第三章:善悪の天秤 5
辿り着いた思考と目の前の光景が信じられなかった。よりにもよって児童養護施設の女性従業員が真犯人だとは夢にも思わなかったからだ。あまつさえ、本来守り育てるべき少女を騙して身代わりに立てるなどどうかしている。
「嘘ついてたんだ。見抜けなかったなあ」
こんなときでもアイシアの声は平然としていた。
「あのとき魔法使いかどうかって訊いたのに。やっぱり超高位魔導師は嘘も得意なのかな?」
眉をハの字にした白鷺小百合が答える。
「これには理由があるんです」
「へえ、訊こうか?」
どうぞ、とアイシアが話を促す。彼女が治療している那美は意識を失ったままだ。その姿を見て、弓鶴は自らのやるせなさと情けなさ、そして浅慮さを痛感する。もっと早くに気づいていたら、子どもを傷つけてしまうことなどなかったかもしれないのに。罪悪感のあまり胸を掻きむしりたくなる。
「あの男たちが憎かったんです。私も幼い頃に男に犯されて……。ずっとそれが傷に残っていたんです。今度は子どもを守ろうって思って養護施設に入りました。そしたら、その施設が子どもたちを犯して、あまつさえ売ってたんです! もう、そんな男たちが存在することが許せなかったんです!」
嗚咽を零し両手で顔を覆った白鷺小百合が訴える。
ははっと、アイシアが笑った。嘲笑だった。
「昔のことは事実だと仮定しようか。で、子どもを守ろうってところも一応事実としておくよ。それで、なぜ自分で直接やらなかったの? あなた、第九階梯級の超高位魔導師なのにどうして自分で殺さなかったの? 那美ちゃん騙したのはなぜ? さすがに言ってることが支離滅裂すぎるよ」
「夢を叶えてもらいたかったんです。魔法使いになりたいっていつも言っていたので」
「だから魔法が使えるように見せかけて児童買春犯を殺してまわった? そして国際展示場を占拠したの?」
くつくつとアイシアが喉の奥で笑う。声が掠れていた。よく見れば、彼女の頬は引きつっていた。
そして、アイシアが大喝した。
「ふざけないで! なにもかもでたらめでしょ⁉ 本当のことを言いなさい‼」
アイシアがここまで感情を表に出すのを弓鶴は初めて見た。そして、自分もまた怒っていることに気づいた。腹の底にマグマが溜まっているのではないかと勘違いするほど、心の底から怒りが湧き上がってくる。
泣いていた白鷺小百合が手を下ろす。表情には困惑があった。アイシアがどうして怒っているのか分からないと言ったように狼狽えだす。
「違うんです、私は本当に――……」
「その女の言っていることは間違っている」
突如声が割り込んだ。埼玉県警の稲垣泰三だった。弓鶴は驚愕する。警察側は戦闘が始まったら退避することになっていたからだ。こんないつ魔法が飛んでくるかも分からない前線に一般人が来たことが信じられない。
当然、そんな危険など稲垣は分かっていたのだろう。表情には決死の覚悟が見られた。
稲垣が白鷺小百合を指差す。
「そいつは白鷺小百合ではない!」
弓鶴は目を剥く。そしてすぐに思い出す。
高位の元型魔導師は姿形など意味をなさない。なぜなら容易に変身でき、それを見破る術などないからだ。
稲垣が続ける。
「私の独断で白鷺小百合を徹底的に調べた。戸籍上、白鷺小百合は確かに存在した。だが、更に洗ったところ、白鷺小百合が二名存在する可能性が浮上した。戸籍上ひとりしか存在しないはずなのにだ。部下が先ほど白鷺小百合本人を確認した。彼女はいま静岡県にいる」
裏社会に堕ちた高位の元型魔導師がよく使う手だ。実在する人物に成りすませば早々バレることはない。あとは各種書類と情報を揃えれば事足りる。この手法を使う元型魔導師は、変身用に多くの身分情報を所有していることが多いのだ。実際、法整備がされていない頃はこれを乱用されて多くの誤認逮捕が発生した。だから、変身魔法はISIAへ提出した姿でなければ実施してはならない国際法が存在する。違反すれば即座に死刑だ。
白鷺小百合、否、超高位魔導師から表情が消えた。
「……さすがに一度疑われたら覆すのは無理か」
声が変わる。男とも女とも分からない潰れた声。鎧から発せらた声と同じだった。
