アナンの時差ボケが直るのに一週間ほどかかった。夕方頃には眠くていられなくなり、そこで眠ると深夜に目が覚めてしまう。日中無理して起きていれば良いのだが、これまで十八年間、ほぼ規則正しく生活をしてきたアナンには眠さにどうしても勝つことができなかったのだ。文明化とは、眠らないことを覚えるということでもある。

 そんなわけで、朝食からお昼前の三時間ほどクサーヴァと話すのが、ここのところの日課となった。そこでアナンは、ゴルトムント島の生活についていろいろなことを話した。またそれと同時に、クサーヴァについてもいろいろと知ることとなった。

 クサーヴァはボランティアとして環境省に参加しているが、活動のメインは映画製作である。その役割を分かりやすく言うなら映画監督といったところだが、全ての映像はコンピューター上で合成して作るため、ナルチスシティの映像作家は、ほとんどの作業を一人で行う。すでに映画は、俳優に演技してもらってそれをカメラに撮るというような方法では作られていない。映画内に現れる人々や、様々な物体は3Dデータ化され、映像作家はそれらを組み合わせて自由に動作させ、映像を構成することができるのだ。それゆえに作品には映像作家の個性が前面に押し出され、映画への賞賛は全て映像作家に向けられることになる。

 クサーヴァは、ナルチスシティの中でも映像作家として十本の指に入る程度には認められていた。クサーヴァの作る映画には常に自然への憧憬が溢れていた。彼自身が環境省にいるのも彼にとっては必然だった。世界中の自然を調査し、そのデータが集まる環境省は、彼の映像作家としてのキャリアにも十分役立つところだったからだ。

 そして、クサーヴァはゴルトムント島にも並々ならぬ関心を抱いていた。彼が興味を持ったのは自然だけではなかったのだ。そこに住む人々の暮らしは、あらゆるものが自動化されたナルシスシティでは考えられないほど、非効率で不安定なものである。しかし、クサーヴァにはゴルトムント島の人々のほうがはるかに生命力があり、逞しい生への意志を持っているような気がした。

 だからこそ彼は、それを確かめたかった。アナンがゴルトムント島監視局で捕獲されたというニュースが流れたとき、彼にはこれが千載一遇のチャンスだと思われたのである。何とかして、この少年に会いたい、そして、彼から溢れているであろう生への意志を感じたいと思ったのである。そして、何よりゴルトムント島のことを詳しく聞きたかった。あわよくば、この島を題材にした映画を作りたいと考えていた。

 正直に言えば、クサーヴァはアナンと初めて出会ったとき少々がっかりしていた。アナンは特に逞しい体つきをしているわけでもない。むしろ、モッドのほうがよほど筋肉があるし、力もありそうだ。また、モッド以上に機械や技術に興味を示すアナンに対して、クサーヴァは大自然で生き抜こうとしている力強い生への意志が感じられなかった。実際のところ彼にとってアナンは、ナルチスシティの周辺に住んでいる貧相なナットとそう変わらなかったのである。クサーヴァが思い描くゴルトムント島もまた、個人の憧憬が作り出した仮想楽園だったのかもしれない。

 それでも、クサーヴァはゴルトムント島の暮らしには関心があったから、環境省への報告という名目で、アナンから聞き出すために時間を割いた。そして、あわよくば自分の映画制作に一枚噛んで欲しいと考えていた。


「そう、それでアナンが好きだった海岸というのは、こんな感じかな」

 クサーヴァは自分の書斎にアナンを連れて行き、映画制作用の大スクリーンに、ゴルトムント島の砂浜を映し出していた。

「え、どうしてゴルトムント島から見た砂浜の映像がここで見れるんですか?」アナンは驚いて聞いた。

「これはね、監視局の映像と、衛星写真の位置関係を参考にして、コンピューターで計算して作った画像だ。実際、良く見るとかなり粗い出来なんだがね」

「へえ、すごいなあ」

 アナンは正直に驚いて、スクリーンの近くまで寄って来て、その風景をつぶさに眺めた。

「そんなに、近づいて見るなよ、アナン。アラがわかってしまうじゃないか」

「アラなんて、そんな。すごいですよ。へえー」

 そう言いつつも、映像の一つ一つの内容をつぶさに調べているのがクサーヴァにはわかった。そしてアナンにも、これが合成した映像だというのがだんだんわかってきた。

「──さすがに、砂浜の細かい凹凸とかは出来ないんですね」

「本物の写真じゃないからね。そこまでリアルにする必要もないだろう」

「砂浜から海に向かって水の色がだんだん変わっていく様子も、ちょっと違う感じがしますね。口では言い表せないほど、あの色合いはきれいなんです。僕は、本当にあの海が好きだったんだなって……」

