コルシカの修復家
さかな
1章 記憶喪失の少女
序章
進化をやめた瞬間から、人間はテクノロジーなしでは生きられなくなった。
あるいは、テクノロジーに飼い慣らされることを選んだ瞬間から、人間の肉体は進化を捨てたのであろうか?
人々は今やそのどちらをも放棄してしまっている。
進化を諦めた先に待つのは衰退のみである。果たしてどれほどの人間がその危うさに気付いているだろうか。
進化を忘れてしまった身体を庇うように、脳は知的欲求に駆り立てられるままに、生き残る技術を進歩させていった。
あらゆる思考、思想のもとに、技術進化の道は探られてきたのだ。
そう、かつて人間とは、そういう生き物だった。
――グレン・サンダース
ガサッと音を立てて、絵の具汚れのこびりついた手が古新聞を一束分ひっさらう。片隅に掲載された物好きなコラムには目もくれず、黒い髪の少年――
「おにいちゃん、なにやってるの?」
「こら、邪魔しちゃダメでしょ」
おぼつかない足取りでルカの元までやってきた幼い少女を、母親が慌てて抱きかかえる。
「どうして紙に風をごーごーしてるの?」
「それがお仕事なのよ」
すみません、と頭を下げる母親に、ルカの父親である
「好奇心旺盛なのはいいことですよ。ご依頼いただいた絵画はもうすぐ完成しますから、それまで自由に見学していってください」
「そんな、お構いなく!」
ルカはひと通り絵画の表面に風を吹きつけると、ブロワーのスイッチをOFFにした。紙に記された修復項目をはじめから入念にチェックし、漏れがないことを確認する。
作業自体はこれですべてだ。隣に立つ父の許可が降りた。あとは絵画を額縁に収めればおしまいだ。
「修復完了です。ご依頼ありがとうございました」
ルカは絵画をくるりと反転させて、母親にそれを手渡した。
木漏れ日の中で笑いあう親子の絵だ。自身の腰ほどしかない三人の子どもたちを、両手いっぱいに抱きすくめる母親。彼女たちはまるで『幸せ』を体現したかのような笑顔を浮かべている。
埃や酸化、乾燥によって薄汚れ、ひび割れていた画面は、画家が筆を置いた時代にまでさかのぼり、新しく生まれ変わっていた。
道野修復工房には、こうして傷ついた絵画が運ばれてくる。時代とともに劣化する絵画を、あらゆる技術を駆使してもとの状態に戻すのが
「おじちゃんたちはどうして絵をきれいにするの?」
無垢な瞳が、絵の具や洗浄液で汚れたエプロンを羽織る男を一心に見つめる。光太郎はやわらかく微笑み、少女と目線が同じ高さになるようしゃがみ込んだ。
「この絵が『治してよー』って、泣いていたからだよ」
少女はよく分からなかったのか、「ふーん」とあいまいな相槌をうつ。それから、母親のもとまで駆け足で戻っていった。母親は左手に少女の手を、右手に絵画を抱え、去り際に何度も頭を下げた。
枯れ草色に染まる牧草の向こう側に、真っ赤な太陽が落ちていく。高炉でドロドロに溶かされた鉄の塊のようだった。その上を飛んでいく王族鷲のつがい。丘を下った先に見えるぽつぽつとしたオレンジ色の屋根。煙突からひげ根のように立ち昇る白いけむり。
二人は工房の前に立ち、草原にのびる影が見えなくなるまでその背を見送った。
「父さんって、絵画の声が聞こえるの」
しばらくして、声変わりの始まっていない声が抑揚なく尋ねた。ゆるい風が、少年の黒髪を優しくなでる。
「ああ、さっきの。『絵画が泣いていた』って話かい?」
汚れを取り払われ美しさを取り戻した絵画は、ある特殊な装置にかけられる。そこで絵画のもつ美しさは
AEP発電装置――オンファロスは、人間が自ら生み出したものがエネルギー源になるという、まさに夢のような装置だ。地球に埋蔵されたエネルギー源が枯渇してから、人類は生きるために必要な電力のほとんどをこのAEPでまかなっていた。
だから、修復を施すのは絵画がかわいそうだからではない。エネルギーを生み出すためなのである。
「ま、夢があっていいじゃないか」
「無責任だな」
エネルギーに還元されるとき、絵画は放出される力によって跡形もなく消し飛んでしまう。絵画の中で笑う親子の姿を見るのは、きっとあの母と幼い少女が最後になるのだろう。
かわいそうも何もあったもんじゃないよな、とルカは無表情の裏でぽつりと考えた。
*
ルカの朝は早い。
朝六時きっかりに目を覚まし、着古されたつぎはぎだらけのグレーのパジャマを脱いで、ポケットのたくさん付いたカーキ色のダボついたズボンに豚皮のベルトを通し、黒い長袖シャツとベージュのリネンシャツを頭から被る。
それから机の上に放り出されていたバスケットに、バゲットと
主人の身支度の音に目を覚ましたコルシカ犬のレオが、ベッド下からのそのそとはい出てくる。レオはいまだ寝ぼけ眼のまま、空気の抜けたタイヤのような声で「わふっ」とひと声鳴いた。
「起きたか、ねぼすけ」
「はふっ」
ベッド脇にある小窓のカーテンをシャッと引く。窓の向こう、墨を塗りたくったような夜の端っこから、すでにグラデーションが始まっていた。
もうじき朝がくる。
コルシカ島に、朝がくる。
ルカと飼い犬のレオは家から飛び出し、明けはじめる闇の中を目的地に向かって一目散に駆け抜けた。朝露に濡れた草を踏むたび、緑の匂いが弾けとぶ。丘を下って牧草地を横切り、また少し登った先に、その場所はあった。
切り立った崖の端っこ。真向いには、岩肌をむき出しにした
ここは朝焼けを望むにはうってつけの場所で、村ではきっとルカとレオしか知らない特等席だ。
ルカは普段から座りすぎて草が少し薄れた場所に腰を下ろし、冴え冴えとした空気を肺いっぱいに吸いこんだ。隣に伏せたレオは、前足でカリカリとバスケットを引っかいている。目的はもちろん朝食用に持ってきたバゲットとフルーツだろう。
ルカは彼の頭を撫でながら、前方の空へと目を向けた。
それまでうす暗かった空が、みるみるうちに透き通ったピンク色に染められてゆく。牧草地の何十倍、何百倍もある広大な空が、何の抗いもなく、あっという間に。
父親は以前この朝焼けを目にしたとき、「空いっぱいの
撫子。それは祖父の故郷、日本に咲く可憐な花の名前なのだという。
それを聞いたとき、ルカは確かにそうだ、と思った。これは撫子色だ、と。
きっと、身体を巡る
すべてが撫子色に染まった空と岩山の隙間に、チカッと閃光が走った。
神が放った黄金の矢、あるいは秋の空の下でたなびく麦の穂のようにも見える。
真正面にそびえ立つバヴェラ
コルシカ島の朝は一枚の絵画から始まる。
それはすべての空を覆う撫子色のヴェール。
そしてそれを貫く一筋の黄金色。
人は、人が何かに触れたときに感じる感動を抑えることはできない。
その感情を形にしたあらゆる芸術もそうだ。
誰にも止められやしない。もちろん、神でさえも。
「あ……スケッチ、また忘れた」
「くぅん」
明日もまた来ればいいか、とルカは悠長に朝食を食べはじめた。
焦らずとも、この島は消えたりしないのだから。
道野ルカ、十五歳。
修復家見習いの少年が運命の少女と出会う、前日のことである。
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