十五

 本当はアナンには、またU大学に行って、さらにシミック研究室のことを調べてみたいという気持ちもあったが、あの保管庫に行くということはゼブリンに会うということを意味する。アナンはどうしてもゼブリンと会うのに気が重かった。もう一度会えば、必ずこの前話したことについて聞かれるはずだ。アナンにはどう考えても結論が出そうにない。しかし、あの場に行ってしまえばゼブリンの迫力の前に、説得されかねないような気がする。モッドを全滅させるなど、とてつもなく恐ろしいことだ。しかし、クサーヴァとてこの街が発展の仕方を間違ったと言う。そして、そのためにこのナルチスシティが滅びることになると言った。その意味を深く噛みしめるのならば、あまりに過激ではあるけれどゼブリンのやり方は間違っていないのかもしれない。


 果たして、ゼブリンからアナンに連絡が来た。最後にゼブリンと会ってからちょうど二週間が経った頃だ。U大学の研究室からのテレビ電話だった。

「アナン、どうしたんだい? あれから連絡よこさないじゃないか。もう、シミック研究室のことは調べないのか」

「ゼブリン、久しぶり。最近ちょっとクサーヴァの映画制作を手伝っていて忙しかったんです」

「ほう、アナンが映画制作かい? そりゃいい身分だな」

 ゼブリンの言葉には少し棘がある。モニター越しの表情からも不快感が伝わる。しばらくしてから、ゼブリンは続けて言った。

「アナン、シミック研究室の資料は中々面白かったぜ。俺も、あんたに言われるまでシミック研究室なんてそんなに気にもしてなかったが、ちょっと気になることがあったんだ」

「──気になること……」

「ああ、これはシミック研究室の資料じゃなくて、U大学生物学科の教授会の議事録なんだが、シミック教授たちが大学を離れて島に移住した後も、衛星通信でシミック教授は島の様子を報告しているんだ」

「えっ、そ、それは本当ですか!」

「な、なんだい。その驚きようは。

 いや、まあいい。俺たちは、ゴルトムント島はシミック教授たちが移住するまで無人島だと聞いている。ところが、その報告資料では、島に元々住んでいた人々と話がこじれているなんてことが書かれている」

 アナンはついに、アンディが書いたノートのあの事実が、このナルチスシティで判明してしまう時が来たと感じた。アナンは慎重に、ゼブリンに質問を投げかけた。

「で、シミック教授の報告はいつまで続いているんですか?」

「報告は二〇一七年七月三十日で終わっている。衛星通信用の電源が故障したと書かれている。確かにそれ以来、報告会には何の報告もないし、数ヶ月後にはシミック研究室自体が学内の組織から削除されているからね」

 ゼブリンは軽く咳をした後で、さらに続けた。

「だがね、このゴルトムント島からの衛星通信のチャンネルがその後、別の研究室に接続された形跡があるんだ。その後、何年もね」

「それは、どういう意味ですか」

「おーっと、これ以上は話せないなあ。アナン、何か知っているんじゃないか? どうだ、こっちに来てまた話さないか。今日も明日も時間はOKだ」

 ゼブリンはどうしてもアナンと直接話をしたいらしい。無論、U大学に行ってゼブリンに会えば、また例の説得をされるに違いない。しかし、今ゼブリンの言った話は、ゴルトムント島の事件を明らかにする引き金になる可能性がある。それに、その後何年かに渡って、U大学と連絡を取っていたというのも初耳だ。

 アナンはゼブリンと一対一で話すのを覚悟した上で、翌日の夕方にU大学で会うことをゼブリンと約束した。


 秋も深まるこの北の地では、夕方五時ともなるともう夜の世界だ。街に賑わいの少ないナルチスシティは、夕日が翳る頃にはまるでゴーストタウンのようにひっそりとしていた。アパートメントのそれぞれの窓からは、カーテンを通してほのかな灯りが漏れている。アナンは外に出てそれらの窓を見上げた。この窓の内側で人々は一体何をしているのだろうか。顔が見えない人々の、隠れた活動に得体の知れない不気味さを感じてしまう。そう思った一瞬、アナンはぶるっと震え、思わずフローラが買ってくれた黒のコートの襟を立てた。自由利用車はすでにクサーヴァの家の前で止まっていた。アナンは一人で車に乗り込みゼブリンの待つU大学に向かった。

