2章 ムーランルージュの踊り子

第4話 出会いと再会

 長時間修復の作業をしていると、光太郎はよく「腰が痛い」とぼやいたものだ。そんなに顔を歪めてうめくほどの痛さなのか、と当時は訝しげに思っていたルカだったが、今ならその苦悩がよく分かる気がする。


 村人数人を乗せたおんぼろバスは、険しい山道を遠慮のない速さで進んでいた。

 時折現れるくぼみや石ころによって激しく車体が揺れ動くたび、文字通りルカの体は浮き上がった。山に沿って作られた道はいくつもの急カーブの連続で、運転手が手慣れた手つきでスピードも落とさず突っ込むので、乗客は幾度も遠心力に振り回された。予測のつかない衝撃の連続のおかげで体のあちこちが悲鳴を上げていた。


 険しい山道での滑走がしばらく続いたところでバスは急停車した。その反動で、ポールに捕まっていたにもかかわらず、ルカの体は座席からずり落ちた。

 どうやらやっと目的地に到着したらしい。乗客の様子を窺うと、ほぼ全員が顔面蒼白でげっそりとやつれている。「恐ろしい目にあった……」と呟く老婆はしばらく腰を上げる気力もなさそうだ。


 地獄の乗り物から這いずるようにして地面に降り立った。その瞬間、ぶわりと独特の匂いが風に乗ってルカの鼻腔を掠めていった。


「潮の香りだ」


 ふのりの詰まった紙袋を開けた時に香るものと同じにおい。けれど、紙袋から漂うものとは比べ物にならないくらい、この町は潮の香りで満ちている。

 ルカは浮足立つ気持ちを抑えて歩き出した。

 高くそびえる松の木林を抜ける。目前に拡がったのは、真っ青に透き通る美しい水の群れだった。風に煽られて白く泡ぶく波や、滑らかに伸びる絨毯のような砂が、太陽の陽射しにあてられてキラキラと輝いている。


「本物の海、これが……」


 ポルトヴェッキオ――美しい海岸線の続く港町で、ルカは初めて紺碧の大海原を目の当たりにしたのだった。



 地図を頼りにとりあえずバス停から町の路地に飛び込んでみたものの、石造りの町中はさしずめ立体迷路のようだった。パンパンに膨らんだリュックサックを揺らしながら、ルカは手元の地図と目の前の三叉路を見比べ僅かに眉根を寄せた。

 地図、といっても光太郎が書いた大雑把なメモだ。右手に海岸らしきものが描かれているのは分かる。ルカが先ほど目にした海岸線だ。そこから左手に進みいくつかの分岐路を曲がれば〈コルマンさんの家〉と書かれた、大きく丸の付けられたお宅に到着する。らしい。

 当初は五分もあれば到着するだろうと高を括っていたが、路地に入り込んでから優に三十分は経過している。


「このメモ、三叉路ひとつも出てこないし」


 ルカは項垂れ、ため息をこぼした。


 光太郎の修復家引退発言から一夜明けた翌日のこと、ルカは早速父の仕事を引き継ぐ羽目になった。それは修復が完了した絵画を依頼主まで届けるといった内容だった。届け先はポルトヴェッキオ。レヴィ村から一番近い、海の望める港町だ。

 こうしてルカは、多くの道が淘汰されたひどい地図を片手に、ポルトヴェッキオの町をさまようことになったのだった。


 せまい小道を曲がるたびに現れる石造りの建物は、どれも似たような色や形をしているので、同じところをぐるぐると周回しているような気分になる。海岸通りの賑わいが嘘のように一歩路地に入れば人一人にさえすれ違わない。おかげで道を尋ねることも適わない。

