第2話 記憶のない少女

 カシャン、カシャンと肩から提げた空っぽの虫かごを鳴らして、ルカはマキの森の中をさっそうと歩いていた。普段から感情の起伏に乏しいルカの瞳は、珍しくらんらんと輝いている。

 というのも、先ほどマリーからこんな他愛もない世間話を聞いたからだった。


『そういえば今朝、ゾンザにいらっしゃってる学者さんが大騒ぎしてたのよ。この付近の森で絶命したはずの昆虫を発見したって。虫って、こーんなに小さいらしいのよ。そんなに喜ぶようなことかしら?』


 マリーは人差し指と親指で奇妙な虫の小ささを強調してみせた。彼女にとって、絶滅した虫が実は生き残っていたことなんて、どうでもいいのだろう。

 ルカはなんとなく、虫の名前を尋ねてみた。


『なんだったかしら……たしか、エンジュムシ? だったかな』

『エンジムシだって?』


 ルカの瞳が輝きはじめたのは、そのどうでもいい虫の名前を聞いてからだった。

 エンジムシは絵の具の元である顔料になる。体を擦り潰せば、鮮やかな臙脂えんじ色の顔料が手に入るのだ。太古から重宝されていた色だったが、エンジムシが絶滅してから天然のものは流通が途絶えていた。

 いても立ってもいられない、という風に、ルカは駈け出す。


『ルカ、まさか森に行くの?』

『一目見たら戻ってくるよ』

『あ、ちょっと――』


 ルカってそんなに虫が好きだったかしら、と、マリーは不思議そうに首をかしげた。


 *


 そんなわけで、ルカは今まさしくごくごく小さな虫を見つけるのに血眼になっている最中だった。


 村の側に広がる〈マキの森〉は、むせ返るほどの濃い緑と青いスパイスの香りで溢れていた。マキというのは様々な種の植物群の総称のことである。葉の形状も背丈も、色も大きさも全然違う。迷彩柄のような背景の中に、紛れる臙脂えんじを探してルカはさまよった。


 しばらく歩き続けていると、ふと視界の一角に変化を感じた。茂みの中に苔むした岩のようなものが潜んでいる。それもかなり大きい。不思議に思って、ルカは生い茂るマキの枝を手で掻き分けた。岩はいくつも積み重ねられ、まるで柱のように上まで伸びている。


――柱……門?


 それは古い時代の石門らしかった。ここに至るまでには道らしい道もない、しかも生い茂る深い森である。きっと誰の目にも留まらないまま、茂みの中で眠りについていたのだろう。ルカは誘われるようにしてアーチをくぐった。


「……遺跡……?」


 そこには、まさしくそう呼べそうな石造りの建物が、マキに護られるようにひっそりと佇んでいた。

 やはり人が出入りした痕跡はない。湿気を帯びてじめじめとした空気によって、積み上げられた石の表面はびっしりと苔むしている。もうお昼過ぎだというのにこの遺跡一帯は薄暗く、どこか神秘的な雰囲気を保っている。

 まるでここだけ時間が止まっているみたいだ。

 風が凪いでいるからだろうか?


 ゆっくりと遺跡に近付いた時――ルカの目は、ついにそれを捉えた。

 真っ赤な身体の小さな虫が数匹、岩肌にむした苔の上を這うように歩いていた。文献でしか見たことのなかったエンジムシは、その名の通り美しい臙脂えんじ色をしている。

 ルカは見失わないようエンジムシにぴったりと視線を合わせ、そっと虫かごの蓋を開けた。忍び足で近づき、両手をゆっくりと差し向ける。タイミングを見計らい、ごくりと生唾を飲み込んだ時――。


「きゃあ!」

「うわっ」


 あと少し、というところで思いきり何かにぶつかった。少女の声とともに、何かが地面に倒れるどさっという音が立て続けに聞こえた。こんな村はずれの森の中に、まさか自分以外に人がいるなんて、ルカは思いもしなかった。

 驚いたのもつかの間、ルカはハッと我に返って声のした方を覗きこんだ。遺跡の壁にぽっかりと空いた穴――というより扉のない入り口の奥に、茶色いショートブートを履いた足が見える。


「いったあ……」


 座り込んでいたのは女の子だった。赤いポンチョのフードをすっぽりと被っており、しかも下を向いているので顔は見えない。倒れた時に打ったのだろう、腰の辺りをさすっている。淡い黄色の膝丈のワンピースから伸びる足にも、袖から見える手にも、パッと見たところ怪我はない。ルカはほっと胸を撫で下ろした。


