アナンは風車を廻す
奇楽堂
第一部 ゴルトムント島
一
アナンは何か嬉しいこと、悲しいことがあったときはいつも、島の最も美しい海岸が一望できるこの丘に一人で来るのが常だった。
丘といっても、雑草が背高く生い茂ったこの場所を知っているものは、恐らくこの村には誰もいないだろう。アナンはここに来る度に雑草をかき分け、押し倒し、自分でちょっとした獣道をこしらえ、海岸が見えるその場所を一人で作り上げた。
だからこの場所は、アナンだけの秘密の場所なのだ。アナンは今まで誰にもこの場所を教えたことはなかった。どんなときでも、いつでも一人になれるこの場所が、アナンにとっての神聖な場所だった。ここで、日々の出来事を反芻し、繰り返し思い返す。深い青を湛えたこの海の美しさは、アナンの心に去来するあらゆる感情を優しく消化してくれる。そして、その全てはアナンの心の中で美しい想い出に変わっていくのだ。
しかし、この場所のことを自分一人のものにしておくのも今日が最後かもしれない、ふとアナンはそう思った。
今日、アナンはクリスに求婚したのだ。
クリスはアナンの家の近くに住む幼なじみだった。目鼻立ちがくっきりしていて、長い髪が似合うクリスは、すれ違えば誰もが振り向くような美人だとアナンには思えた。アナンは小さい頃からクリスのことが大好きだった。いつもクリスと一緒に野や山を駆け回った。アナンにとって、クリスがいることはあまりに自然なことだったけれど、そのクリスが村の他の女の子に比べて一番かわいい女の子だったことは、幼いながら奇跡のように感じられた。だから、アナンはクリスと一緒に遊ぶ自分がちょっと誇らしかった。
この村に住む誰もが、そんな二人の仲を暖かく見守り続け、そして二人がいつ結婚するかを心待ちにしていた。二人が一緒にいるところを見れば、友達からひやかしで声をかけられることもあったし、逆に村人の中には、二人でいると気を遣ってか、「あらあら、私たちはお邪魔だね」などと言いながら、わざわざその場を去ってくれるような人までいる始末だ。そんなときは、二人ともちょっとばかり恥ずかしい気分を感じながらも、そんな人たちの気持ちを嬉しく思ったものだった。
二人がいずれ結婚することは、誰の目にも明らかだった。アナンは十五歳で村の学校を立派な成績で卒業した後、三年ほど父親の農業を手伝っていて、今、歳は十八。この村では、もう立派な大人として誰からも認められる年齢だ。そして親から独立して所帯を持っても、十分やっていける年頃なのだ。
そして今日、六月二十日は、アナンにとって少しだけ特別な想い出の日だった。
三年前の今日、村の学校を卒業したアナンに、二級下のクリスは自分のお手製の新しいシャツをプレゼントしてくれた。それまでもアナンにとって、クリスは最も仲の良い幼なじみではあったけれど、その日のクリスはそれまで見たこともなかったような大人っぽい雰囲気を醸し出していた。アナンはなぜかドキドキして、言葉も満足にかけられなかったのだ。どこを見ても、今までと全く同じクリスなのに、何がアナンにそう思わせたのか全然見当がつかなかった。そしてアナンは、まるで父と母が慈しみ合うような感情を、クリスに対して初めて心に抱いたような気がした。それ以来、二人は仲の良い幼なじみから、恋人同士に変わっていった。
アナンはだいぶ前からクリスに求婚する日を、二人のささやかな記念日である今日に決めていた。
「クリス、僕と結婚して欲しい」
「アナン、喜んであなたのお嫁さんになるわ」
その言葉は、二人が恋人から婚約者に変わったことを意味していた。二人は見つめ合い、そして初々しいキスを交わした。
アナンは人生の大きな事業を成し遂げたような、そんな充実感に満たされた。自分が一回り大きくなって、ようやく責任ある大人になったような気持ちだった。
その気持ちを噛みしめるために、今日もアナンは一人でいつもの丘にやってきた。この島の自然の全てが、自分の幸せを祝福してくれているように思えた。常夏の島の、この丘から見える海の青は、アナンの心に染み込んで、静かに浸透しながら、アナンの心の全てを飲み込み、また海の底に還っていくのだった。
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