第6話 ビアンカ

 その衝撃は突如としてルカの体を襲った。目前に鬼のような形相が迫っている。

「さっき払わなかった代金三人分、きっちり耳揃えてきたんだろうなァ、ええ?」


 筋骨隆々きんこつりゅうりゅうの腕で胸ぐらを捕まれれば、同年代に比べて小柄なルカの体はいとも容易く宙に浮き上がった。

「ま、待ってください……話があるんです、セドリックさん」

その瞬間、セドリックは驚きに小さな瞳をぐっと見開いた。


「どうして俺の名前を」

 セドリックは腕の力を緩めその小さな体を解放した。すかさずニノンは駆け寄り、苦しそうにむせ込むルカの背中をさすってやる。


 レストランはピーク時を乗り切り、扉には『CLOSED』の看板が掛けられていた。本日の夜間営業が材料切れにより休業になったからだ。従業員たちは制服を脱ぎ捨て、舞い込んできた午後のフリータイムの使い道を思い思いに考えながら帰路に着いていた。がらんとした店内にはルカとニノン、そしてセドリックしかいない。


「あなたのお部屋に飾ってあるポスターを見せてほしいの」

「――誰から聞いた」

 セドリックの怪物のような腕がニノンに伸びる。その時、騒々しい音を立てて店の扉が開かれた。


「兄さん、私が話したのよ」

「サラ! 余計な事を。乞食こじきの女にまんまと引っかかった間抜けな兄貴を笑いにきたのか?」

「お願い兄さん、この人たちにポスターを見せてあげて」

 それは悲痛な叫び声にも聞こえた。

 どうしてそこまでして、そんな反論がセドリックの表情に現れていたのだろう。サラは返答を待たずに続けた。

「こんなに真剣に話を聞いてくれた人たちは初めてなの。きっと何か変わるんじゃないかって――そんな気がして」


 店内がしんと静まり返った。時計の秒針がコチコチと時を刻む音だけが響く。

 しばらくの沈黙の後、セドリックは苦虫を噛み潰したような顔をして、「ついて来い」とぶっきらぼうに言い放った。ルカとニノンは顔を見合わせ、ほっと一息ついた。そして、サラが店に来てくれて本当に良かった、と思ったのだった。



 セドリックの部屋はレストランの上階に設けられていた。幅の狭い階段を上りきるとそこには申し訳程度の廊下と、廊下に面した五つの扉があった。部屋はみな同じ大きさで、他の四部屋は住込みの従業員に割り当てられているという。


「おじさんはどうしてあの大きい豪邸に住まないの?」

 豪邸の部屋数からして空きが無いわけではないのに、わざわざ六、七畳ほどの古めかしい部屋に住む必要があるだろうか。

「人の勝手だろうが。慣れれば過ごしやすい広さだ」

 開かれた扉の向こう、目的のポスターはすぐに目に飛び込んできた。ルカは思わずベッド脇に駆け寄った。


「やっぱり――ボードレールだ」


 非常に劣化の進んだそのポスターは、剥き出しの状態で四隅を画鋲により留めらていた。画の中央には深いブラウンのドレスを身に纏った女性が振り向きざまに妖美な微笑みを称えている。

 しかし全体的にもの暗く、傷んでいるのが一目で分かった。でこぼこと波打った版画用紙、色褪せた色彩、そしてひび割れの目立つ素肌の部分に乗せられた絵具。煌びやかで艶めかしいはずのキャバレーの女からは、どこか寂びれた物悲しい印象を受ける。


「ボードレールって?」

 ポスターを眺めるルカにニノンが尋ねる。

「有名な画家だよ。キャバレーで働く女性を描いたポスター画を多く手掛けてる。まさか本物をこの目で見られるなんて」


 しかし、とルカは眉根を寄せた。他の絵画と違って額縁に収めることのないポスター画は、傷みやすい運命を背負ってはいる。このポスターはそんな事情を差し引いても些か損傷が酷いように思えた。


