十二
アナンはその後、ナルチスシティの近郊に住むナットに関する情報をいろいろ調べてみた。ナットはナルチスシティの北部にあるノースナルチス区に住んでいる。
そもそもナットがナルチスシティに住みつく原因になったのが『グローバルスキャニング(GS)』であった。GSにより、ゴルトムント島に多くの人が住んでいることが発見されたのは前述の通りだが、この他にも文化的に隔絶された小部族民のいくらかが、紫の悪魔の脅威から逃れていたのである。しかし、ゴルトムント島以外の人々は、狩猟・採集による生活をしていて大規模な集団を形成するには至っていなかった。どの集団もそのまま放置しておけば、いずれ絶滅しかねない状況に置かれていた。
GSの後、世界中に発見された人類の生き残りに対して、ナルチスシティの人々がどのような対応をすべきなのか、大きな議論が沸きあがった。その議論の中では、ゴルトムント島にもナルチスシティの存在を知らせ、共に人類として生きていくべきだという意見もあったが、結局この島に移住したシミック研究室の意図を汲み、この島を人類の文明の発展過程を研究するための生きた研究材料にすることとした。もちろん、この決定は決して人道的とは言えない判断であろう。一部の人間を檻の中に住まわせ研究の実験台にしようということを意味するからである。しかし、ナルチスシティの人々は何より知性を愛していたから、人類にとって正しい選択を、なるべく合理的に判断しようという考え方が大勢であった。ゴルトムント島に住む人々が幸せを感じているのなら、わざわざ進んだ文明が島を侵食する必要はない。外側から彼らを観察することが学究的に必要であるのなら、そのようにするのが人類にとって正しい道である、とナルチスシティの人々は考えたのである。
しかしその一方、ゴルトムント島以外の人類に関しては、放っておくと絶滅しかねないということから、ひとまずナルチスシティに集結させるべきだという意見が起きた。その一方で、彼らは彼らのやり方で生き抜き、それが失敗するなら絶滅するのもやむなしとする意見もあった。これらの意見は解決を見ないまま、別の理由によりなし崩し的に彼らはナルチスシティに集結させられることになったのである。
その理由はナルチスシティ内での大きな技術革新が原因であった。このため、ナルチスシティでは工業製品を大量に作ることが必要となり、そのために多くの労働力が必要となった。最初のうち、世界各地にいた小部族民であるナチュラルピープル、すなわちナットは、いくらかの企業によって、ほとんど人さらいのような形でナルチスシティに移住させられていたが、労働力確保のための移民はその後合法化され、ゴルトムント島を除くほぼ世界中のナットがナルチスシティに集結することになったのである。
ナルチスシティに移住した後も、ナットには多くの子供を生むことが奨励された。モッドたちは肉体労働を嫌い、警備、清掃、物流、監視、保育などの社会の底辺を支える仕事を徐々にナットに行わせるようになった。折しも遺伝子操作技術が一般化する頃であり、モッドとナットの身体的特徴の差がくっきりし始めたのも、こういった役割分担を生む原因になった。もちろん、モッドはナットのことを奴隷などとは考えない。そのような差別はすでに前時代に消えたものだ。その人の能力に応じて適材適所に働く場所が配置されるべきだというのが、このような社会分担の論理的拠り所となった。従って表向きは、ナットであっても能力があればモッドと同じような仕事ができるし、逆にモッドが社会の底辺を支えるような職業に就くのも全く制限はなかったのである。無論、そんなことは実際にはほとんど起こらなかったのだが。
このような体制は五十年ほど前から徐々に変わり始めてきた。まず、リニアネットが街中に張り巡らされ、情報が全て電子ベース化された。遺伝子操作され知能が高まったモッドたちは、この電脳空間を制御するためにコンピューター言語を利用することを厭わなかった。その後発明されたスクリプトFは、リニアネット上の情報検索を容易にし、ネットに繋がる機械類を誰もが自由に動かせる社会を実現させた。また、それと平行しながら、本格的なロボット社会が到来した。ロボットを作るロボット、ロボットを治すロボットも実現し、工業における作業員の削減が極限まで進められ、生産手段の完全自動化、そして道路の規格化による物流や移動の完全自動化が次々と達成された。
この急激な社会の変化によって、ノースナルチス区のナットは大量に失業することになった。職を失った人々が住む街は荒廃しスラム化した。そしてノースナルチス区の治安は急速に悪化していった。しかし、モッドはナットの住む土地の治安のことはほとんど気にかけることはなかった。結果的に、モッドたちにより、このノースナルチス区に治安のコストをかけるのは無駄だという判断がなされ、ここを治安放棄地域とする決定が下された。それ以降、ノースナルチス区は完全な無法地帯と化してしまったが、その中に住む者によって、現在では緩やかな自治組織ができ始めているとも言われている。
