十一

 アナンにとっては今ひとつ分かりにくい内容であったが、シミック研究室の雰囲気の一端が伝わってくる。後のゴルトムント島移住計画との繋がりを示唆する内容もあり、非常に興味深い資料だ。アンディのノートをもう少し、細かく読み込めばさらに多くの情報が見つかるに違いない。また、アンディのノート以外の資料も是非見てみたいとアナンは思った。

 ただ、このあまりに静謐な保管庫の中にいるのは、アナンにとってかなり苦痛だった。ナルチスシティに来てから、エレベーターの中のような人工的で閉鎖的な空間にまだアナンは慣れなかった。出来ることなら一度外の空気を吸って改めて読むか、もし許されるなら何日か通って少しずつ読みたいと思った。

 部屋の圧迫感から逃れたい一心で、アナンはインターフォンを使ってゼブリンを呼び出した。しばらくしてからゼブリンは保管庫まで来てくれ、鍵を開けてくれた。

「早かったじゃないか。まだ一時間も経ってないぜ」

「なんかあの静かな部屋の居心地が悪くて……」

「俺なら何時間でもいられるがな、アナン。悪いが、資料はあの場所から出すわけにはいかないんでね。それで、調べ物はもういいのか?」

「できれば、何回か通わせて欲しいのですが、ダメですか」

「まあ一度許可は得てるから、来るたびに許可を得る必要はないだろう。ただし、俺が研究室に来ているときだけにしといたほうが面倒がなくていいだろうな」

「もちろんです。ありがとうございます。じゃあ、ゼブリンが研究室に来るときにまたお邪魔します」

 アナンは度々この場所を訪れる口実ができて内心嬉しかった。嬉しかったのは、シミック研究室のことを調べることが出来るというだけではない。アナンにも、この街で自分の研究を持っているという充実感が感じられそうな気がしたのだ。

 用事が済んだので、アナンは大学から帰ろうとして、ゼブリンに別れを告げようと挨拶をした。しかしゼブリンはそんなアナンに近寄ってこう囁いた。

「ちょっと時間あるかい? 君と少し話したいことがあるんだ」

「えっ、僕と? 何の話ですか」

「まあ、ちょっとついてきてくれ」

 ゼブリンは立ちすくんでいるアナンの腕をつかみ、半ば強引に研究室の方にアナンを引っ張って行った。アナンはその勢いに押されて、何となくゼブリンの後を付いていく羽目になった。


 研究室に戻り、二人はまずコーヒーをすすった。しかし、何かしら言葉を発するのが躊躇われる雰囲気があった。無言のままゼブリンは端末を操作し始め、どうもアナンに話しかける様子がない。無機質な佇まいの研究室の中に、ゼブリンが叩くキーの音だけが乾いた響きをこだまさせていた。仕方なくアナンのほうから口を開いた。

「ゼブリン、話って……」

 そう聞かれて、ゼブリンはようやくキーボードを叩く手を止めたが、顔はモニターの方を向けたままだった。

「アナン、君は一体全体、この街のことをどう思ってるんだ?」

 こういった抽象的な質問が、アナンにとっては最も困る。まだ、意見を持てるほどアナンはナルチスシティのことを知っているわけではないし、そもそもこの街で得られる恩恵は、スクリプトFが使えるモッドしか受けられないのではないか。だから、アナンにはこの質問にまだ答える資格がないような気がした。

 アナンが答えに窮していると、ゼブリンは急にアナンのほうを向き、意外なことを言い出した。

「アナン、正直に言うが、俺はモッドじゃないんだ」

「えっ」アナンは驚いて声を上げた。

「もっとも、モッドとナットの本質的な違いについて、アナンにはわからないかもしれない。私が言うところのモッドとは、モディファイドヒューマンプロジェクトで生まれた三十八人の新生児の末裔のことさ。

 もちろん、見ての通り、俺の身長は二メートル近いし、記憶力、論理思考力などもモッド並みだ。しかし、俺の生まれは実は違法なんだ。法で定められた遺伝子操作を違反して生まれた人間なんだ」

 アナンはすぐにその意味を飲み込めなかった。

「ゼブリン、違法っていったい何が?」

「俺はなあ、両親がナットなんだよ。通常、ナットの連中で遺伝子操作を行えるような経済的余裕のある奴はいない。だが、俺の両親はナットの中では最も裕福と言っても良かった。俺の爺さんがナルチスシティでのナットの清掃業務を組織化して、それで大儲けしたんだ。