「ぶつかってごめん。大丈夫?」


 ルカは手を差し伸べて少女を引っ張り起こした。小さくて柔らかい手だった。


「ありがとう」


 少女は微笑んで、フードを取った。

 葉の間からちらちらと落ちてきた木漏れ日が、少女の髪の毛を美しく照らし出す。

 それは世にも奇妙な撫子色をしていた。眉上で切りそろえられた前髪も、肩まで伸びた髪もすべてが一様に、今まで一度も目にしたことのない色に染まっていたのだ。

 だというのに、ルカはなぜだか不可思議な感覚に襲われていた。


――この子、どこかで見たことがあるような気がする。


 しかし、いくら昔の記憶を辿ってみても出会った記憶などまったくない。忘れているということもないだろう。なにしろこんなにも特徴的な髪色をしているのだ。一度でも会ったことがあるならば、そうそう忘れやしないはずだ。

 だったらこの不可思議な既視感は何なのか。ルカが人知れず首を傾げていると、少女が一歩近づいてきて、顔を覗きこんできた。


「ねぇ、私たち――どこかで会ったことがある?」

「え?」


 どきりとルカの鼓動が脈打った。そんなはずはない、とすぐには否定できなかった。オカルティックな現象を信じているわけではないが、既視感が脳裏に薄くへばりついたままで消えてくれないのだ。


「会ったことは……ないんじゃないかな。記憶にはないけど」


 ルカはなんとも歯切れの悪い言い方をした。


「そっか。そうだよね。私の勘違いだったかも」


 屈託なく笑う少女の動きに合わせて、撫子色の髪の毛がさらさらと揺れる。木漏れ日が当たった部分が黄金色に光る。撫子色に、一筋の黄金色……。

 その途端、ルカの頭を支配していた既視感の正体がはっきりとした。


「でも、その髪の毛の色には見覚えがある」

「え?」


 ルカの眼裏まなうらに蘇る、真新しいコルシカ島の朝日。

 そうだ、晴れた日には欠かすことなく眺めていたじゃないか、とルカは思う。この島が作り出す芸術。いつかキャンバスに描いて手にしたいと思っていた、あの景色。太陽が目を覚ます直前の刹那の色……。


「この島の朝焼けの色が、その髪の毛と同じ色なんだ」

「朝焼け……?」

「うん。晴れた日の朝は、あんなに大きな空が一面ピンクになるんだ。すごく綺麗で――朝日、見たことない?」


 少女は曖昧に笑って、答えをごまかした。


「それってキレイ?」

「朝日のこと? 綺麗だよ、すごく」

「へえ、そんなに」

「今度早起きして見てみるといいよ」


 初めてあの朝焼けを目にするのなら、ことさら感動するに違いない。未知との出会いは常に刺激と感動に溢れているものだ。


「ねぇ君、名前は?」


 嬉しそうな顔のまま、少女が唐突に訊ねた。


「あ、えっと、道野琉海」

「みちのるか」

「ルカでいいよ」


 少女はルカ、ルカとオウムみたいに繰り返す。


「いい名前だね。キレイな音」


 ルカは今度こそ戸惑って、しばらく言葉に詰まってしまった。今までダミアンたちにからかわれることしかなかった名前だ。褒められた時、なんて返せばいいのか分からない。むず痒さを一掃するために、ルカは咳払いをした。


「君は?」

「私?」


 他に誰がいるというのだ。少女はなぜかしばらく悩んだ末に、落ち着いた声でこう答えた。


「ニノンって言うみたい」

「……みたい?」


 ニノンは腰あたりのポケットから真っ白なハンカチを取り出して、顔の前で自慢げに広げてみせた。ここを見て、と人差し指でハンカチの一角を指し示す。


「ニノン……って書いてある」

「そう、だから私の名前はニノンなの。覚えてくれた?」

「ああ、うん――じゃなくて」


 小さく首を振ってルカは否定した。だがニノンは彼が何かを口にする前に、あっけらかんと言い放つ。


「覚えてないの。自分のことも、それ以外も」


 愕然とした表情をしていたのはむしろルカの方だった。どう答えようか考えあぐねている様子で、しばらく沈黙が続いた。


「出身も、年齢も?」


 やがてルカはそれだけをぽつりと訊ねた。ニノンは小さくかぶりを振る。


「考えようとするとね、こう、意識がモヤーっとしちゃうの。まるで霧のお化けが記憶を食べちゃうみたいに」


 ニノンは両手でヘビのような口を作ると、パクパクと動かして霧で出来た化け物の真似をする。

「あ、でも」とすぐさま思い出したようにハンカチの入っていたポケットを弄り、くしゃくしゃに丸められた紙切れを取り出した。


「ダニエラって人に会いたいんだけど、知ってる?」

「ダニエラ?」


 ルカはしばらく空に視線をさまよわせた。十五年間暮らしてきたレヴィ村では、一度もそのような名前を聞いた覚えはない。


「いや、分からないな」

「そっか……ありがと」


――『ダニエラ』に会いなさい。


 角をちぎった様な古い紙の切れ端に残された殴り書き。誰が書いたものなのか、いつ書かれたものなのかは分からないが、今のニノンには唯一の手がかりとも呼べるメモであることには違いない。


