八
── アンディの日記 ──
六月二十日
なぜ、私はこのような日記を書くことにしたのだろう。
シミック教授からは、今後一切何らかの記録を付ける事を禁ずる、というお触れが出たばかりだ。すでに、シミック教授の壮大な人類史における実験が始まっているのだ。
もちろんシミック教授の言うことは絶対だ。それに背くわけにはいかない。だからこの記録もいずれ焚書されることになると思う。
どうせ焚書されるのなら、最初から書いておこう。私は十年ほどシミック教授の元で研究を続けているが、シミック教授の科学者としての冷徹さにはどうにも承服しかねるところがあるのだ。
これからはもう私たちは単なる大学の同僚ではない。私たち十九名は死ぬまで一緒に暮らすことになる。そんな新しい生活のためには、シミック教授のような力強く頼れる人がどうしても必要だ。それは認めよう。もちろん私は、これからもシミック教授には表向きには従うつもりだ。だから、そう、この日記は私にとってガス抜きなんだ。表で言えない不満をこの日記にぶつければいいじゃないか。ああ、なんて、気弱なアンディ。でも、紫の悪魔に感染して死ぬよりはよほどマシだと思わねば。
そして、ついに今日私たちはゴルトムント島に着いた。
この島が私たちの終の棲家なのだ。なんて寂れたところだ。もうサッカーを見に行ったり、ボーリングに行ったり、スキーに行ってみんなで楽しく遊ぶことは出来ないんだ。そう思うととてつもなく寂しく感じる。
ゴルトムント島には現在五十人ほどの人が住んでいるらしい。赤道直下の小さな島々からなるこの国のなかでもゴルトムント島はとりわけ小さく、他の島から遠く離れた場所にある。過去、原住民が住んでいた頃は、この島でも大規模な農業などがされていたといわれるが、今ではこの島だけでは食料が自給できず、多くの島民が週に一度、連絡船で買出しに出ているらしい。
また若者が都市に出て行ってしまったため、この島では高齢化が進み、島の住人はほとんどが五十歳以上の老人である。このような島が自力で活性化することは不可能だと思われるし、私たちが来なければ早晩、廃墟化は避けられなかっただろう。あるいは、どこかの大富豪が島ごと買ってしまうなんてこともあったかもしれないが。
今日、私たちは島の人たちと公会堂で対面した。
シミック教授は、研究のためしばらくこの島で暮らしたい、という話を島の人たちに話した。嘘っぱち! しばらくどころか、一生ここで暮らすのだ。いったい、教授はいつ、本当の事を島民に話すつもりなんだ。僕たちはもう研究者なんかじゃないんだ。一生この島で暮らすために、離婚した奴だっているんだぞ!
私たち十九人の内訳を書いておこう。
シミック教授とその夫人、そして彼らには三歳の娘と一歳の男の子がいる。今回の計画も終盤で少し急いでしまったのは、三歳のお嬢ちゃんの物心がつく前に島に移住したかったという、極めて私的なシミック教授の都合があったらしい。
その他、研究室の既婚者はいずれも子供がいない。マークとその夫人、そして新婚のピーターと夫人。二人ともよく奥方を説得してきたものだ。もっとも、紫の悪魔が跋扈するこの世の中で、教授の話は素人には実に魅力的に聞こえたのかもしれない。
マークと同い年の私、アンディは独身。まあ、島への移住に関しても、相談する人もいないのだから身軽なものだ。私以外の独身男性は、ブラウン助教授と研究員になりたてのポール。助教授こそ、この実験のために離婚してしまった悲しい犠牲者でもある。彼は奥さんも子供も説得し損ねたらしい。
そして、もし私が結婚するのなら、次にあげる女性研究員の二人のうちどちらかしかないことになる。キャシーとブリンダだ。それがダメならシミック教授の娘という手もあるのだが。
残り六人は、研究室外のメンバーでこのプロジェクトに賛同した二つの家族である。いずれもシミック教授から全幅の信頼を置かれていた企業経営者の家族だった。彼らの会社は、U大学の各研究室の下請け的な役割を持っていて、研究室にもよく出入りし、シミック教授の無理な注文を良く受けていた。それでも嫌な顔せず、一生懸命シミック教授に尽くしていたのは、よほどシミック教授のカリスマ性がすごいのか、彼らが熱烈なシミック信者だったからに違いない。
何はともあれ、人類史に残る平凡な今日一日に乾杯!
