第1話 道野ルカ

 人里離れたマキの群生する森――マキの森。あたり一帯に、幾種類ものハーブが混ざり合ったような独特の匂いが立ち込めている。大小様々な葉が折り重なって出来た隙間から、太陽の光がちらちらと漏れていた。


 その少女は木の幹に背中を預けるようにして座り込んでいた。髪や瞳の色を隠すように、深紅のフードを目深に被っている。


 風がそよぐ。木の葉が擦れてカサカサと音を立てる。小鳥たちがそこかしこでさえずりあう。

 少女は黄色いワンピースの裾で揺れる萌葱色の木漏れ日を不思議そうに眺めていたが、ふと顔をあげてもたれかかっていた木の枝葉を見上げた。


 青みがかった緑に深いヴィリジアン、鮮やかな萌葱色。


 少女は木々が織り成す自然の万華鏡にゆっくりと手を伸ばし、手のひらで何度か光を遮ってみせた。指の動きに合わせて、陽だまりがまるで砕けた水晶の様に輝いた。


「きれい……」


 ぽつりと掠れた声がこぼれる。

 その時少女は

 世界には美しいものが存在するのだということを。


 しかし同時に気付いたのは、己の頭の中が空っぽだということだった。


 ここがどこで、今がいつなのか。

 何も分からない。


 照度の高い光の中にいるみたいに、少女の頭の中はどこまでいっても真っ白だった。


「私は…………誰?」


 誰ともなしに呟いた疑問は森のさざめきに紛れて、答えを待たずに消えていった。



 *



 大きな葉をめくると、そこには弾けそうなルビー色の果実が五、六個連なっていた。

 ルカは熟したトマトをもぎ取り、バスケットにしまい込んだ。今日の夕食は採れたてのトマト、それから先日仕留めた猪の煮込みと決めていたのだ。


 小高い丘の上にぽつんと建てられた丸太小屋。その隣の土地にはちょっとした畑がある。絶壁の切っ先で朝飯をすませた後、畑の様子を覗きにくるのがルカの日課なのである。

 食べごろの果実をすべて採り終えたルカは、目前に広がる急勾配の草原へと目をやった。

 茶褐色の毛並みの群れが悠々と草を食んでいる。放牧されたムヴラたちだ。


「レオ、ムヴラたちの様子を見てきて」


 ワンッと勢いよく吠えながら、レオはムヴラの群れに飛び込んでいった。見知った顔しかいないこの村で家の番をする必要は無い。だからレオはいつも牧羊犬としての仕事をこなしている。


 広大な放牧場の先端には木で出来た策がずらりと並んでいる。更にその奥にはこれまた広大な小麦畑が広がっていて、秋になるとそれはブロンドの髪のように黄金色に輝く。

 この村の自然が見せる、四季ごとに異なる景色が、ルカはとても好きだった。


 ピーヒョロロロロ――。


 鳥類の鳴き声が山脈に木霊する。ふと、ルカは小高い丘の上に広がる大空を仰ぎ見た。澄みきった青空に、王族鷲おうぞくわしが両翼を広げ旋回していた。



 地中海に浮かぶコルシカ島。世界の評論家から「最後の楽園」や「最も美しい島」と評されるほど、この島には手付かずの自然が数多く残されている。

 そんな中でも一際自然溢れる地区があった。険しい岩山連なる山間部アルタロッカ地方――そこに群する山村レヴィ。隆々とした峰にぐるりと囲まれた、狩猟と羊飼いの村である。


 比較的傾斜の緩い土地に立ち並ぶ家々から離れ、広大な牧草地の頂にぽつんと立つ丸太小屋。それが、ルカが父親と二人で暮らしている家だった。隣には別棟として修復工房が建っている。


