島を出たアナンはひたすら漕ぎ続けた。

 気がつくと、空は白み始め、やがて東の空から真っ赤な太陽が昇り始めた。そのときになってようやくアナンは島のほうを振り返ろうと思ったのである。島は、遠くはるか遠方にまだわずかながら見えた。今ならまだ戻れるかもしれない。そんな気持ちがアナンの舟を漕ぐ手を鈍らせた。

 このまま漕ぎ続ければ、船の四方八方は海しか見えなくなるだろう。そのまま永遠に陸地を発見できないまま、船の上で餓死するかもしれない。その不安がついに現実味を帯びて感じられたのである。

 もう後悔しても始まらない。大人であるアナンが自分一人で決めたことなのだ。アナンは自分に言い聞かせるようにそう思うしかなかった。ふと、アナンの目から一粒の涙が流れ落ちた。このまま人知れず死んでいくことが、たまらなく寂しく、そして悲しく思えてきた。


 しばらくして、アナンの進行方向から何かしら音が聞こえてきた。黒い物体が空中に浮かびながら、こちらに向かってやってくる。アナンはたった今流した涙を手で拭いながら、何事が起きたのか冷静に判断しようとしていた。

 物体から発する音はどんどん大きくなってくる。それにつれて物体もどんどんアナンに近づいてくる。爆音を轟かせながら近づくあの物体がアナンを目的としてこちらに向かっていることは、もはや疑う余地はなかった。やはり、ゴルトムント島以外に人は生きていたのだ。そして、文明が進んだ人々が空を飛ぶ機械に乗って、自分を助けにやってきたのだ、アナンはそう思うと、たった今感じた寂寥感がまるで吹っ飛んでしまい、心の中に一筋の光が射してくるのを感じた。

 飛行物体はゴルトムント島監視局の無人ヘリコプターであった。ヘリコプターはアナンの真上に止まった。そして、アナンに向かって何か白いガスを噴出し始めたのである。一瞬、アナンには何が起こったか全く見当がつかなかった。気体を吸ったアナンははじめ咳き込んだが、ほどなく意識は朦朧としていった。そして、アナンは気を失って船の上に倒れ込んだ。


 どれだけの時間が経っただろうか。

 アナンは目を覚ました。自分の意識が戻ったことに気が付いたアナンは、反射的に飛び起きた。先ほどまで感じていた波の揺れはもはや感じない。それにここは、四方白い壁に覆われた真四角な部屋である。アナンは今まで担架の上に寝かされていたらしい。アナンの向かいにガラス窓がある。窓の外には、ゴルトムント島でも多く見られる熱帯の木々が生い茂っていた。

 アナンはふと、ゴルトムント島に戻ってしまったかと感じた。しかし、このような一様に平らに作られた壁などアナンはこれまで見たことがない。いや、ゴルトムント島でこのような家を建てることは不可能である。アナンは担架の上から起き上がり、この不思議な真平な壁の部屋を歩き回った。窓まで近寄ると、外では激しい日差しがこの見知らぬ土地をくまなく焦がしている。日は真上に位置しており、恐らく時刻は昼間頃だと思われた。不思議なことに、窓の外はこれほど日差しが強そうに見えるのに、この部屋はひどくひんやりしていて、外とは別世界のような雰囲気だったことだ。アナンにはこの透明な壁が、まるで世界の彼岸と此岸を分け隔てているように思えた。

「目が覚めたかい」

 窓から外を眺めていたアナンは、突然背後から声をかけられ驚いた。ラウリーがドアを開けてこの部屋に入っていたのだ。

「ああ、悪かったな。驚かすつもりじゃなかったんだ」

「ここは……いったい……」

「あんたには、わからんことだらけだろう。おいらだって、生きている間にゴルトムント島を出た人間に会えるなんて思いもしなかったぜ。ま、ゆっくり話でもしようや」

 ラウリーはゴルトムント島から脱島したアナンを発見した後、無人ヘリコプターを使って捕獲しこのF島まで連行した。そして、監視局内にある一室に、アナンを担架に寝かして目が覚めるのを待っていたのだ。アナンはガスで気を失っていたが、昼ごろになって目が覚めて起き上がったことをラウリーは監視カメラで確認して、ちょうど今この部屋に来たところだった。