ナルチスシティでは様々な箇所で完全自動化が達成されたが、未だに自動化されずにナットに頼っている代表的な仕事は、街の公共部分の清掃と治安維持である。治安維持がナットの仕事というのは、少し納得がいかないかもしれない。しかし、街中には監視カメラが張り巡らされ、いたるところに盗聴システムが配備されている。そのため、窃盗、強盗などの単純な犯罪はあっという間に身元が割れてしまい、また市民権の指輪を付けていれば居場所も特定できてしまうので、後は犯人を追って逮捕すればよいのだ。治安維持隊のメンバーはそれぞれゴーグルを装着しており、エージェントにより自動的に犯人のいる場所まで案内されるようになっている。これらの危険な仕事はやはりナットの仕事となるのである。少なくとも人間同等の身体能力を持つロボットは未だ実現されていないから、こういう仕事は人間によって行わざるを得ない。
現在、治安放棄地域には五万人近くのナットが住んでいると言われる。そのうちの実に七十パーセントは失業しているが、残りの三十パーセントがナルチスシティで稼いだお金がそれなりに分配されるような仕組みを彼らは作っている。また食料なども、モッドが消費できなかった分などが、正規でないルートで流入しており、微妙な均衡の上でナットの生活は保たれていた。
アナンはナルチスシティに治安放棄地域などという場所があることを初めて知った。もっとも、ゴルトムント島では治安のためのシステムが存在しなかったので、そもそも治安ということがどういうことなのかアナンにはぴんとこなかったというのが正直なところであった。
そして、ゼブリンもまたこの治安放棄地域で生まれたのだ。このような危険な場所で生まれ育ち、モッドと張り合いながら生きてきたゼブリンの苦労は如何ばかりであったろうか。アナンは、その出生の複雑さが彼を苦労させたであろうことを想い、同情の念を感じた。
しかし、だからといって全てのモッドを殺してもよいという法はない。ゼブリンは個人的な恨みを、罪のない全てのモッドに対してまで晴らそうとしているのだ。それはアナンにとっても容認しがたい考え方のように思える。ナルチスシティというシステムの矛盾は、モッド一人一人に責任があるわけではない。だから彼を追い詰めたシステムに対する憎悪を、モッド一人一人に向けるのは筋違いだとアナンは思ったのだ。
その一方で、アナンは気がつくとナルシスシティの多くの問題点を知ることになった。生きる目的を失い、たくさんの人々が自殺を願っているという街。社会の底辺を肉体労働で支える人々を奴隷のように使い、必要なくなればそのまま放置してしまう非情な街。そして、その人たちを排除しようと暗躍する組織が徘徊する街。果たしてこのような街に人類の未来はあるのだろうか。人類は、これほど科学技術が発展したにも関わらず、医療技術によって伸ばされた寿命を上手に使い切ることさえ出来ない情けない動物に成り下がってしまったのか?
今になってようやく、ゴルトムント島がナルチスシティのアンチテーゼだと言い切ったクサーヴァの意見の意味がわかるような気がした。確かに、完全自動化によってこの街では便利な生活をすることが出来る。しかし、便利になるとは一体どういうことだろう。アナンはゴルトムント島で風車を作りたいと考えていた。これは、風の力を使って水を低いところから高いところへ運ぶためのものだ。そうすれば人々が苦労して、水を運んでいた仕事を減らすことが出来る。仕事が減れば、より多くの時間を別のことに割く事が出来る。全ての技術革新は、全く同様の効果を持っているに違いない。食糧生産に人々が従事しなくて済むようになれば、その次は、遠くに素早く移動したいとか、芸術を楽しみたいとか、より大きな家に住んで、高価で希少な装飾品を集めたいとか、人々がただ生きていくだけでなく、より高次元な欲望を充足したいと考えるようになる。それに向かってひたすら突き進んだのがナルチスシティの人々である。
人々が便利を求める限り、社会はナルチスシティのように向かわざるを得ない気もするのである。そのような社会において、生きる意味を失う人が多く現れたのは、なんとも皮肉な事態であると言わざるを得ない。しかし、これ以上アナンにはどうしたら良いのか、考えることが出来なかった。ふとゼブリンのやろうとしていることが、ここまで行き着いてしまった社会を失敗と認め、もう一度ゼロからやり直そうとする、冷徹だが前向きな考え方のような気さえしてくる。そして、その考えは五百年前のシミック教授の思想と、不思議とシンクロしているような気がした。
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