「そんなに気に入ったなら持ってけや。俺には必要のねぇ代物だからな」

「そういう訳にはいきません」

 ルカは間髪入れずに断りを入れ、だけど、と続ける。

「もし良ければ、このポスターを修復させてもらえませんか」

「修復ったって、もう捨てようと思ってたモンだ。いらねぇよ。第一このポスターにそんな義理はねェ」

 セドリックがポスターの画鋲を抜こうとした時、少女の凛とした声が室内に響いた。

「じゃあどうしてずっと部屋に貼ってあったの?」

「それは、」

 ニノンの問いかけにセドリックは言葉を詰まらせる。

「せっかく買ったモンだし、剥がすのも面倒だったから――捨てなかっただけだ」

「違うよ」

 たじろぐセドリックをニノンはばっさりと切り捨てた。

「おじさんは捨てなかったんじゃない、捨てられなかったんだよ」

「お前に何が分かるってんだ、ええ?」

 ニノンは被さる影をものともせず、己よりも遥かに背の高い大男をきっと睨み付けた。

「分かるよ。だってそのポスターから聞こえるんだもん。『捨てないで』、『私を見て』って。おじさんもそんな視線を感じていたんでしょう?」

 そうしてニノンはポスターの中のビアンカに優しい眼差しを向け「ルカがなんとかしてくれるから、大丈夫だよ」と語りかけた。


 一同は騒然とその様子を見つめていた。絵画が何かを語るはずがない。だけれども、何故かニノンの言葉には説得力がある。まるで絵画と対話をしているようだ。信じられないことだが、彼女を介して物言わぬ静止のビアンカの叫びが確かに聞こえたような気がした。


 沈黙を破ったのはルカだった。

「そういう訳で、修復を任せてはもらえませんか? 必ず本来の姿に戻してみせます」

 セドリックはポスターの中の女性を見つめた。


――なんの断りも無く自分を捨てた女。

――そして、かつて自分が愛した女。


 あの頃の自分は彼女を幸せに出来ていただろうか。色褪せたポスターのビアンカに、舞台で輝けず一人傷付いていた頃の彼女が重なった。

 セドリックはポスターから目を外し、ルカの前で頭を下げた。


「頼む。こいつを綺麗な姿に戻してやってくれ」

「確かにご依頼、承りました」

 ルカも胸に手を当て小さくお辞儀をした。その様子を見届けて、ニノンとサラは顔を見合わせにこりと微笑んだ。





 絵具や洗浄液などで酷く汚れた黒地のエプロンを手馴れた手付きで身に着けると、ルカは邪魔にならないように両袖をぐいっとまくし上げた。レストランから拝借した大きな机の上に布を被せ、丁寧にボードレールのポスターを横たえる。

 そして、深く深呼吸を一つ。

 ルカは頭を下げ「宜しくお願いします」と挨拶をした。曽祖父そうそふから受け継がれる修復作業の合図だった。


 リュックの中から取り出され机に並べられた道具の中から大きな筆をルカの右手が掴み取る。空気を存分に含んだ柔らかな毛先を使い、表面のホコリを取り払ってゆく。


「ニノン、そこの大瓶取って」

「はい。これ何?」

「ふのりだよ」


 ふのりを煮詰めて作るゲル状の液体は僅かに黄ばんだ透明色をしている。道野家が代々愛用してきた糊だ。そしてそれは曾祖父の故郷日本に根付く伝統的な技術でもある。

 先の細い筆にたっぷりとふのりをつけると、それをビアンカのバリバリに割れてしまった肌の隙間へと滑らせた。枯れた素肌はあっという間に溝が埋められ、艶やかな若い女性のそれを取り戻してゆく。

 次にルカは持ち手のついた小さな機械を手に取ると、ポスターの上を流れるように浮かせてなぞった。温かい蒸気が辺り一帯をじんわりと蒸らしていく。

「す、凄いわ。あんなにでこぼこしていたポスターが、自ら真っ直ぐに……!」

 サラが感嘆の言葉を漏らした。版画紙がぴしりと姿勢を正して伸びゆく様はまるで奇術そのものだった。

 一同が呆気にとられている間にもルカは作業の手を止めない。今度はポスターの表面を幾らかメスで削り取り、先程よりも大きな機械を使って何やら作業をし始めた。時折「へぇ」やら「なるほど」などの独り言が呟かれるのを、サラ達は訳も分からぬまま見守るしかなかった。