「何か、すごい音をするものが飛んできて、白いものを吹きかけられてから、何も覚えてないんだ」

「ちょっと手荒なことをさせてもらったが、悪いことをした。いちおう、マニュアルどおりにしなきゃならんのでね。ところで、あんた、名前は」

「アナン」

「アナン、か。それでアナンよ、あんたまだ若いじゃないか。一体なぜ島から出ることにしたんだ。女に振られたのか」

 ラウリーにとっては、まるで地上の楽園のように思えるあのゴルトムント島から、外の世界を何も知らない者が出奔してしまうことが信じられなかった。毎日のようにゴルトムント島の様子を観察していたからこそ、ラウリーは何がアナンをそうさせたのか、非常に興味があった。

「島にいられなくなったから……」

「つまり、あんた、島で何かやらかしたわけだね」

「いや、その、悪いことをしたつもりはないんです。だけど……」

 アナンはこんなところで、島を出るまで内緒にしていたノートのことを話す気にはなれなかった。そういえばあのノートはどうなったんだろう、とふとアナンは思い出し、ノートを探すために体中を触ってみた。

「──ノートは、あのノートは無かったですか」

「ノート?」

「船はどうしたの?」

「船ももちろん回収したよ。島から持ち出された重要な資料になるからね。その中に、あんたの大事な荷物があるのか」

「そうです。ノートだけでも手元に持っていたい」

「ああ、分かったよ。後で探してやるさ」

 アナンは少しほっとした。ノートは恐らく船の上にあるだろう。

 会話が少し途切れた。しかし、アナンには山ほどの何故がある。今度はアナンが尋ねるほうだ。

「──一体ここは何処なんですか」

「ここはゴルトムント島の最も近くの島、F島だ。そうだな、ゴルトムント島の南東五百キロくらいのところかな」

 F島なんてアナンは初めて聞く名だ。むろん、アナンはゴルトムント島以外の島の名前など知らない。

「それで、あなたが船を漕いでいた私を助けてくれたんですね」

 助けてくれたなどと言われるとラウリーには少々ばつが悪い。実際のところ、アナンのような脱島者が現れるのを一日千秋の思いで待っていたのだから。

「助けたってわけじゃないんだがな」

「でも、僕があのまま漂流していたら、いつか死んだかもしれないし」

「おいらがここで仕事している限り、そんなことにはならないさ」

「仕事って、漁師か何かしてるんですか?」

「ハハハ、漁師かい。いまどきそんな仕事はないわな。そうだ、こっちに来てみな」

 ゴルトムント島監視局のことを知ってもらうには、ゴルトムント島を監視しているモニターを見てもらうのが一番早い。ラウリーは、生活のほとんどを過ごしている監視室のほうにアナンを連れて行くことにした。


 アナンは監視モニターのある部屋に通された。ゴルトムント島の外に相当文明の進んだ世界があることは、アナンにはすでに覚悟が出来ていた。だから監視室に通されてそこには見たこともないようないくつかの機械類を見たときにも、それほど驚くという事は無かった。しかし、アナンが驚いたのは片面の壁全体に映し出されている映像だった。

 アナンはその映像に見入った。実際に実物を目で見る以外に、このようにその映像を他の場所で見ることができることに、まずアナンは感動した。しかしその映像を見つめているうちに、何かしらとても馴染みがあるものであることに気付いたのである。

「──こ、これは……」

「どこだかわかるかい?」

「ゴルトムント島……」

「そうだよ、あんたたちが生活している様子を、おいらはずっと見ているんだ。あんまり趣味のよい仕事じゃないがね。しかたがない、これがおいらのなりわいだ」

 もうすでにアナンは十六面のスクリーンの技術力はどうでも良かった。自分たちは、こんなところでずっと監視されていたのだ。その事実を知ってアナンは呆然とした。

 それなら、確かにこれまでゴルトムント島に誰一人外部からやってきたり、連絡があったりすることがなかった理由がわかるような気がする。ゴルトムント島の外にいた人間達はすでにゴルトムント島の存在を知っていた。しかし、ゴルトムント島の人々には敢えて接触せず、孤立させたまま監視していたのだ。そこにどういう意図があるかはわからない。しかしアナンには、彼らがゴルトムント島のような文明に遅れた環境を、好奇の眼差しで見つめているとしか思えなかった。そう思うと良い気分にはどうしてもなれない。