急に超高位魔導師が纏う空気が変わった。そこにいるのにどこかずれているような、住む世界が違うというような奇妙な感覚だ。ただ、油断をすれば瞬間後に殺されているという心臓が縮むような緊張感が漂っていることだけは確かだった。
「どうだ? 元型魔法は便利であろう?」さらに声が変わる。今度は青年のハスキーな声だ。口調すら変化している。「声帯を変化させるだけで声も変えられる。意外と知られてない技術であるゆえ、今後の捜査の参考にするがよい」
「お前は……誰だ?」
弓鶴は声を震わせて問う。いま目の前に真の超高位魔導師がいる。アイシアの父と同じ、小国の軍とすら対等に渡り合える実力を個人単体で持つ人外の怪物。そして、ひとりなのに中に幾人もの人間が内包されているかのように感じる狂人。
魔導師が答える。
「仲間内からはアーキと呼ばれている。そなたらなら知っていよう?」
その瞬間、アイシアと弓鶴は同時に驚愕した。
「……《ベルベット》のアーキか」
ASUが見つけ次第即時抹殺せよと指定している、全員が第九階梯の超高位魔導師である犯罪魔同集団。それが《ベルベット》だ。呼び名と扱う魔法体系くらいしか分かっていない謎の集団で、目的も「魔法使いの殲滅」を謳っているくらいでよく分からず、あちこちで破壊をまき散らす災厄だ。昨今の魔法使いへの心象が悪いのは彼らが原因の一端を担っている。
「こたびは私の独断ゆえ作戦が甘かったか。知略を巡らせるのは私の本分ではないゆえ致し方ないが、こうまで作戦がうまくゆかないのも締まらない」
「お前の目的はなんだ?」
弓鶴の問いかけは全員の疑問だった。アーキが世の理を伝えるかのように口を開く。
「知れたこと。私は人を愛する。《愛を謳う人》ゆえに魔法使いを滅ぼす。此度はたまさか子どもに変身した際、男どもに嬲られかけたゆえ、児童買春なるものを主導した者を殺し、買ったものを殺そうと思っただけのこと。本来の一手は手薄になった魔法候補者を纏めて抹殺せんとの考えだったが、やはり浅慮だったか。多少は時間を掛けたのだが、まあ良いだろう。それも世界の定めた運命ゆえ」
警察の調査が確かなら、多少どころの話ではない。記録上、白鷺小百合が児童養護施設の従業員になったのが一年前だ。この計画に一年は掛けている。それを失敗しても運命として受け入れることが理解不能だ。
頭がいいのか悪いのか、要領がいいのか悪いのか、諦めがいいのか悪いのか、すべてがごちゃごちゃに感じる。あまりにも言動が人間離れしていて人物像が掴めない。
ただただ正しく狂っている。話しているだけで頭が混乱してきそうな魔法使いだ。
「なぜ更科那美を利用した?」
「あの子がそれを望んでいただけのこと。魔法使いになりたかったのだろう? だから魔法使いにしてやった。それがたとえ幻だろうと、当人が信じるならばそれは真実だ。そして、魔法使いならば利用することに私がなんの痛痒を感じようか。分かるだろう?」
分かるわけがない。一片たりとも理解できない。なにをどうすればこれだけ思考がねじれるのか。人の精神の枠からずれてしまっている。
「さて、せっかく姿を現したのだ。やはり《ベルベット》らしく魔法使いを殺そうか」
なあ、とアーキが微笑む。人形が無理やり笑ったような、気味の悪い笑み。
「そなたらもそう思うであろう?」
殺意が膨れ上がった。
白鷺小百合の姿のアーキが弱者に差し伸べるように手を動かした。ただそれだけで死んだと思うほどの圧倒的な恐怖が背筋を襲った。
「稲垣さんを!」
アイシアの言葉で身体が動く。未だ痛む左足で地面を蹴りAWSを起動。最大加速で稲垣へと到達し捕まえて上昇。天井に開けられた穴から外へと脱出。その判断が命を救った。
背後から猛烈な衝撃と轟音。
西棟が内側から爆発したのだ。元が西棟だった瓦礫が半球状に空を舞う。瓦礫が隣接する棟群に衝突し更に被害を増やしていく。海へと落ちた瓦礫が大きな水しぶきを上げる。これによって起きた津波で、ターミナルに付けていた水上バスが転覆した。
弓鶴は稲垣を唯一無事な右腕で抱えて上昇を続けたまま言葉を失った。ただの一撃でこれだ。直撃していたら肉片ひとつ残らなかっただろう。