 あんまり遅くなってはコルマンさんの機嫌を損ねてしまうのではないか、という事がルカの気掛かりだった。


 気掛かりといえばもうひとつ、ルカは昨夜から森で出会った少女の行方を気にしていた。

 とうとうその夜、ニノンがルカの元を訪ねてくることはなかった。やはり無理にでも連れてくるべきだっただろうか。今頃まだ森の中をさまよっているのだろうか……。良からぬ想像ばかりが掻き立てられるのも嫌だったルカは、翌朝こっそり家を飛び出して森に向かった。しかしそこでもニノンの姿を見つけることは出来なかったのだ。


 いよいよ本格的に現在地が分からなくなったルカは、石造りの迷路の攻略を一旦諦めることにした。こう頭が煮詰まっている時は、時間を置いた方がいい。むしろ一人でさまよい歩くより、大通りに戻って人に尋ねた方が利口だろう。

 ニャァ、と脇道から顔を出した仔猫がひと鳴きした。ルカは仔猫の前にしゃがみ込むと、ポケットから栗のクッキーを取り出して、それを地面に置いてやった。美味しそうにクッキーを頬張る薄茶色の背中を眺めながら、とりあえずお昼ご飯を食べてからだな、とルカは思った。父親のマイペースな性格を少なからず自分も受け継いでいるということを、本人はまだ自覚していないのであった。



 *



「エビ五尾!」

「おいこっちにムール貝、できるだけ沢山!」

「オーダー入りましたあ、おまかせシーフードフライ三皿ー」


 海沿いのとある大衆レストランでは、野太い声や威勢の良い若手のコック、たまに気の抜けるようなホールスタッフの女の声が活気盛んに飛び交っていた。厨房と客席が繋がっていることもあって、シェフたちのやり取りが絶えずホールに響き渡っている。

 海に面した壁は柱を残し、すべて取り払われている。食事をしながら海を眺めるには絶景のロケーションだ。港の町のレストランという元気な雰囲気もさることながら、近海で獲れた新鮮なシーフードを使った料理はどれもこれも美味しそうなものばかりで、厨房から漂ってくる香ばしい匂いだけで涎が止まらなくなりそうだ。


 賑わう人混みに身を隠すように、はグリルされたシーフードを貪っていた。肩に届くほどに伸ばされた鮮やかなオレンジ色の髪も、このレストランに入ってしまえばさほど目立つこともない。

 ジューシーなエビの焼き身に舌鼓を打ちながら、少年は壁掛け時計に目をやった。時刻は正午過ぎ。一日で最も店が込み合う時間帯だ。しかも今日は天気が良いおかげで普段よりも客の入りが多い。

 少年は自分の立てた計画が成功することを確信して、人知れずほくそ笑んだ。


「すみません」

「え!?」


 急に声を掛けられて、少年は思わずむせ込んだ。

 青い瞳が印象的な黒髪の少年――ルカは、もう一度「すみません」と頭を下げた。


「今食べてるメニューってどれですか」

「あ、これ? グリルだよグリル。ただのシーフードグリル」


 少年は早口でメニュー名を告げた。ルカはお礼を言って、忙しなくホールを行き来するウェイターに少年と同じメニューを注文した。


――まったく、ビビらせんなよな。


 少年は心の中で愚痴をこぼした。

 彼は今から壮絶なミッションを完遂しなければならないのだ。ありったけのシーフードをたしなんで、店内の賑わいに紛れてお店を後にするという重大な任務を。これまで一度も失敗したことのない食い逃げを、見ず知らずのガキに邪魔されてはたまったもんじゃない。少年はぐっと気合いを入れ直した。


 ウェイターは隣の注文を厨房に持って行ったかと思えば、すぐさま引き返してきて間髪入れずに山盛りのシーフードグリルを手荒くテーブルに置いた。ファーストフードも驚く程の提供の速さだ。