「そりゃ、毎日見てきた本人に言われちゃ、なす術もないね。監視局の映像ではちょっと情報が足りないようだ。君が言うような色は、ゴルトムント島まで行って録画しないと多分再現できないだろうな」

「こんなに進んだ技術があるのに、島まで行かないとダメなんですか?」

 意外と技術で解決できないこともあるものだと、アナンは思った。

「結局、映像の美しさの差は情報量の差でもあるわけさ。実物のリアリティは、実物の情報量が減るほど薄れていくものだ。計算だけでは如何ともし難い。自然の美しさは、直接この目で見るのが一番美しい。人間はそれだけの情報量を感受できる能力を持っている」

「それでも、やはり自分で映像を作ることにこだわるんですね」

「直接眼で見る風景は、どんな映像よりも美しい。そこには科学には及ばない神秘の力があるのだとおもう。だから僕らは、その神秘に少しでも近づこうとして、映像でそれを再現しようとする。永遠に無理な行為だとわかっていても、僕らアーティストはその挑戦をし続けたいと思う悲しい生き物だ」

「──そうか、絵を描くのと一緒ですね。実物には完全に似ないとわかっているのに、そこにある何かをどうしても表現したい、というような……」

「そうだな、アナン。もちろん、昔ながらの絵描きもここにはたくさんいるよ。いや、ナルチスシティはもう一人一人が芸術家みたいなもんだ」

「みんな芸術家……」

「ああ、ここまで自動化されると、人間がやるべき仕事はどんどん減っていくからね」

「僕もちょっと疑問に思っていたんです。あなたたちモッドは、食べたいものはいつでも食べられる。行きたいところにはどこにでも行ける。そうすると、皆は一体何をしているんですか。本当に、皆が芸術家のようなことをしてるんですか?」

 アナンにとって、ここ数日ナルチスシティで感じていた疑問であった。環境省に行っても人は誰もいない。みなボランティアで働いているという。では、一体彼らの実際の仕事は何かというとそれが何だか分からないのである。

「そうだな、仕事というのはいくらでも持てるものだからね。誰が何をしているか、というのは一言では言い表せないだろうな。私の例でいえば、環境省の自然調査局員でもあり、映像作家でもあり、詩や小説を書いて発表することもある。

 妻のフローラは美術やデザイン絡みの仕事が多い。主に工業系のデザインが多くて、新しい電気製品や自動車のデザインの仕事、操作系のUIデザインなんかを良く引き受けている。デザイン絡みで、過去二千年の工業デザインや、紋章などの歴史について論文を書いたりもしているよ。

 ほとんどの人は、芸術か、学問か、技術に関する活動をしている。でなければ、舞台役者か音楽演奏家かスポーツ選手だ。その一方、このナルチスシティを運営するいくらかのパブリックな仕事もみんなそれぞれ分担しているんだ」

 アナンにとって、それまで農作業のない人生など考えられなかった。

 ゴルトムント島では、一人一人が自給自足できるだけの食料生産をするのが仕事の基本だ。もちろん、芸能組のように村の儀式の際に音楽を演奏する人々や、工芸品や家具を作る人々もいるが、それらは決して職業にはなり得なかった。それこそがボランティアだったのだ。

 もっともこの街では、もはや食料の確保を心配する必要はない。ほとんどの食料は自動に生産され、自動に運搬され、欲しい物だけを自動に配ってくれる。しかもその料理さえ、スクリプトFで指示すれば自動に作ってくれる。このような街で、人々がすることと言えば、もうこれは学問や芸術や、芸能を楽しむしかないのかもしれない。

 クサーヴァは続ける。

「このような社会になったのも、結局は完全自動化がほぼ達成したからだ。私たちは生活に必要なことを全て自動化することが出来るようになってしまった。もはや、衣食住に関わるモノには経済的な価値がないと言っても良い。誰でもいつでもお金を払わず、好きなモノが手に入るからだ。もちろん、とてつもなく希少価値のあるものは今でも高価な値は付いているけどね。

 しかし、この自動化もなぜ出来るようになったかといえば、それは遺伝子操作によってモッドの知的能力が向上したからだ。この自動化社会にとって、スクリプトFは大変重要な意味を持っている。五百年前ならコンピューター言語と呼ばれていてもおかしくないほどの構文を持つスクリプトFを、モッドたちは縦横無尽に使いこなす。そういう前提があるからこそ、人々はこの自動化社会に適応できるのだ。

 残念ながら、スクリプトFを理解出来ないナットには、ナルチスシティで享受できる様々な利便性から見放されている。彼らは私たちがいなければ車も自由に操作できないし、好きな料理を食べることも出来ない。アナン、わかるかい。知性こそがこの街で生き抜くための道具なんだよ」

