第3話 絵画修復家

「僕にはやっぱり絵を見る才能がないみたいだ。あの絵画の点々、何だと思う? 父さんは最初虫か種かと思ってたんだけど――花びらなんだ」


 湯気の立つ猪のスペアリブにかぶりつきながら、光太郎は楽しげに語る。

 革張りのソファの向こう側にある小さなコーヒーテーブルの上には、トースト程の大きさの(正確に言うと二十センチ四方の)小さなキャンバスが置かれている。描かれているのは色鮮やかなレモン色の花びらが舞う快晴の風景であって、決して虫が空を飛行していたり、誰かが篭の中の種をばら撒いたような絵ではない。

 だがそんな事は、ルカにとってはどうでもいい話だった。


「工房に行く事すっかり忘れてて、ごめん」

「そんなこと気にしてたのかい? 父さん別に、怒ってないよ」


 ルカは本当に真面目だなぁ、と笑いながら光太郎は輪切りのトマトにフォークを刺した。そんな豪快な食べっぷりを余所に、ルカはもう一度コーヒーテーブルの上の絵画を眺める。

 絵画を修復するチャンスを逃してしまった。経験値を蓄える機会を自ら潰した事が一生悔やまれる対象なのであって、父が怒っているか否かというのはあまり重要事項ではない。


「おおい、ルカ。父さん本当に怒ってないからね。それよりこのスペアリブ、すごく美味しいよ。ロザリーおばさんのお店にも負けないくらいだ。もう一本お代わりしようかな」


 ルカは無言で皿を取り上げると、キッチンに行って深底の鍋からまだ熱をもったスペアリブを数本引き上げた。湯気の立つ皿を光太郎に手渡してから、そのままテーブルの上に置かれたキャンバスを手にとる。


 薄く延ばされた空色の上に、厚い雲がたなびいている。まるで生き物のようにざわめく草原。舞い散る花びら。

 どれくらい昔に描かれた絵なのだろうか。鮮やかな色合いは時の流れを感じさせない。

 この小さなキャンバスの中には春が生きている。うららかな日差しの中を、一迅の風が吹き抜けている。


「それね、かなり絵の具が塗り替えられていたんだよ。普通の人が描くよりもずっと沢山ね」

「塗り替えられていた?」

「そう。よくよく調べていくと、構図は変えずに、同じ部分を何度も何度も修正していたんだ。構図や形は変えずにね。どうしてだと思う?」


 夕食を終えて、残ったリブの骨をゴミ箱に移しながら光太郎は問いかけてくる。

 ルカはまぶたを伏せて思考の海に沈んだ。

 修復の終わった絵画を一目見て「春の季節だ」と瞬時に理解できたのは何故だろうか。

 それは、まるで生命の息吹を祝福するように、あまりにも色鮮やかに空や草や花々が描かれているからだ、と思い至った。同じ構図を同じように修正しているなら、理由は一つしかない。


にこだわってたんだ」


 あたり、と光太郎は嬉しそうに指を鳴らした。

 命が眠る冬の季節が長いヨーロッパでは、春の訪れは希望だった。春になれば人々は皆外へ出てお祭りを開き、陽気な陽射しに飲んで歌って大騒ぎする。喜びに溢れる季節を表現する為に幾度も修正を重ねて完成させた絵画なら、画家が最も大切にしていたのは色合いだ。


「今でこそ絵画はエネルギー源に使われているけれど、昔は純粋にアートとして人々に慕われていたんだよ」


 地球に残るエネルギー源が枯渇し、絵画を源とした新たなエネルギーが誕生したのはおおよそ五十年ほど前の出来事だ。それまでは様々な画家があらゆる手法を駆使して表現を楽しみ、己の心で感じたものをキャンバスに書き残したという。


「現代じゃ近代以前のアーティストはタブー視されているだろう。大抵の人は生産性がないと言うけどね。父さんはそういう人たちが描くものの方が、アートの本来の姿なんじゃないかと思うんだよ」


 ルカは静かに耳を傾ける。そして、芸術家が付加価値を考えず、純粋に絵を描く世界に思いを馳せた。


「もちろん絵画が人類を助けたのは事実だし、僕らはきっちり恩恵を受けてる。こうやって普通の生活が続けられているんだからね」


 よいしょ、と光太郎はパンパンに膨らんだ汚れたリュックサックを棚の脇から持ち出して、コーヒーテーブルの上にどさりと置いた。


「ルカはどう思う?」

「俺は……」


 ルカは言い淀み、先に続く言葉を探した。

 この数年間、毎日のように修復に携わってきて感じたこと。


「傷付いた絵画があるなら直してやりたい。それだけだよ」


 光太郎は、墨を水で溶いたような灰色の瞳を柔らかく細めた。そして、その右手薬指にはめられていた鈍色の指輪を取り外すと、ルカを手招きした。


「これを指にはめて」

「指輪?」

「代々受け継がれてきた、いわば道野家の宝みたいなものだよ」


 幅が深くてくすんだ指輪は、長い年月を経て傷だらけになっていた。表面には不思議な模様が刻まれている。しずくの上の部分がクロスしたような形だ。しずくの中には寄り添うように二つの円が描かれている。