 アナンはU大学生物学科の玄関でゼブリンと落ち合ったその足でいきなり保管庫に向かった。今度はゼブリンも一緒だ。ゼブリン自身が今回の資料発見の整理係なので、一緒に入るのならどの資料を見ても問題ないらしい。早速、昨日話した教授会の資料を見てみると、確かにゼブリンの言うとおり、シミック教授からの報告がある。

 それによると、七月二十日に島が停電になり、島に元々住んでいた住民の不安が高まって、食料の配給をする羽目になったことが伝えられている。この折、一部の住民とトラブルが起きているようなことが書かれていた。その後に、発電機が壊れそうで、もう定例報告ができないかもしれないとシミック教授は報告している。

 これ以前にもシミック教授は二回ほど報告を送っているが、それは二回の報告はいずれも順調に事が運んでいることを単純に報告したものだった。そして教授会の議事録では、この報告の三ヵ月後、シミック教授の移住計画は失敗したものとして、研究室自体を抹消する決定が下されていた。

「それにしても、シミック教授の移住計画は秘密裏に行われたはずだが、教授会ではしっかり報告してたんだな」

「僕も、秘密にしていたって聞いてました」

「ただ、この議事録自体が秘密文書扱いになっているから、教授会の中だけはことの推移を見守ろうとしていたのかもしれない」

「──それで、その後もシミック教授が通信してたっていうのは……」

「ああ、その資料も見せてやるよ」

 ゼブリンが見せてくれたものは、四角い小さな箱だった。

「これは?」

「五百年前、電子データを格納するために使っていたハードディスクという装置だ。まあ、これだけ見てもしょうがない。問題はこの中に入っていたデータだよ。

 この中にU大学の当時の学内通信システムのアクセスログがある。この中に二〇一七年夏以降、ゴルトムント島と衛星通信で通信があったことを示す記録があったんだ」

「何をやり取りしてたか分かるんですか?」

「残念だが、それは無理だ。データはアプリケーション同士でやり取りしているからね。アクセスしたという事実しかわからない。しかし、時期を見ると二〇一七年の七月まで、ゴルトムント島から送信したデータがあることが分かる。ところがそれ以降、U大学が事実上機能しなくなっていた二〇二〇年までデータを受信していた形跡がある。

 恐らく、U大学側のネットワークが完全に麻痺するまで、ゴルトムント島からU大学の様子を調べていたのだろう。まあ、通信する手段があったのだから、それはあり得ないことではないが。

 でもそれなら、堂々とアクセスすればいいんだ。発電機が壊れそうとかいって教授会への報告をそれ以降しなかったのが、なんか意図的に思えないか?」

 もちろん、シミック教授らが紫の悪魔の蔓延状況を知るために、度々U大学の状況を調べていたのは納得のいく行為である。そして恐らく、村人の大量殺戮を決意した後、シミック教授は正式なルートでU大学と連絡を取らなかったのだ。

 ゼブリンはアナンに向かって、改まってまた話し始めた。

「なあ、アナン。歴史では無人島に行ったことになっているのに、島に元々住んでいる人がいたなんて初耳だぜ。君もえらくその辺りのことに反応するじゃないか。何か知っているんじゃないか?」

 いきなりゼブリンにそのように詰め寄られ、答えに窮してしまった。それが一層、ゼブリンには不審に思えたらしい。彼はまるで弱みを握ったかのように、アナンに質問をぶつけてきた。

「アナン、君がゴルトムント島から出てきたのには、何か重大な秘密があるんじゃないか」

「秘密なんて……、何もないです」

「クサーヴァが言っていたが、君がゴルトムント島を出た理由をどうしても言わないそうだ。そりゃ、気になるよ。クサーヴァはそのへん気を利かせて、うまく報告しているようだけど。マスコミの記事を見ても、アナンが何で島から出たのか、全然書かれていない。俺、『アナンのゴルトムント回想記』ちゃんと読んでるんだぜ」

 アナンは多少の覚悟を持って、ゼブリンにはっきり言った。

「いつかきちんと話します。ただ、まだ気持ちの整理が付かないんです」

「ほう、気持ちの整理か。

 俺が何を疑っているか分かるか? アナン、君はモッドと秘密に何かを企んでいるんじゃないか? 俺たちナットにとって、ゴルトムント島の人たちは心の拠り所だ。出来ることなら、ゴルトムント島に移住させて欲しいよ──。だが、それは無理だ。しかし、そのゴルトムント島の人たちがモッドと密かに通じていて、その上この街のナットをどうにかしようとしているなんてことがあれば……」