「この近くに町はある?」

「この森を真っ直ぐ抜けるとレヴィって村がある。俺の住んでる村だよ」


 ルカは村のある方向を指差した。気がつけば木々の隙間から覗く空は、薄らとオレンジ色に染まり始めていた。耳を澄ませば鳥たちに混じって、ひぐらしが控えめに鳴いている。


 村の方角から、ゴォンと金属のぶつかる鈍い音が立て続けに鳴り響いた。木陰からギャア、ギャアと不気味な鳴き声を絞り出しながら、野鳥が暮れの空へと飛び立っていく。


「ねぇ、ねぇルカ! 今なんか、変な音がしたよ。しかも三回!」

「ああ、それは」


 村の高台にある鐘塔の鐘の音だ。毎日夕刻になると鐘を三度鳴らすのが、アルタロッカ地方に点在する村々の習わしだった。外に働きに出ている村人たちにとっては帰路に就く大事な合図なので、この鐘の音の意味を知らない者は、この近辺にはいない。


「この鐘が鳴ったら、皆家に帰って夜ご飯を――」

 そこで、ルカははたと気が付いた。

「まずい……すっかり忘れてた」

「え、なにが?」


 ニノンが不思議そうに首をかしげる。


「父さんに呼ばれてたんだ。工房に行かなきゃならなかったのに」


 と、胸元で乾いた音を立てる空っぽの虫かごが目に入る。結局、この森に足を踏み入れるきっかけとなった小さな臙脂えんじ色の虫は手に入らずじまいだった。落胆する気持ちを早々に切り替えて、ルカはニノンを振り返る。


「とりあえず村に行こう」

「え、いいの?」

「さすがに一人で森には放っておけないよ。第一危ないし」

「ありがとう! ルカ、優しい」


 一般的な倫理観だと思うんだけど、とルカが内心思っていると、ニノンは遠慮がちに視線をあたりにちらつかせた。


「もう少しこのあたりを調べたいの。それが終わったらルカの村に行ってもいい?」

「いい……けど、俺、今から急ぎで工房に戻らなきゃ」

「一人で大丈夫だよ。すぐに追いかけるから。えっと、ここをまっすぐ行くんだよね」


 ニノンの頼りなげな指は、しっかりと村の方角に向いている。不安を抱きつつ、ルカは控えめに頷いた。


「食べ物と寝る所なら用意できるから。……あの、本当に大丈夫?」

「大丈夫大丈夫。また後で、よろしくね」

「じゃあ、また後で」


 ニノンは、彼女の置かれているシビアな現状を一瞬忘れさせるくらい明るい笑顔で手を振った。片手を挙げて応じたルカは、またすぐに再会できるだろうなんて軽く考えながら森を後にした。





 再び静けさを取り戻した森は思った以上に深く、寒々しい。さえずる小鳥達の鳴き声さえもどこか不気味に聞こえる。ニノンはぶるりと肩を震わせた。


「私、こんなところで何してたんだろう。風が気持ちよくて眠っちゃったのかな? なんて……」


 無駄に大きな独り言を呟きつつ辺りの詮索を始めた。

 夕暮焦れ時は時の移ろいが早い。そうこうしている内に森は強い赤みを帯びて、ニノンの視界を悪くする。節くれだつ古い巨木の根が地面から突出していることにも気付けないほどに。


「うきゃっ」


 ニノンは足を捕られ盛大に転んでしまった。

 その拍子にポケットにしまってあった紙切れが地面に転がり落ちた。


「やっぱルカのとこにいこう……」


はじめからおとなしくついて行けば良かった、とニノンは膝に付いた砂埃を払いながら後悔した。一人で薄暗い森の中を歩くのは少し怖い。

 しなびた古紙を拾い上げようとした時、ふと違和感を覚え、伸ばした手をぴたりと止めた。先程目にしていたものと同じような荒れた筆跡で、何か違う文字が書かれている。

 皺が平らになるように優しく手で古紙を延ばしてみると、幾分か見やすくなった文字が紙上に現れた。橙色に染まる古ぼけた殴り書きを解明しようとニノンは目を凝らす。


「みちの…………道野?」


 ガバッと顔を上げ、少年が走り去った方向を凝視した。


 少年の名前はルカ。

 ファミリーネームは『道野』。


 心臓がどくりと脈打った。ざぁ、と風が森を吹き抜け木々を揺らす。

 ルカに、もう一度会わなければ。

 頭の中で思考が繋がった瞬間、弾かれるように少女は森を駆け出した。

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