 ほどなくしてルカはがばりと顔を上げた。何事か、とニノンがルカを見やると、その瞳は驚きと少しの興奮に円く見開かれていた。


「貰ってきてほしいものがあるんだ」

「何を貰って来れば良いの?」

「カフェでぶどうの皮を――それも、たくさん」

「皮? お腹減ってるなら食べられるもの丸ごと買ってくるけど……」

 意外なリクエストに冗談を込めてニノンが返すと、ルカは首を横に振って「いいんだ、皮だけで」と繰り返した。


 まるで自身の身体に天才画家ボードレールの魂が乗り移ったかのように、ルカには彼の意志が画上に鮮明に見えた。

 彼の描きたかったもの。

 彼女が描いてほしかったもの。

 ボードレールが十年前にポルトヴェッキオのしがないキャバレーで見た光景を、一抹の夢を追いかける情熱的な女性を蘇らせる為に必要不可欠なもの。


「それがあれば、修復は完了だ」





「一つ聞いて良いか」


 薬剤を染み込ませた麺棒でポスターの表面を撫でるように汚れを取っているルカに、セドリックがぽつりと言葉をかけた。サラもニノンも部屋を出て行ったきりだったので、反応を示す者はいない。


「どうして見ず知らずの俺の為にこんな面倒な事をするんだ」

 くるりくるりと表面を踊る麺棒の動きは止まらない。そこから目線を外さずにルカは答えた。

「別にセドリックさんの為じゃないです」

猪口才ちょこざいな。俺は人間ってぇのは何か裏のある生きモンだと思ってんだ」

「確かに。正直言うと、これはお昼の食事代の代わりです」

「フン、やっぱりな」

 腕を組みむくれるセドリックを見て、ルカはくすりと笑みを零した。

「嘘です。それも半分ありますけど」

「だったら残り半分はなんだってんだ」

「セドリックさんはどうしてビアンカさんを助けたんです」

 その言葉にセドリックは押し黙った。ルカは横目で彼を見、視線をポスターに移した。

「もう半分は、このポスターの為です。だって俺は――」


 クリーニングされ本来の輝きを取り戻しつつあるビアンカが、ポスターの中から色めいた視線を放つ。その右手に握られたオリジナルラベルのボトルも今や汚れが取り払われ、ラベルの文字までがくっきりと読めるほどに鮮明に蘇っていた。


「ただいま! たっくさん貰ってきたよ」

 その時、騒々しい音を立ててニノンたちが戻ってきた。彼女たちに続いてオレンジ色の髪の毛もひょっこりと現れる。

「ルカ、お前陰気くせェ恰好で地味に何をやってんだよ」

「また失礼なこと言ってる! 修復してるんだよ、ポスターの」

 ルカの代わりにニノンが応戦する。どうやら街中をふらふらしていたアダムをとっ捕まえて、重たい荷物運びを任せたようだ。

「絵画修復って今はもうほとんど誰もやってないって聞いてたけど、まさかお前、修復家なの」

「うん、まぁ。ついこの間まで見習いだったんだけど」


 それより運んできたぶどうの皮を早くよこせとばかりにルカはアダムに皮の入った袋を机に置くよう促した。用意された白いボウルの上で膨大なぶどうの皮をひたすら絞り込んでゆく。それを見ていたニノンが、サラが、そしてアダムやセドリックまでもが傍らに集まり無心で皮を絞った。

 紫色の液体はあっという間にボウル一杯になった。


 ルカは深く深呼吸する。ここからは寸分の乱れも許されない。ずり落ちてきた両袖を再度まくり上げる。光太郎から譲り受けた竹の柄の筆を握った。

 これで最後だ。もうすぐ終わる。そう心の中で呟いた。

 そして、ちゃぽり、と音を立てて筆先を紫色の液体に沈ませると、ルカは一気に動き出した。


「…………!」

 傲慢さなど一欠けらもない。だけど躊躇もない――そんな筆さばきが画上を踊る。ビアンカを包み込むブラウンのドレスに色が舞い戻ってゆく。深みのある妖艶なヴァイオレットが画面に返り咲いた。あまりにも無駄のない華麗な動きに一同は魅了された。