六月二十二日
快晴。今日は、島の海岸で一日中物思いに耽っていた。
私たちは一人一人それぞれの悲しみを背負いながら、このプロジェクトに参加している。
私の両親は、半年ほど前に紫の悪魔にやられて死んでしまった。主だった親類もみんな死んでしまい、今や私は天涯孤独の身だ。
U大学の生物学科は、紫の悪魔が発見される前の段階から、この新種の疫病の危険性を察知し、研究を続けてきた。しかし、紫の悪魔の発見からわずか三年足らずで、地球上の人類は半減するという未曾有の大危機に陥ってしまった。もはや各国の政治・経済は機能せず、世界の各都市は無法地帯と化している。
U大学生物学科の凄いところは、この段階で研究の場所を変え、紫の悪魔の脅威が遠く及ばない大西洋上の北限に位置する小国に引っ越したということだ。自分たちだけが、この恐ろしい疫病を克服することが出来るという自負心があったからこその決断だったのだと思う。
私たちの研究室では、これまで進化生物学を扱っていたが、この地に引越ししてから大学側の命令でこの紫の悪魔対策に従事させられている。
生物学科の中で紫の悪魔の遺伝子解析を行っていた、ヤコブ研究室の数ヶ月前の発表は我々研究者に驚愕の事実をもたらした。紫の悪魔、すなわちWWJ細菌の遺伝子解析をした結果、自然界ではあり得ない遺伝子パターンを発見したというのだ。そして、それはとてつもない速さの突然変異を起こし、自分自身の破壊力を絶えず更新するのだという。
いくつかのWWJ細菌の突然変異パターンを解析することによって、この細菌が五年ほど前にアジアの独裁国家として有名な小国Kから生じていることが判明した。軍事にまつわる黒い噂、そして人為的に作られた遺伝子を持つ細菌。これらは、この細菌が細菌兵器として人為的に作られた可能性を暗示するものだった。
もちろん、そのK国からは何も声明が出ていないし、そればかりか、現在その国は壊滅状態にあり、もう事実は闇の中というしかないのだそうだ。
この発表を私は同じ学科の研究員として、その場で聞いていた。
そしてこのときこそ、人類の文明の発展を呪ったことはなかった。
なんてバカな事をやってくれたんだ!
しかし、事実はそんなうらみつらみを叫んだとて如何ともしがたい。仮に、そのK国が作った細菌兵器が漏れなかったとしても、どこかの国家が同じ事をしたかもしれない。やり場のない怒りとはまさにこのことだ。
私はこの恐ろしい細菌の感染力を知っていたから、親の死に目にも会うことが出来なかった。親に会いに行けば、必ず私も感染したであろう。両親もそれをわかっていたから、見舞いには来なくてもいいと言ってきてくれたのだ。もっとも、私の両親は非常に賢明で、感染に気付いて以来、病院に行っても感染を広げるばかりだと一切家を出なかった。
そして、両親は死ぬ間際まで私に電子メールを送り続けた。毎日のように詳しい病状の変化を私宛にメールしてきたのだ。少しでも私の研究に役立とうとして……。
両親のメールは発症から約二週間後に途絶えた。壮絶な闘病記録だった。私は毎日、涙を流しながらメールを読んだ。そしてただ、お父さん、お母さん、ありがとう、ありがとう、頑張って、と返事を書くことしか出来なかったのだ!