 オレンジ色の髪の少年は最後の一口を食べ終え、ごくりとコップの水を飲みほした。後はこの賑わいに紛れて逃げるだけ。そう、逃げるだけ――。


「……おいてめェ、さっきから何やってんだよ」

「エビって食べたことなくて、殻の剥き方がちょっとわからなくて」


 先程から隣でエビの殻に奮闘するルカの姿がちらちらと視界に入っていた少年は、痺れを切らしてついつい口を挟んでしまった。


「ちょっと貸せ」

「え」


 皿の上のエビを一匹掴み取り、少年はその腕をぐっと前方に突き出した。


「まず頭を捥ぐ。で、腹を裂く。それからこうやって片方の足を掴んでぐるっと一周」

「おお、凄い」

「凄くないっつーの!」


 綺麗に剥かれたエビに余程感動したのか暫く四方八方から眺め回しているルカに、早く食べろよと少年が急かす。黒髪の少年はようやくかぶりついたエビをひたすら無言で食べ続けている。

 初めて食べると言っていた割に感嘆の声ひとつも聞こえない。さっさと店を出ていけばいいものの、なぜだか気になって少年は隣の顔を覗き込んだ。


「うめェかよ?」

「うん。おいしい」

「あっそう……そりゃよかったね」


 時間を無駄にした――少年は年甲斐もなく不貞腐れたように口先を尖らせた。


 時刻は三十分を回ろうとしていた。

 相変わらず寡黙に食事を続ける黒髪の少年を恨めしそうに睨んでから、少年は次のタイミングを見計らう為に店内をぐるりと見渡した。

 この店では過去二回食い逃げに成功している。二度あることは三度ある、である。少年は食い逃げについては確固たる自信とプライドを持っていた。レジに目をやれば、複数組の食事を終えたグループが支払いを待ちながらお喋りをしている。厨房から聞こえるシェフたちの怒号。忙しなく注文を受け皿を運ぶウェイトレス。

 今しかない、と少年は思った。大金持ちになったらいずれ返しに来てやるよ、なんて失礼も甚だしいことを思いながら再びほくそ笑み、席を立とうとした――まさにその時だった。


「食い逃げとは良い度胸じゃねぇか、ええ?」


 地鳴りのような男の声が店内に響き渡った。

 びくりと肩を揺らして咄嗟に視線を床に落とす。


――どうしてバレた?


 少年の頭は真っ白だった。


――いや、そもそも『食い』はしたが『逃げ』てはいないじゃないか。


 混乱した少年は音を立てて席を立ち、声を張り上げたと思しき強面のコックに向かって叫んだ。


「ちょ、ちょっと待て、俺はまだ逃げてないぞ!」

「ああ? お前もタダ食いしようってぇのか、ええ?」


 見ると、強面のシェフの目の前には赤いフードを被った小柄な少女が立ちすくんでいた。少年の顔から血の気が引く。まさか他にも食い逃げを企んでいる奴がいたとは、常習犯の少年にとってもとんだ想定外だった。

 一巻の終わりだ。少年がそう悟った時、少女がずいと一歩前に出て「ねぇ」とシェフに話しかけた。


「私タダで食べようなんて思ってないよ。ちゃんとお金は持ってるもん。ほら」


 少女は負けじとシェフに向かってコインの乗った両手を見せた。

 小さな銀貨が三枚と、銅貨が二枚。


「チップにもならねぇじゃねーか!」


 強面のシェフは一喝した。

 次に怒りの矛先が向いたのは少年だった。


「オレンジ頭もこっち来いや」

「く、くっそォ……これも全部お前のせいだぞ! お前が、お前がエビの殻の剥き方を知らなかったから!」


 少年はあらん限りの力を込めて隣に座る黒髪の少年を睨みつけた。だが、少年は別の方向に目を向けたままぎょっとしていた。


「ニ……ニノン? どうしてここに?」


 少年の視線の先には渦中の少女がいた。少女は黒髪の少年を見つけるやいなや、ぱっと嬉しそうな笑顔を浮かべ、のん気に手を振った。


「ルカ、ここにいたんだ! やっと会えた」


 隣で仁王立ちしていたシェフがぎらりと目を光らせ、ルカを捉える。


「おい、そこのガキ。てめぇも食い逃げ犯の仲間だな」

「え、いや――え? 食い逃げって……俺、ちゃんとお金は」


 払います、と言いかけたルカの腕を、オレンジ色の髪の少年はぐいっと引っ張った。


「逃げるぞ」

「は?」

「おいコラァ、ガキども!」


 怒りの雄叫びを背に、三人は――正確にはルカは引きずられて――店を飛び出した。強面のシェフが複数の雑用係を引き連れ、唸り声を上げながら追いかけてくる。何事かと振り返る町の人々の間をぬって、少年たちは必死に逃走した。