 そこにいたのは紛れもなく、ボードレールそのものだったのだ。


 最後の一筆を終え、ルカは静かに竹の柄から指を離した。そして、始まりと同じ深い一礼をポスターに向けた。


「修復完了です。ありがとうございました」

「すげぇ、まるで違う作品みたいだ」

「ビアンカさん、綺麗……」

 そこには彼女の本来の姿が映し出されていた。陶器のような滑らかな素肌に、上気した薔薇色の頬。誘う真っ赤なリップや挑発的な微笑みは、まるでそこに今でも彼女が生きているかのような錯覚を起させた。そして、何よりも違ったものは。


「こんなに美しい紫色のドレスを着ていたのね」

 サラはうっとりと呟いた。それはぶどう色の美しいロングドレスだった。

「ボードレールは普段ポスターには普通の油絵具を使う。油絵具はあまり劣化しないんだ。この絵は比較的新しい物なのに、傷みが激しいからおかしいなと思って」

「どうして傷みが激しかったの?」

 ニノンの問いに、ルカは先ほど皆で絞ったぶどうの汁を示してみせた。

「ドレスの表面からアントシアニンが検出されたんだ」

「あんとしあにん?」


 それはぶどうの皮等に含まれる紫色の色素の名称であった。空気中に触れることで徐々に蝕まれ、茶色く濁った色になる。

 説明を聞いても頭上に疑問符を浮かべ続けるニノンに「つまり、元々傷みやすい素材を使ってたってことだよ」と簡略的に答えた。

「でも、わざわざそんな素材を使ったのは何でなんだろうな」

 アダムの素朴な疑問に答える代わりに、ルカは修復を終えたポスターを手に、呆然としているセドリックにそれを掲げてみせた。


「ボードレールは、キャバレーという、世の中から見れば決して良くは思われない場所で働く女性の秘めた輝きを見つけるのが上手だったんです」


 滑稽こっけいだと笑われる時もあっただろう。だけど日が暮れ夜に包まれた世界で、そこは彼女達のメインステージとなった。一度扉を開けば煌びやかなライトに彩られた世界は男たちを魅了し、一夜の夢に現実は姿を消す。光を浴びるために、狭い世界で必死になった。そんな彼女たちの生き様を、ボードレールはポスターに描き留めたのだ。

 ぶどうの皮を使ったのも、ポルトヴェッキオのキャバレーでしきりに美味い酒を呑んだ思い出を形にして残したかった為だろう。ビアンカに酒とぶどうの紫は良く似合った。


「この辺りでは店々でオリジナルのぶどう酒を出すと聞きました。キャバレーでは高級酒を扱ってるとばかり思ってましたが」

 セドリックははっと目を見開いて、ルカからポスターを奪い取り、画面を凝視した。ビアンカの持つワインボトルのラベルには、確かにセドリックが働く店の名前が記されている。

 どうして、とセドリックは呟いた。こんな大衆レストランの作るワインを、キャバレーが仕入れるはずがない。


「絵画にはその人の本来の姿が現れます」


 二人の間にあったのは偽りでも何でもない。

 紛れもない愛に違いなかったというのに。


「俺は……どうすれば良いんだ。捨てられたんだぞ、あの女に! 恰好の悪い、最低な男じゃねぇか。愛してたならどうして――なぜ、行っちまったんだ……ビアンカ」

 皮の分厚い人差し指がビアンカの頬を撫でた。


「ビアンカさんに罪悪感が無かったとでも思ってるの、おじさん?」


 静まり返った部屋にニノンの鋭く尖った言葉が響いた。

「おじさんと一緒に過ごす日々は幸せだったけど、それを捨ててまで叶えたかった夢があったんだよ。おじさんも気付いてたんでしょ? いつか自分の元から居なくなる日が来るってこと」