涙が頬を伝って、今日はもうこれ以上書くことができない。
六月二十六日
昼前に激しいスコール。おかげで午後からは風が冷たく気持ちいい。今日は部屋からぼーっと外を眺めていた。
承前、結局我らがシミック教授が下した判断は、生物学科の研究成果とは全く別のものだった。紫の悪魔の脅威を正面から撥ね退けることが出来ないのなら、他と一切交流を絶った孤島に移住して生き延びるべきだ、とシミック教授は考えたのだ。
このとき、紫の悪魔対策のメッカとなったU大学では生物学科だけでなく、医学部の病理関係者やその他の多くの研究者が情報を集めるために集う場所になっていた。しかし、多くの研究員が紫の悪魔に対する研究に従事していたにも関わらず、WWJ細菌の変異の速さはすさまじく、有効な対策を見つけることがなかなかできなかった。この細菌に対する抗生物質を作る研究は日夜行われていたが、作っても作ってもすぐに抗生物質に耐えられる耐性菌が現れるといういたちごっこを続けていた。こんなレベルでは、とても紫の悪魔を地球から退治することなど出来るわけがない。
ところが、別の研究室からまた興味深い結果が現れた。WWJ細菌は人間の身体の中でしか繁殖できないのだそうだ。非常に強い空気感染力を持つWWJ細菌だが、近くに人間がいなければ死滅するしかないのだ。つまり、人が死に絶えた場所では数年立てばWWJ細菌は完全にいなくなるらしい。
これは、現段階で紫の悪魔に罹ってしまった人間を完全に隔離すれば、いずれ地球からWWJ細菌は消えてなくなる可能性があるということだ。逆の発想をするなら、紫の悪魔に汚染されていない場所に人々が集結し、紫の悪魔が死滅するまで待ち続ければ、逃れた人々が助かる可能性がある事を意味する。
シミック教授の決断は早かった。
彼の科学者としての冷徹さは、人道的な判断を超越し、逆説的に人類の可能性を開いているのかもしれない。言ってみればシミック教授の考え方は、今紫の悪魔の被害に見舞われている土地は見殺しにして、外界と遮断した閉鎖環境で、少数の生きている人だけ助かろうというものである。
もちろん、そのような考えを世界全体に発信すれば、猛反発を食らうことくらいは十分分かっていた。シミック教授は、自分の研究室のメンバーと、その賛同者という限られた人数で秘密裏に、紫の悪魔に汚染されていない小さな島に移住することを計画したのである。そして、私たちに告げる前に極秘研究として教授会での同意を密かに取り付けていたのだった。
シミック教授は、悲痛な面持ちでこの計画を私たちに披露した。
「もし、私を告発するならしてもよい」とシミック教授は前置きから始めた。
「自分が助かりたいという気持ちだけでこんなことを言っているのではない。人類全体の未来のために私は決断しているのだ。私を信じて欲しい」何度もシミック教授はそう言った。こんなしおらしい教授の姿は初めてだった。
シミック教授の悲痛な想いは十分研究室のメンバーに伝わった。その時点で、誰もシミック教授を告発しようなどという人は現れないだろうと私には思えた。そんな雰囲気を察してか、教授の話はいくらか語気を取り戻したように思えた。
「私は、今度の紫の悪魔に人類の可能性の皮肉を見た。
私たちは、これまで科学技術の発展を何に使ってきただろうか? 飛行機は、潜水艦は、原子力は、どうだ、全て戦争のために作られたものではなかったろうか。
──何かがおかしい、私はそう思う。
知識があれば誰だって爆弾を作れるんだ。爆弾を腰に巻いて、人ごみの中に突っ込めば、人はたくさん死ぬんだ。飛行機をハイジャックして、そのままビルの中に突っ込めば何千人という人の命を奪うことが出来るのだ。そして、恐ろしい病原菌を開発すれば、それだけで人類を滅亡させることが出来るのだ。
──何かがおかしい、君たちはそう思わないか?