 それで両親はこの俺を生むときに法定以上の遺伝子操作を行った。現在、着床前審査で操作を許される遺伝子数は、親の受精卵の特操遺伝子、すなわち操作を行うことが可能な遺伝子全体の三パーセント未満ということになっている。しかし、ナット同士の子供じゃ三パーセント程度だととてもモッドには追いつけない。それで俺の両親は十パーセント近くの遺伝子操作を行ってもらった。もちろんたくさんの金を使ったさ。

 しかし、その企みはあっけなくバレちまった。おかげで両親やそれに携わった医師は有罪判決を受けた。もちろん、生まれちまった人間には罪はない。違法で生まれたにも関わらず、俺は一般市民のナットとしてこのナルチスシティで生を謳歌することになったわけだ。親はすでに刑期を終えているが、親の期待通り、俺はスクリプトFの免許も取り、今ではご覧の通りモッドと同等の暮らしをしている」

 そこまで言うとゼブリンは、アナンの耳元に顔を寄せ、こう囁いた。

「アナン、これ以上ここで言うのはまずい。隣の部屋へ行こう」

「何がまずいんですか」とアナンが聞くと、ゼブリンは、「しーっ」と言ってしゃべるのを遮った。再び、ゼブリンはアナンの腕をつかみ、研究室内にある別の小さくて狭い部屋に連れて行った。部屋に入るとすぐさま、ゼブリンは部屋の鍵をかけた。部屋には窓がなく電灯を点けても全体が薄暗く、先ほどの保管庫を思わせる。恐らく当初はなんらかの実験を行う場所として作られた部屋なのだろう。しかし中は全く整頓されておらず、壁際には壊れかけた書棚や麻雀牌など様々なものが散乱していた。

「壁に耳あり、障子に目ありだよ、アナン」

「いったいなんなんですか?」

「ナルチスシティには、至るところにカメラが仕掛けられている。やばい話はカメラのない部屋で話さないとな」

「やばい話?」

「まあ、さっきの話の続きを聞いてくれ。

 俺は刑を受けた両親の分まで頑張って、両親に報いなきゃならないとずっと思ってきた。俺は頑張ったさ。しかしなあ、俺がナットの子供だという事実は如何ともし難かった。実際このモッド社会の一員になるにはかなりの苦労が必要だった。

 考えてもみてくれ。俺は小さい頃から、明らかにナットとは違ったんだ。子供の頃でさえ、同じくらいの歳のナットの子供からは一目置かれてしまう存在だった。俺は孤独だった。だから余計、自分はモッドのように生きるしかない、と思い込んで勉強に励んだ。もとより、モッド並みの知力の遺伝子を引き継いでいるから、十分に勉強すればモッド並みの能力を持つことは十分可能なはずだった。

 しかし能力的にはスクリプトFの免許がもらえるはずなのに、俺は何度も試験で落とされた。試験はちゃんと出来たはずだ……。問題は面接試験だよ。俺は何度も面接の場で自分の違法の生まれを説明する羽目になったさ。その度、面接官が怪訝な表情をしていたのを俺は良く覚えているよ。いいかい。この社会は決して公正には働いちゃいない。それに気付いてからは、俺は、表に出さないがこの欺瞞に満ちた社会を深く憎むようになった」

「だって、ゼブリンは現にU大学で研究をしているし、セキュリティ関連のプログラムの仕事もしているじゃないですか。立派にモッド並みの活躍をしていると思うけど」

「これまで俺がどれだけの屈辱に耐えてきたか、そしてひどい目に遭わされたか……、アナンには分かるまい」

「ひどい目って……」

「スクリプトFの免許を取るのが遅れたおかげで、仕事の場はだいぶ狭まった。この研究室にいたって教授は俺のことを見下すような言い草ばっかりさ。しかし、俺が教授の言葉にまともに反発したら最後、俺の未来はない。俺はこの社会で生きていくためには、誰に何を言われようと決して不平を言ってはいけないし、決して怒ってはいけないんだ。自分の最も大事なものを奪われたとしてもね……。

 それがこの街で如何につらいことかは、恐らく誰も分からんだろう。そして、こんな思いをしているのは、この街でたった俺一人なんだよ」

 ゼブリンは激しくまくし立てた。その勢いにアナンは口を挟むことが出来なかった。いつも笑顔を絶やさないゼブリンからは想像の出来ない光景だ。ゼブリンの見た目の人懐っこさは、彼自身の保身のためだったのかもしれない。ふと、そんな考えがアナンによぎる。