「おはよう、ルカ。今日も早いね……」


 大きな欠伸をしながら、ルカの父親である光太郎が入り口からひょこりと顔を出す。真っ黒な髪の毛は寝癖によって爆発していた。


「母さん譲りだよ。その、日本のお役所さんみたいにきっちりかっちりしてるところはね。あんなに時間にしっかりしている人はこの島にはそうはいないよ」

「父さんと間逆だ」

「ついでに村一番のべっぴんさんだった」


 妻の話をする時、光太郎は決まって幸せそうな笑顔を浮かべる。

 ルカは時折、肖像画でしか見たことのない母親の姿を想像する。午後のまどろみのような柔らかい微笑みをたたえて、遠くからじっとこちらを見守っている――そんな姿を。

 数日前に修復を施した母親と子どもたちの絵画でも、たしかに母親はそのような表情を浮かべていた。


「……畑に水撒いてくるよ」


 ルカは思考を振り切るようにして、ドアの横に転がっていたブリキのジョウロを鷲掴んだ。畑の横に飛び出た蛇口を捻る。ジャラジャラと音を立てて、ジョウロの中に冷たい水が溜まっていく。


「それが終わったら工房においで」


 腕を組み、ドアの柱に寄りかかりながら、光太郎が優しげに声をかける。


「絵画の修理依頼? 調子いいね」


 いつもよりハイペースだなとルカは思う。片田舎で個人経営する修復工房に舞い込む依頼など、多くても月に二、三がいいところだ。

 うーん、と光太郎は曖昧に唸ってごまかす。


「あ、いや、そういえば一つ依頼が入ってたな。ご贔屓にしてくれてるポルトヴェッキオの商人さんがフランスで買い付けた、えーっと、なんだったかな……何かの種か――虫か――そういう類の油絵がね。今日届くんだったかな。まぁ、それは手伝ってもらうとして。いいかい、ルカ」


 やけに勿体ぶった物言いに、ルカはそっと眉根を寄せた。


「大事な話があるんだよ」


 光太郎の浮かべる笑顔は限りなく変わりのないいつものそれだったので、ルカは興醒めした。”大事な話”と前置かれて本当に大事だったことなど、ただの一度もない。

 大事な話、は光太郎の口癖なのだ。


 ルカは畑に戻り水を撒いた。濃い緑色の中にぽつぽつと混じる赤い丸が、水を弾いてキラキラと輝いている。すべての水を撒き終え、ジョウロを逆さまにしてトントンッと水滴を落としている時だった。


――コツン。


 何かがルカの後頭部に当たった。

 またか、と思ったが溜息をつく間もなくコツン、コツンと立て続けに背中や頭に同じような塊がぶつかってきた。足元を見れば手のひらサイズの小石が転がっている。


「ミチーノ! ちゃーん!」


 中途半端に声変わりした少年の声がくねくねと裏返った。複数の野次が背中に次々と投げ掛けられる。

 ルカは返答の代わりに声のする方へ振り返った。いつもの三人組がニヤニヤと下劣な笑みを浮かべて立っている。

 真ん中でふんぞり返っているのは村長の息子であるダミアンだ。傲慢でひん曲がった性格をしているからか、小山のような鼻も上向きにひん曲がっている。左右を取り囲むのは少々育ちすぎて子豚のようなフランクに、枝みたいにみすぼらしい手足のマックス。彼らはさしずめダミアンの取り巻きといったところだろう。


 ルカは石を投げた犯人であろうリーダー格のダミアンをじとりと睨みつけた。

 その瞬間少年たちからヒュウ、と嬉しそうな歓声が上がる。


「子猫のくせに威嚇いかくしてるぜ」

「今日もススだらけの真っ黒ひじき頭だ」

「ちんちくりんの異民族!」


 彼らは思いつく限りの罵声をやんやとわめき散らした。言われ慣れているルカには、彼らの嫌味など耳障りな雑音にしか聞こえない。


「ビビっちまって声も出せないか? 悔しいなら言い返してみろよ!」


 鼻で小さくため息をついて、ルカはもう一度冷ややかに彼らを見つめた。物言わぬ冷めきった視線に気分を害したのか、ダミアンの上を向いた山形の鼻がひくついた。


「な……なんだよその目は。気味わりーな。お前のそういうとこが不気味なんだよ。村の端っこでこそこそ暮らしやがって。この村の誰もが思ってるんだぜ。お前らが変わり者の異民族だってな!」