 クサーヴァはナルチスシティについて、ゆっくり説明してくれた。さすがに、何度も聞いているうちにアナンにもおぼろげながら、それぞれの意味が分かりかけたような気がした。そして、そこまで言い終わると、クサーヴァはスクリーンに映したゴルトムントの海岸の映像を消して、今日は終わろうという仕草をした。アナンも頷き、そのまま昼食の時間となった。


 ナルチスシティでは、リニアネットを使えば欲しい物は何でも家に居るだけで手に入れることが出来る。だから、家の外に買い物に出るというようなことはない。それでもモノというのは、いつでも目的を持って買うということばかりではない。お店に並んでいる物を見て、衝動的に欲しくなるということは誰にでもあるものだ。

 街には実際にはモノを売らないが、様々な商品が陳列してある大規模な展示場が何箇所か点在している。その場で欲しいものがあれば、すぐに発注でき、家に帰る頃には商品も届いているというわけだ。

 滅多に外に出ないクサーヴァだったが、アナンがナルチスシティの雰囲気を知りたいというのでフローラを連れて三人で近場にあるモール街に繰り出すことにした。

 外は良く晴れた秋晴れの空だ。息を白く吐き出しながら三人は歩いた。相変わらず、街にはほとんど人の気配が無い。アナンは閑散とした街の雰囲気に寂しさを感じた。

「街では本当に人を見かけませんね」

「外を歩いたって楽しいことなんか無いさ」

 クサーヴァがそっけなく答える。

「この辺りはね、楽しむ場所じゃないから。スポーツしたければジムに行けばいいし、ウィンドウショッピングならモール街に行けばいいし。子供のための遊具場に行けば、子供はそこにみんな集まってるわ」

 フローラがアナンに説明するように続けた。

 意味もなく家の周りをうろうろしたり、近所の人たちと立ち話をしたり、いろいろな目的の人たちが同じ道を往来するゴルトムント島のほうがよほど賑々しく、アナンには自然に感じた。このアパートの一つ一つの部屋に誰かが住んでいる。にも拘らず、人々の姿は全く見えない。アナンには、寂しさを通り越して薄気味悪いとさえ感じてしまうのだった。

 モール街はクサーヴァの家から歩いて十五分くらいのところだ。アナンが街の様子を見たいというので歩いてきたが、二人とも普段はいつも車を使っているらしい。クサーヴァもフローラも街並みには全く興味を示さず黙々と足を急がせた。三人はいつしか無口になっていた。

 それでも、モール街が近くなる頃には、辺りを歩く人が少し増えてきた。アナンは初めて何十人ものモッドが集まっている場所に来ることができた。二メートル近い身長のモッドが集まっている様子は、不思議な気分だった。アナンは、遠い昔に父と母に連れられて村の市場に連れて行ってもらったときの気持ちを思い出したような気がした。アレが欲しい、とか、コレを買ってとか言って親を困らせたっけ。心のスイッチをちょっとひねれば、いつでもあの頃の気持ちに戻って、クサーヴァとフローラに甘えてしまったかもしれない。いつしかクサーヴァとフローラはアナンにとって親に近い存在として認識され始めていた。

 モール街には、確かに多くの人が集まっていたが、なぜか賑々しい感じはしない。それぞれが穏やかに、そして冷静にただモノを見定めている。ここに展示されている商品には、いろいろなものがあった。一番多いのはやはり衣料関係の展示だ。布や生地の肌触りとか質感はどうしてもモニターでは伝わらない。だからこういった展示場では、最も展示スペースが広いらしい。どんな社会でも、服を選ぶのは女性の最も大きな楽しみの一つだ。フローラは男二人そっちのけで、さっそくいろいろな服を賞味し始めた。

「──やれやれ、ちょっと長いぞ」

 クサーヴァはそう言って、口をへの字に曲げる。二人とも、特に買うつもりも無く店の中をぶらぶらしていた。店には服を一生懸命選んでいる女性ばかりで、男どもはどうも居場所がない。ところが、しばらくそうしていると、フローラが大きな声を出して二人を呼びだした。

「アナンにお似合いのがあるわよ」

 自分のために服を探してくれていたのを知ったアナンは、嬉しくなってフローラのいるところに駆け出していた。フローラが選んでくれたのは、黒い革のコートだった。それは、ゴルトムント島では全く見たことがないような服であったけれど、アナンにはフローラの暖かさがこのコートに宿っているような気がした。アナンは喜んで、フローラの見立てに感謝した。そして、この品はフローラからアナンへのプレゼントとなった。

 アナンは、自分が使うための椅子と、外出用の靴を、そしてフローラはアナンへのプレゼントの他に、ちゃっかり自分用の毛糸の帽子と赤紫のルージュを注文した。クサーヴァはアナンに付き合っただけで、自分のものは何も選ばなかった。この日、二時間ほどの買い物を楽しんだ三人は、結局帰りに自由利用車を使って家まで戻った。

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