「恋人を捨ててまで叶えたかった夢――やっぱり、愛してなかったんだよ、そんな理由で捨てられるってことは」


「人生は一度きりしかないんだよ!」


 ニノンの剣幕に、セドリックはおろかルカたちも彼女を凝視した。ニノンの口から突いて出る言葉には意志がある。ポスターに宿ったビアンカの意志が。


「辛い選択をして、夢に向かって歩いていく決意をした人を、いつまでも疑ってうじうじして。そんなことしてる方がよっぽど格好悪いよ」


 ニノンの、ビアンカの言葉が胸に突き刺さる。セドリックはずるずると床に崩れ落ちた。最愛の人、ビアンカの、悩める胸中に気が付けなかった自分が情けなくて仕方ない。

 肩を落とすセドリックの傍まで近づいたニノンは、目線を合わすようにしゃがむと、優しい声色でやんわりと語りかけた。

「ビアンカさんが何も言わずにフランスに行っちゃったのは、おじさんに期待を持たせない為だったんだよ。嫌いになった方が吹っ切れるって、思ったんじゃないかな」


 セドリックは二人で過ごした楽しかった日々を思い出した。

 勝ち気で自信家な彼女の振る舞いは、時に高飛車で傲慢ごうまんな印象を持たれ兼ねない。しかしセドリックは、ビアンカがその心の裏に優しさと不器用な気遣いを備え持っていることをちゃんと分かっていた。いや、分かっているつもりだった。


「おい、おっさん。聞いて喜べ」

 影を落とすセドリックの耳に聞こえたのは、自信に満ち溢れたアダムの声。

「ビアンカさんは今、パリで一番有名なキャバレーで人気の踊り子になってるそうだぜ」

 そうして「良かったじゃねえか」と笑った。遠い地で彼女はしっかりと己の信念を貫き、夢を叶えていたのだ。


「それを聞きに色んなお店をほっつき歩いてたの?」

「ほっつき歩いてたって、失礼な。れっきとした『調査』だよ『調査』」

「私たちに出会った時町の女の人に連絡先聞いてたのも『調査』?」

「お前、そんなとこまで聞いてたのかよ! ちょっとは俺の成果を褒めろよ」

 そんな賑やかなやり取りに、セドリックはふっと笑いを漏らした。

「確かによォ、終わったことでうじうじしすぎたな、俺は。行っちまった女今更引きずって、ちゃんちゃらおかしいぜ」

「兄さん……!」


 涙ぐむ兄妹をにこやかに眺めていたルカの元へ、ニノンとアダムがそっとやってきた。

「どうやら絵画だけじゃなくて、あいつらのことも修復しちまったみたいだな」

「俺が修復したのは絵画だけだよ」

 そう言ってニノンに目線を送った。恥ずかしげに頬を掻く少女の不思議な言動には疑問が残るが、今は一件落着したのだ。昼食代もクリアしたことだし、難しい話は後回しにしよう。


「皆さん本当に、本当にありがとうございます、何とお礼を言ってよいのやら」

「良いって良いって。サラちゃんが笑顔になったんだから」

 安い言葉にまんざらでもなく頬を染めるサラを見て、彼女の恋愛事情についても少々不安を募らせるニノンだった。





「ポスター修復をかって出てくれて本当にありがとな」

「そのポスター、これからどうするんですか」

 輝きを取り戻したボードレールの秀作『ビアンカ』を眺める二人。もはや寂れた物悲しさなど微塵も感じさせないような華やかな画だ。

「AEP発電所に送ってやるんだ」

「そう、ですか」


 〈AEP発電所〉とは、AEP――Art Explosive Power、つまり絵画を還元して作られるエネルギーを発電する場所のことだ。

 近年のほぼすべての画家はエネルギー還元の為に絵画を描く。まれに存在する絵画修復家は、過去に描かれたエネルギー還元の高そうな絵画を、より還元率が高くなるように修復するのだ。