 その時、「こらァ!」と丘の向こう側から甲高い声が響いた。ダミアン達はびくりと肩を震わせて、揃って声の聞こえた方へ振り返る。


「ダミアン、フランク、マックス! またあなたたちなの?」


 そこには丘の先から赤茶のおさげを忙しく揺らして走ってくる少女の姿があった。右腕にはバスケットかごを、両手にからし色のワンピースの裾を鷲掴んでいる。


「なんだよマリー、またこいつの味方かよ。しょうもない女だな」

「しょうもなくて結構。ねぇダミアン、知ってる? お家の仕事を手伝わないでこんなところで寄ってたかってケチつけてる方がよっぽどしょうもない人間だって」


 マリーと呼ばれた少女は、ダミアンとルカの間に割って入るようにずんと仁王立ちした。レーズンのような小ぶりなチョコレート色の瞳が、己よりも随分と背の高い少年のたじろぐ瞳を睨み付ける。

 ややあって睨み合いに恨尽きたダミアンが視線を外すと、バツが悪そうに二人に背を向ける。


「けっ、どうかしてるぜ。こんなどこの血が混じってるかわからない奴と一緒にいたら厄介事が増えるだけって、わかんねーのかよ」

「厄介なのはあなたたちじゃない」

「フン。お前の父ちゃんに、お前がここで油売ってたこと言いつけてやる」

「どうぞご勝手に。私はれっきとしたお遣いでここに来てるもの。言いつけられて困るのはそっちでしょ?」


 ダミアンはぐぬぬと歯を食いしばる。やがて盛大に鼻息を鳴らすと「行くぞ!」と声を荒げ、取り巻き二人を引き連れて丘の向こうへと消えていった。


「ありがとう、マリー」


 仁王立ちのままダミアン達の消えた先を睨み付けていたマリーは、振り返るとにっこり笑みを浮かべた。


「本当に飽きないわよね、ダミアン。ルカも嫌だったらどんどん反論していいのよ。異民族なんて言いがかり、あんまりだわ。ルカはレヴィで生まれ育ったれっきとした島の民なのに」


 先程のやり取りを思い出したのか興奮気味にまくし立てるマリーに、ルカは苦笑いを浮かべる。


「でも俺にはおじいちゃんの――日本の血が混じってる。ダミアンの言うことも間違いじゃないし、言い合う気はないよ」

「でも……」

「面倒臭いけど、別につらくない。マリーみたいに味方もいるし」


 さっとマリーの頬に注した朱色の意味を、ルカはまだ怒っているんだなと解釈した。


「ルカって大人なのね」

 マリーは柔らかに波打つ草の上に腰かけた。ルカもそれにならって隣に腰を下ろす。

「でもやっぱり異民族っていうのは違うと思うわ。だってこんなに綺麗な瑠璃色の瞳をしてるんだもの」


 崖下の谷間から吹き上がった風が、ルカの前髪をふわっと揺らした。東洋人の持つ漆黒の髪の奥にきらめくのは、遥か彼方の青空さえも羨むほどの、瑠璃色の宝玉だった。


「この色、そんなにへんかな」


 父親の瞳の色は少し茶色掛かった鈍色にびいろをしている。レヴィの村人たちも、思えば茶色や灰色が多く、たまに緑色を見かける程度だ。

 マリーはぶんぶんと大げさに両手を振って否定した。


「全然おかしくないわ」


 むしろ逆よと、前髪によって少し隠れてしまった瑠璃色の瞳をうっとりと眺めた。


「ルカの目の色はラピスラズリよ。昔々、この島はラピスラズリの産地で有名だったって、歴史の授業で習ったでしょう?」


 ルカは何年も前の己の記憶を手繰り寄せて首をひねった。

 確かに以前、この島ではラピスラズリという鉱石の発掘が盛んに行われていた。純度も高く、自然の中で育まれた美しさには高額の値がつけられた。世界中で需要が高騰した結果、ラピスラズリはコルシカ島から姿を消したのだ。もう五十年以上も昔の話である。