 薬指にはめると、指輪は仕立てたようにぴたりとフィットした。


「この模様にはどういう意味があるの」

「ああ、これは」

 と、光太郎はしずくの模様を眺めた。

「とある家の紋章だよ。僕らの家系と古くから繋がりがある」


 指輪が鈍く光った。そんな話は聞いたことがない。


「大事な話を二つしよう」


 急に声のトーンが下がったかと思うと、光太郎はいつになく真剣な眼差しでルカを見つめた。

 ルカは妙に心がざわつくのを感じた。今まで父親が『大事な話』と前置いて大事だったことなど、一度もなかったのに。


「もしもこの指輪と同じ紋章を持つ者が現れたら、なにがあっても護ること。――


 ごくり、とルカは生唾を飲み込んだ。


「って、僕も祖父に同じことを言われたんだけどね。結局三十五年間生きてきてこの紋章を身に着けた人に出会ったことなんて一度もなかったよ」


 そう言って光太郎は軽快に笑った。どうも真剣に話し続けるのは向いてないようだ。一気に肩の力が抜けたルカは、はぁと小さなため息をついた。


「一応覚えとく。それで、もう一つは?」


 すると何故だか光太郎は急にそわそわと身じろぎをしだした。うんん、と小さく唸ったかと思えば何かを言いかけ、また口を噤む。

 そんな父の不審な行動も気になったけれど、ルカはもう一つ気になるものがあった。テーブルに置かれたパンパンに膨らんだリュックサックだ。

 光太郎はゴホン、と咳払いをした。


「父さんな、その……修復家を辞めることにしたんだ」

「へえ、そう…………え」


 妙な単語が聞こえたな、聞き間違いだろうか、とルカは思った。


「えっと……今、なんて?」

「本日をもちまして、わたくし道野光太郎は修復家を辞めたいと思います」

「な――」


 ただし、と、ルカが講義をするより早く光太郎は声を張り上げた。


「これからは、息子・ルカが修復家として跡を継ぎます。大事な話は以上!」


 強引に話を終わらせて席を立とうとする光太郎の裾を、ルカは思いきり引っ張った。意味が分からない、と瞳で訴える。


「ちょっと待って。なんでいきなり、そんな」

「いきなりじゃないよ。ルカはもう十分一人立ちできるに値する知識と技術を持ってるし、いい頃合いだと思ったんだけどなぁ。それに――」


 一旦言葉を切った光太郎は、ルカの方に向き直ると、無邪気な少年の様な笑顔を向けた。


「父さんには叶えたい夢があるんだ」

「夢……」

 大人にも夢があるものなのか、とルカは思った。

「なに? 父さんの叶えたい夢って」

「いろいろ準備がいるんだ。その時になったら教えるよ。ルカもきっと気に入る」


 そんなに嬉しそうな顔をされるとさすがのルカも首を横に振ることなどできなかった。ただ、頷いた理由はそれだけではない。父の夢にルカも少なからず興味を抱いたからだ。


「芸術はなにもエネルギーを生み出すためのものだけじゃない」


 ふいに、光太郎はそんなことを言った。

 その言葉で一体どれだけの人を敵に回すだろう。五十年前のエネルギーショックを経験していないからだと年長者に罵られるだろうか。


「アートは、人の気持ちを仕舞っておくアルバムだよ」


 光太郎の瞳はどこか遠い景色を見ているようだった。うっすらと微笑みをたたえて、遥か彼方を見つめている。


「忘れたくない記憶を鮮明に思い出すために、僕らみたいな修復家が存在するんだ。そしてそれを共有したいと願った画家の夢を実現させるためにね。父さんはこの仕事を誇りに思うよ。ルカもそう思わないかい?」


 現実に戻ってきた父の、やはり墨を水で溶いたような灰色の瞳を見つめながら、ルカは今度は深く頷いた。

 その裏で、ダミアンに今朝言われたことを薄っすらと思い出す。彼の言うとおり、この親子はやはりどこか世間とはズレていて、浮いているのだろう。それでも構わない。どれだけ陰口を叩かれようが気にならないのは、きっと似たような想いを抱くなかまが側にいるからなのかもしれないな、とルカは思った。



〈第一章 記憶喪失の少女・完〉

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