「それはあり得ない! 僕はF島で初めてナルチスシティのことを知ったんだ。それは絶対本当です。僕がモッドと通じて、ナットをどうにかするなんてあるわけない!」

 アナンは本気で怒鳴っていた。ゼブリンの被害妄想もいいところだ、とアナンは思った。しかし、ゼブリンがそう思うほど、彼はこれまで辛酸を舐めてきたのだろう。

「そうか、そうだよな。あるわけないな。俺の考えすぎだ」

 ゼブリンはそう言って、保管庫の出口に向かって歩いていった。出口まで着くと、アナンに保管庫から出るように手招きした。アナンが少し渋るようにしていると、「おい、閉めるぞ」と言うので、仕方なくゼブリンに従って出ることにした。


 結局その後アナンは、ゼブリンの研究室で二人きりで向かい合っていた。

「今日は、実はちょっと細工がしてあって、この研究室のセキュリティシステムは動いてないんだ」

「カメラも盗聴もないってことですか」

「ああ、もちろん。それから、君に例のモッド全滅細菌、名付けて『紫の天使』を完成させるところにお招きしたというわけさ」

「ついに完成してしまったのですか」

 アナンはやはり例の話に巻き込まれたことに、言いようのない不安感を抱き始めていた。「ゼブリン、やはり僕は関わりあいたくないんです。ゼブリンのことは誰にも言わない。今は、手伝いしようと気にはとてもなれない」

「わかってるよ、アナン。いきなり俺と同じ考えになれというのは無理だ。だから、とりあえずは邪魔をしてくれなければいい。この計画がうまくいったにしても、いかなかったにしても俺は捕まって死刑に近い罰を受けるに違いない。そのときは、俺を弔う語り部になってくれればいいんだ。アナン、もう一度言う。このモッドの世界は間違っているのだ。俺は、もちろん個人的な恨みが元になっているとはいえ、自分の行っていることは正しいことなのだと確信を持って言える。

 今モッドが死ねば、世界はゴルトムント島と、ナルチスシティに住んでいるナットだけになる。もう一度、これらの人間で手を取りあって新しい社会を作るべきだ。文明の時計の針を元に戻すべきなのだ。ゴルトムント島は正しい文明を作ったと俺は思う。今こそ、ゴルトムント島を見習って、我々ナットは正しく生きるべきなのだ」

 ゼブリンの言葉は今こそ完全にシミック教授の言葉と重なった。二人の思想は、時を超えて共振し合っていた。もちろん、ゼブリンはシミック教授の思想をよく知っているし、大変影響を受けているに違いない。そして、ゼブリンもまた、逆境に喘ぐナットたちを解放するために、この過激な行動に出ようとしている。

「アナン、あのボックスのガラス窓の向こうに試験管が五つあるだろう。そこには、すでに細菌が入っている。その中に、細菌を死なないようにさせ、試験管が開いた瞬間に強烈に気化して、細菌を飛ばすための薬品を注入すれば完成だ。どうだ、見ててくれたまえ。君が証人だ」

 アナンはこの瞬間が歴史の重要な一ページになるかもしれないと思うと、身震いした。世界はまたしてもリセットされるかもしれない。そして、その原因が今この場所で作られようとしている。

 ゼブリンはゴーグルとキーボードを使い、彼のエージェントを使って機械を動作させた。五つ並ぶ試験管の上部に、五つの管がついたアームが近づき、試験管のそれぞれの口に管がセットされた。そしてその管から、煙の出る液体が試験管の中に注入された。液体が試験管の長さの半分くらいまで達すると注入が終わった。その後、試験管には別のアームが近づき、蓋が回転しながら試験管に装着された。どの機械も小気味よく動作し、作業はつつがなく行われた。

 これまで作業が行われていたボックスのガラスのドアが開き、試験管が五つ、ボックスから現れた。ゼブリンは黒い二十センチ四方のケースを取り出し、このケースの中に五つの試験管を静かに格納した。

「紫の天使誕生だ。あとは、この試験管をしかるべきところで割ればいい」

 ゼブリンはそうやって、試験管を入れた黒いケースを持ち、不敵な笑みを浮かべた。得体の知れない魔力を持ってしまった人間の表情だとアナンは思った。

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