「僕らの暮らしは全部、お見通しだったというわけですね」

「いや、そこまでわかってるわけじゃないさ。実際に住んでいるわけじゃないからね。島の細かい暮らしのことは、あんた、これから嫌なほど話さなきゃならないぜ」

「僕たちはバカにされているんだ。あなた方は、遅れた僕たちの文明をそうやってあざ笑おうとしてるんだ」

 アナンは島の暮らしが大好きだった。あの島の人々が、自然が、そしてファーストビジターから綿々と受け継がれてきたゴルトムント島の文化が大好きだった。今、それらが頭ごなしに否定されようとしているような気がした。

「おいおい、待てよ。誰もバカにはしてない。だいいち、おいらは毎日こうやってあんたがたの暮らしを見ているうちに、その、憧れるようになったのさ、あの島の生活にね」

 それから、すこし落ち着いた声の調子で、ラウリーは続けて言った。

「おいらの爺さんも、あのゴルトムント島に住んでたんだ。五十年位前、あんたと同じようにこうやってゴルトムント島を抜け出してきた。爺さんは、それでもゴルトムント島が好きだったから、結局この地でゴルトムント島を監視する仕事をやることになったんだ。それ以来、三代続けてこの仕事をしているというわけさ。

 それに、おいらに不満をぶつけられても困る。ゴルトムント島の情報を知りたがっているのは、ナルチスシティのモッドの連中だ。もっとも、あんたこれから嫌になるほど、モッドの連中と付き合わねばならんだろうけど」

「モッド?」

「ああ、見ればすぐ分かる。おいら達とは比べ物にならないからな。身長は二メートル近くあるし、頭は抜群にいい。おまけに力もあるんだからな。どうやったって勝てっこないんだよ」

 アナンはそのとき、恐ろしくグロテスクな怪物を想像した。そしてその怪物が、人間を奴隷のようにこき使っているおぞましい社会を頭に思い描いた。

「──この世界では、そんな怪物が、人間を支配しているんですね」

「あははは、怪物かい。そりゃいい。そうだな、ある意味怪物だな、あいつらは。

 だけど、あいつらはいちおう人間だよ。おいらたちとは出来の違う人間だ。怪物どころか、みんな驚くほどハンサムでかっこいいやつばっかりさ。女だって、おいらより身長は高いし、出るところはちゃんと出てるんだぜ。まあ、いわば、人間の理想形というやつだな」

「人間の理想形?」

 思ってもいない言葉を聞かされて、アナンにはすぐ言葉の意味を飲み込めなかった。もちろん、アナンにも好きな人間や、嫌いな人間というのはあったが、それは理想とかそういう話とは別次元のようにも思えた。

「僕は、そのモッドのところに連れて行かれるのですか?」

「来週にはまたナルチスシティへ、定例報告のために向かうから、そのときにあんたも一緒に連れて行くよ。そこから先のことはおいらにゃわからない。多分、ゴルトムント島にいた頃のことをいろいろ聞かれると思うから覚悟しておくんだな。

 とりあえず、一週間はこの島にいることになる。申し訳ないが、規則であんたを自由にさせるわけにはいかないんで、さっきいた部屋に居てもらう。退屈だろうから、いろいろ用意してやるよ。何なりと言ってくれ」

 アナンは知りたいことばかりだった。今この世界の現状がどうなっているかを大雑把でも知りたいと思った。ゴルトムント島を監視しているようなこの文明なら、世界の全てのことが知られているに違いない。

「何か本のようなものはありますか。それなら、一週間あの部屋にいてもいい」

「もちろんお安いご用だ。ちょっと待っててくれ」

 しばらくしてからラウリーは、数十センチ四方の薄い板のような機械を持ってきてくれた。電源を入れると、表面に画面が現れた。そこには『オンラインブックライブラリー』と書かれていた。

「──これは?」

「本だよ。というか、電子ブック端末だけどな」

「どうやって読むんですか」

 アナンに聞かれたラウリーは面倒くさそうに、読みたい本の検索の仕方やページのめくり方、気に入った部分のマーキングの仕方など、一通りの使い方を教えた。アナンは、試行錯誤しながらも、この見慣れない機械を操作し始めた。しかし、三十分もする頃には、アナンは何の苦もなくこの端末を操作することができるようになっていた。

 アナンは結局、それからの一週間、外に出たいなどと全く思わなかった。朝から晩まで、このブック端末を利用して本を読み続けた。本に書いてあったこと一つ一つがアナンにとって驚きの連続であった。そして、アナンは貪欲にこの世界の真実の知識を吸収し続けたのである。

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