「いずれアナンも知ることになるだろうが、俺たちナットを脅かす連中がいる。──ナルチス純化同盟だよ。表向きは遺伝子操作による人類進化の方向性や、モッドに対する倫理的規範を提唱するような活動をしている。だがな……」

「ナルチス純化同盟?」

「ああ。だが、連中の真の目的は、ナルチスシティからナットを排除することにある。この街で成功したナットの多くが、不審な自殺を遂げている。俺は連中が関わっていると信じているし、この俺だってすでに……、いや、止めておこう」

 アナンにはそのような陰謀めいた話が、スマートな技術が支配するこの街に存在することに驚いた。文明の進化は、もはやそのような下世話な対立を駆逐してしまったとぼんやり思っていたのだ。知性というものは、人々の道徳心も向上させるものではないのだろうか。いやむしろ文明が発達したからこそ、対立の根が深くなっていくものなのだろうか。

 ゼブリンは興奮した様子を少し落ち着かせ、その表情をより厳しくさせた。そこにはいつもの人懐っこさが微塵も感じられない。

「この街では、残念ながらナットは人間とは見なされないんだよ。いかに、我々がモッドに近づいてもね。いやむしろ、近づいてもらっちゃ困るのさ。俺たちは完全自動社会が実現するまでの人垣なんだよ。いらなくなりゃ、後はポイだ。どうだい、こんな社会に未来があると思えるかい?

 ──いいか、アナン。よく聞け。俺はこの研究室で、密かにある細菌を作っている」

「善玉の細菌……じゃないんですか?」

「紫の悪魔を応用した細菌だ。モッドは五百年前に紫の悪魔に対して免疫を持つように作られた人間だ。この仕組みを逆手にとって、モッドの持つ遺伝子配列だけに反応する細菌を作っている。この遺伝子配列は特操遺伝子には含まれていないから、全てのモッドは必ずこの配列を持っているわけだ」

「ど、どういう意味ですか」

「どういう意味もなにも、この細菌をばら撒けば、モッドだけが死ぬということだ。紫の悪魔と全く同じ症状でね。ただしナット側には全く反応しない」

「ゼブリン……あなたは……」

 アナンはあまりの恐ろしさに、それ以上言葉が続けられなかった。ゼブリンはアナンに、モッドを全滅させる計画を告げたのだ。そして、ゼブリンは五百年前の悲劇の歴史をまた繰り返そうとしている。

「アナン、俺には協力者が必要だ。わかるだろう。君は私の助手として、うってつけの人物だ。ナットのくせになかなか賢い。

 アナン。俺は君に対して良かれと思って言っているんだ。恐らく、君は俺と同じ道を辿るだろう。君ならこれから頑張ればスクリプトFの免許も取れるかもしれない。だが、その後、このナルチスシティで生き抜くのは茨の道だ。もちろん、君がナットとして慎ましく生きるならそれもよかろう。しかし、君はまだナットの実態を知らない。どちらにしても、君の未来が明るいとは思えない」

「あなたに何でそんなことがわかるんですか? 僕には、とてもそんな恐ろしいこと……」

 アナンはやっとの思いでこれだけのことをゼブリンに告げた。世界を壊滅に追い込んだ紫の悪魔。ゴルトムント島もナルチスシティも、その災厄を乗り越えようとする人々の努力で生まれたのだ。その歴史の重みを深く感ずるなら、それらをまた葬り去ろうなど軽々しく思うことは出来ないはずだ。

 ゼブリンは大きく息を吸って、少し落ち着いてから言った。

「わかってるよ、アナン。突然こんなことを言ってすまない。すぐには結論は出ないだろう。君がもう少し、このナルチスシティの病んだ実態を知れば、一度この世界をリセットすべきだと思うだろう。また、改めて話そう。

 ただし、今日俺が話したことは、誰にも話すなよ。もし話せば」

 そう言って、ゼブリンは急に表情を険しく変えた。どこまでも冷徹な威厳に満ちた面持ちで、アナンの顔を指差した。強烈な脅しの仕草だった。その雰囲気にアナンは飲み込まれ、言葉を返すことが出来なかった。

 その後、監視カメラがないと言われるその薄暗い部屋から出ると、ゼブリンはその険しい表情をころりと変えて、アナンに言った。

「じゃあ、アナン。また保管庫に用事があるときは連絡をくれ。いつでもOKだ。また、いい資料が見つかるといいな」

 アナンはこわばった表情のまま、顔を引きつらせながら無理矢理笑顔を作った。何か知らない間に自分も共犯者になったような気分だった。アナンは浮かない気分のまま、自由利用車に乗ってクサーヴァの家に戻った。

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