服させてもらうぜ」
そんなアダムに対してニノンは冷ややかな目線を背中に投げかけたのだった。
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