「こんな狭っ苦しい部屋に貼られてたかだか一人の男に見つめられるより、こいつなら世界に評価される方が嬉しいだろうからな」

 なるほど、とルカは頷いた。この世には様々な考えが溢れかえっているはずで、己の意志を貫くならば、そのどれもが正しいのだろう。

 そしてセドリックの判断は、本人にとっても、絵画にとっても正しい選択なのだろうとルカは思った。


「もう行っちまうのか」

 当初は鬼の形相だったセドリックの表情は今や生まれ変わった様に柔和にゅうわで、その笑顔は父親にそっくりだった。

「ポルトヴェッキオでの用事も済んだので」

「おじさん、きっとまた素敵な出会いがあるよ。頑張ってね」

「サラちゃんとお別れになるのは寂しいけどな」

「アダムさん、皆さんも、どうかお元気で……」


 日の暮れかかった空は明るいオレンジ色から徐々に闇色が混じり始めていた。ヨットハーバーに留まる無数の船の穂先が影絵のように連なって、寂しげに映る。


「そういえば、さっき言い忘れてたんですが」

 ルカはセドリックに向き直った。どうして見ず知らずの他人をそこまで助けようとするのか。ルカは手助けをしたつもりなど毛頭なかった。ただ彼の思いは一つだけ。


「傷ついた絵画がそこにあったから修復した。それだけです。――これでも修復家の端くれなので」


 セドリックは揺るがない信念が瑠璃色の瞳に映り込むのを見た。こいつはいつか何かを成し遂げる。そんな予感を感じさせた。ルカはそんな蒼穹を瞼で閉じ、彼らを背に歩き出した。


「おい、今度この町来た時ァ腹いっぱい俺の店で食ってけや! 食い逃げなんざ企まなくても、いくらでもタダで食わしてやらァ」

「とか言って、またあんな恐ぇ顔で追いかけてこないでくれよ?」

「てめぇは別だ!」

「なんでだよ!」

 別れは賑やかな方が良い。きっと彼らはこれから自分の道を歩いていくだろう。少し先の再会を、早くも楽しみに思うルカ達だった。


「さ、行こうぜ」

「……ん?」

 日が暮れちまうだろ、と急かすアダムに違和感を覚えてルカははた、と立ち止まる。

「いやいや、なんでアダムも付いてくるの」

「はっ、確かに。アダムは私たちと関係ない人だったね」

「そんな寂しい事言うなよ。なぁ、ルカ?」

 馴れ馴れしく肩を組んでくるアダムの顔には何かを企んだような卑しい笑顔がへばりついている。馬鹿らしい言い合いを避けたいルカは、やんわり組まれた腕をほどいて断った。

「分かった。交渉しよう。次の町まで同行させてくれよ」

「お家があるなら帰りなよ、お父さんお母さんが心配する前にさ」

「違うっつーの。俺は旅人なの!」

 ニノンは驚き、それ以上反論する言葉が見つからないようだった。

「良い条件だと思うぜ。だってもう二度とあんなオンボロバスに乗りたくないだろ?」

 その通りだ。ルカはこの後に待ち受ける地獄の再来に密かに恐怖していた。焦らすアダムに眉根を寄せて視線を投げかける。

 するとアダムはポケットからチャリンと音を鳴らして細長い鍵を取り出した。


「俺、車持ってるんだよね」

「のった」

「ええ!」


 ルカの回答は即答だった。背に腹は代えられないといったところだろう。絶叫アトラクションにも引けを取らない醜悪な公共交通機関を人知れず楽しんでいたニノンにとっては残念な締結だった。


「で、どこに向かうわけ」

「とりあえずレヴィに戻る。父さんに報告しなきゃ」

「はいはいあの山のふもとのド田舎村ね。了解っと。言っとくけど俺の運転、すっげぇ快適だから。寝るなよお前ら」

「寝ちゃだめなのは、アダムが寂しがり屋だから?」

「おい、あんま調子乗ってっと乗せねーぞ」


 賑やかな会話を引き連れて、一行はアルタロッカ地方、ルカの故郷レヴィを目指す。



〈第二章 ムーランルージュの踊り子・完〉

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