一握りの狂人の仕業で世界は簡単に破滅するのだ。
そのような技術は不要だ。そもそも人類に本当に必要な技術とは何だ。
空を飛んで、素早くどこかに行くことだろうか。遠くに会いたい人がいなければ飛行機など必要ない。ほんのちょっとだけ不便が我慢できるのなら、電気だっていらないと私は思う。音楽や芝居を見たければ、舞台まで見に行けばよい。有名な史跡がどうしても見たいなら、歩いていけばいい。歩いていけない場所に行きたいと思うのは、情報が溢れているからだ。不要な情報はいらない。自分が生きていけるだけの情報があれば十分だ。
──もう一度、文明の進化時計の針を元に戻すべきだと思わないか。
──そう、ざっと五千年ほど……」
シミック教授の考えることは、普段から常人の範囲を超えていたと思う。しかし、文明の進化時計の針を五千年戻すとはいったいどういうことなのか。さっそく、研究員からいくつかの質問が出たが、それらを総合すると、シミック教授が考えていることはざっとこんな感じだった。
紫の悪魔がまだ飛び火していない南の島を探し、そこに移住する。そこでは、電気、ガスなどを一切使わず、人の力だけで生活し、自分たちで食料を作る自給自足の社会を作り上げる。自分たちの子孫には、現代社会のことは一切伝えず、紫の悪魔が死に絶えるまで島から出ることを禁ずる。
シミック教授は、紫の悪魔を作ってしまった人類を反面教師にした上で、今までの文明の歩みを一度否定しようというのだ。その上で、全く新しい文明を作るために、自分たちがその礎として新しい人生を生きようと提案しているのだ。
原始的で素朴な生活というのは一度は誰もが憧れたことがあるだろう。だから、私にはこれがファンタジックで魅力的な実験だと思う気持ちもある。自分の死後、ここが人類最後の楽園になることを願って生きていくなんてちょっとロマンティックじゃないか! 尤も本当に便利さを知ってしまった人間が果たして、そのような生活に移行できるかは疑問ではあるが。
さて、実際のゴルトムント島はというと、小さな島でありながらここにはすでに電気が来ている。水道はないようだが、テレビだって映るんだ。極めつけは、携帯電話も繋がるってことだ!
六月二十八日
この島に来てから一週間が過ぎた。
これまで都会で暮らしていた私にとって、まさにここは南国のリゾート地だ。これで、プール付きのでかいホテルなんかに泊まっていれば、気分はもう長期休暇だ。
今私が泊まっている場所は、公民館の二階のちょっとばかり古い部屋だけれど、南国の家というのは、どこに行っても開放的な作りになっていて、建物は見た目にもそう変わりはないものだ。今はどうしても、悲壮な想いで文明以下の暮らしをするためにここにやって来た、などという気分にはなれない。
何といっても海が美しい。
これなら海沿いの木蔭で何時間だって転がっていられる。この島ではまるで時間が止まっているかのようだ。あるいは、全く別の単位系の時間が流れているのかもしれない。海の波が寄せては返すこの音を数えたら、それがこの島の時間単位かもしれないと本気に思ってしまう。そのくらい曖昧な感じでも誰も文句を言ったりしないだろう。
シミック教授は丸々一週間、この島でまず自由に過ごそうと言った。それは、私にとっても非常に大事な時間となった。もう一度、この半年間に起こったことを反芻して、その意味を自分なりに考えたかった。U大学では、全ての研究員がどうやって紫の悪魔を撲滅するかそればかり考えていた。いつも追い詰められたような切迫感を感じながら、日々暮らさざるを得なかった。
両親が死んだこと、そしてシミック教授がこの地に移住することを提案したこと、これらは私の人生においてとてつもなく大きな事件だった。たくましく私の生きる道を指し示してくれるシミック教授に、私は畏敬の念を抱いている。私にだって、考えることはたくさんある。その中のいくつかはシミック教授の考えとは相容れないものだ。それでも、もっと大きなところでシミック教授の考えと共振している部分があることも確かだ。
私はひとまずその共振部分にかけてみようと思っているのだ。
自分が世界に感じたその不条理を、この手で見事に覆してみたい。そして、正しく生きれば誰でも等しく報われることを、私はこの世界の中で実感したかった。そのためには、今はシミック教授に従うしかない。
赤道に位置が近いこの島では、季節感というものがほとんど無いといわれる。確かに、北半球では最も日が長いこの時期でも、太陽は朝六時に昇り夕方六時に沈んでいく。誰もが知っている当たり前のことでも、実際に体験してみると私にとっては素朴な驚きだった。そして、こんなにも同じような日々が永遠に続くところなのだ、ここは。
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