「ラピスラズリはコルシカの繁栄の象徴よ。あなたは失われた宝を受け継いだのだと思う。だから彼らの言うことなんか気にしないで。きっと自分にないものをたくさん持ってるルカに嫉妬してるだけなんだから」


 そうなのだろうか。他人の心はよく分からない。嫉妬する意味も意義もルカには理解できなかったが、取りあえず曖昧に微笑んでおくことにした。


「そういえば今日はどうしたの?」

「ああ、そうね。うっかり忘れるところだったわ」


 マリーは立ち上がりスカートに付いた細かな草を手で払うと、「はい」とバスケットから大きな紙袋を取り出してルカに手渡した。


「漁師の叔父さんが特別に採れたって言ってたわよ」

「ふのりか! そろそろ無くなりそうだったんだ」


 紙袋を広げると新鮮な磯の香りがぶわりと立ちのぼる。中には半透明な紫色をした、細かい枝のような海藻が紙袋いっぱいに詰め込まれている。

 マリーの叔父はポルトヴェッキオという港町で漁師を営んでいるらしい。たまにふのりを採ってはマリーによこしてくれるのだという。山の中にあって海など生まれてこの方目にしたこともないルカにとっては、海藻を分けてもらえるルートがあることはとても有難かった。


「ねぇ、いつも思うんだけど、そのヘンテコな海藻……食べられるの? 少しグロテスクよねぇ」

 マリーは精一杯我慢しているようだが、眉間に寄った皺を隠しきれていない。

「これは修復作業で使うんだ」

「お父様のお仕事の? 海藻を使うの?」

「うん」

「なんだか想像つかないけど、大事なものなのね」

「これがないと作業できないから。いつも助かってるよ」


 ルカはお礼にと先程採ったトマトと、丸太小屋の脇に生える栗の木から採った栗で作ったパンを、重くならない程度にマリーのバスケットに詰め込んだ。


「私、ルカの焼く栗のパンが本当に大好きなの。だからいつもゾンザからレヴィに向かう途中で、朝食や、昼食の想像をするのよ」


 マリーは隣村ゾンザの村長の娘だ。もっと高級な栗のパンなどごまんと口にしているはずなのに、こうして質素なパンについて笑顔を欠かさず称賛してくれる。その気遣いがルカには嬉しかった。


「このトマトだってとっても甘そう。トマト嫌いな父さんも、これならきっと――」

「マリー」

 不意に名前を呼ばれ、マリーはん、と口を噤んだ。

「今度、お礼に絵を描くよ」

「……いいの?」


 ルカは頷いた。普段からマリーには十分過ぎる程お世話になっているのだ。お粗末なパンだけでは到底恩返しにならない。


「嬉しい! とっても嬉しいわ。本当に?」

 ルカはもう一度頷いた後、大したものじゃないけど、と付け加えた。

「どんな絵が良いかな」

「ううん、そうね」


 顎に手を添えて十分唸ったあと、つぶらな瞳をぱっちりと見開いて、明るい声で告げた。


「ルカの描きたいものが良いわ。それが一番素晴らしい絵になると思うの!」

「一番」

「飼ってるワンちゃんでも良いし、夢の中の風景でも良いわ。とにかく今一番描きたいものを描いてほしいの」

「考えてみる」


 頷いた後、ふと思いたってルカは言葉を付け加えた。


「少しのエネルギーにもならなかったらごめん」

「そんなの、関係ないわ。その気持ちが嬉しいんだから」


 まだ起こってもない残念な方の結末に対して謝る姿を見て、マリーはくすっと笑った。

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