 *


 そうして例の石造りの路地に滑り込むと、少年を先頭に狭い小道を縦横無尽に駆け巡り、ついに三人は追っ手を撒くことに成功した。強面のシェフの怒号もすっかり聞こえなくなった。

 聞こえるのは三人の荒い息遣いだけだった。


「はぁ、良かったぜ。無事に撒けて」

「はぁ、はぁ、全然――よくないよ、はぁ」


 そう、全然よくないのである。ルカは食い逃げ犯の一員という濡れ衣を着せられた被害者だ。


「お金ってこのコインのことじゃないの?」


 ニノンは反省の色もなくしれっと手に握られていたコインを眺めた。


「ばっか。こんなの消費税だって払えねぇよ。何堂々と交渉しようとしてんだよ。おかげでこっちにまで被害が飛び火だ」

「なによ、私君みたいに悪いことしようって思ってしたんじゃないもん」

「結局は食い逃げなんだから良いも悪いもねぇっつーの」

「そんなことないもん!」


 まぁまぁ、とルカはヒートアップする二人の間に割って入った。


「取りあえず俺が三人分払う。お金は後で返してくれればいいし」

「っつっても多分あの量じゃ軽く三十五ユーロは超えてるぞ。持ち金いくらあんだよ?」


 己の無一文さを棚に上げて、少年はえらそうに問いただした。ルカはポケットから有り金全てを寄せ集め、石畳の上にぶちまける。一ユーロ、二ユーロ、五ユーロ……。


「……十ユーロ」

「足りねぇじゃねーか」


 ムッとしたルカは少年にも有り金を出すよう抗議した。

 結局、寄せ集めても二十ユーロ程にしかならず、食事代を支払うには到底足りない金額だった。


「私のお金も入れたら足りる?」

「てめェのそれは首飾りにでもしとけ!」


 言いあう二人を余所に、ルカは考え込んでいた。

 お金がないなら作ればいい。せっかく「道具」も持ってきたことだし、依頼さえあればなんとかなるはずだ――そう結論付けて、ルカは立ち上がり二人に告げた。


「三十ユーロ稼ぐ方法を思いついた」

「マジで?」


 少年は罵るのをやめた。


「どうやって? マジックでもするの?」


 ニノンも喚くのをやめた。


「でもその前に」


 と前置いて、ルカはポケットから光太郎のあべこべなメモ用紙を取り出して少年に渡した。


「コルマンさんって人に届けなきゃいけないものがあるから、それが終わってからだ」


 案内してよとルカは少年に視線で促した。オレンジ頭の少年はその不親切な地図を暫く眺めた後、ああ、とひとつ頷いた。


「この家なら知ってるぜ。案内すればきっちり三十ユーロ稼げるんだろうな」

「うまくいけばそれ以上」


 マジかよ、と少年は呟いた。そしてにやけた口元を右手で隠すように抑えるとコホン、と咳払いをした。


「俺はアダム。アダム・ルソーだ。よろしくな」

 そう言ってアダムは右手を差し出した。

「道野琉海。ルカでいいよ」

 ルカは少し躊躇してから、差し出された右手を握り返した。

「私のことはニノンって呼んで」

 二人の握り合った手の上に両手を乗せ、ニノンはぎゅっと力を込めた。


「よっしゃ、どんな作戦か分かんねぇけどガッポリ稼ごうぜ、ルカ!」

「稼ごー!」


 ずいぶんと盛り上がる二人を尻目に、早速趣旨が変わっていることに不安を隠しきれないルカであった。

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