捕まえた際の衝撃で気を失っていた稲垣が目を覚ます。
「なんだこれは……」
地上を見て稲垣が驚愕の声を漏らす。
「これが、最高位魔導師か……」
稲垣の声には魔法使いへの畏れがあった。
爆発の正体は単純だ。元型魔法の《観念力動》で衝撃波を発生させただけだ。だが、ただそれだけで倒壊寸前とはいえ建造物を爆破させたのだ。威力の桁が違い過ぎた。那美と戦っていたときに使用していた魔法など、これに比べれば児戯に等しい。被害のことなど想像もしたくない。集った刑事課と警護課は文字通り消滅しているだろう。
これはもはや弓鶴たちの力では対抗できない。本当に国家が総力を挙げて戦うべき敵だった。
「まだ生きているか。さすがASU魔導師はしぶとい」
頭上からアーキの感情なき声。
反射的に顔を上げると、弓鶴の遥か頭上にアーキが悠然と浮いていた。元型魔法の《観念力動》には、魔法転移と呼ばれる技術が存在する。己の精神を移動させることで結果として肉体を転移させるそれは、視界内や己の疑似生命体がある場所ならば一瞬で転移できる強力な魔法だ。
相手は超高位魔導師だというのに、弓鶴は思わず叫んだ。
「なに考えてんだ! いまの一撃で一般人まで確実に巻き込んだぞ! 人を愛してるんじゃなかったのか!」
アーキの返答に疑問が孕む。
「なぜと問うか。知れたこと。魔法使いを殺すには犠牲が必要だ。人類はいまや百億以上もいるのだぞ? 少しくらい減ったところで些細な問題であろう? 誤差の範囲である」
無茶苦茶な言い分だ。頭のネジが一本どころかすべて飛んでいる。極まった魔導師はここまで常識外へ両足を突っ込んでいるのかと頭を抱えたくなる。
ともかく、状況は最悪を通りこして絶望的だった。アーキの言い分を信じるのであれば、弓鶴が抱えている一般人の稲垣は容赦なく殺される。
戦力は弓鶴と恐らく生存しているアイシアのふたり。互いに人を抱え、更に重傷を負っている。勝てる見込みが塵ひとつない。
援軍が必要だった。生半可な腕ではない、アーキと同じ超高位魔導師の援軍が。
突如、地上から放たれた極大のレーザーがアーキを直撃した。衝撃で弓鶴たちの身体が翻弄される。
「な、なんだいまのは⁉」
稲垣の狼狽。
弓鶴はようやく緊張が解ける思いがした。あのレーザーは見覚えがある。精霊魔法が《電磁結合》による荷電粒子砲だ。ランベールが使用したものよりも遥かに極太で強力な、まさしく超高位魔導師が放った一撃だった。
まさに待ち望んでいた援軍が来たのだ。
「弓鶴さん! アイシア! 無事ですか!」
鈴を転がしたような澄んだ声。そして声の主が眼前に現れる。
絶世の美女がいた。見た目年齢は二十代前半か。稀代の彫刻家が一生を費やし創り出した最高傑作かと疑うほどの、各パーツが完璧なまでに美の位置に収まった女性。瞳は人工的なカラーコンタクトで染められた深い青。腰まで伸びた銀糸の髪が風にあおられ広がる様は、まるで天使の翼のよう。
アイシアの母、アリーシャ・ラロだった。
「アリーシャさん、俺は無事だ!」
「私もなんとかね。来るのが遅いよお母さん。今日三回くらい死にかけたんだけど」
アイシアの非難めいた声。姿は見えなかったが、やはり彼女も生きていたのだ。
更に、もうひとりの魔導師が魔法転移をしてくる。深紅のローブを風にはためかせて現れたのは、アイシアの父ラファランだった。
「すまん、転移許可を得るのに手間取った。あと下の連中は無事だ。仲間が魔法で救護してる」
ラファランとアリーシャが散開してアーキを囲む。
アーキは超高位魔法の直撃を受けても無事だった。
極まった元型魔導師は、自身の精神の状態を固定化することであらゆる攻撃を防ぐ鉄壁の防御を持つ。元型魔法は精神が世界を形作っていると説くから、そんな常識を超えた防御方法も存在するのだ。少しでも動揺すれば解けてしまう脆弱さと、絶対防御の強固さを兼ね備えたその魔法は、全元型魔導師の中でも完全に扱えるものが数人いるかいないかの希少魔法だ。
すなわち、超高位魔導師二人を相手にしているのに、アーキの精神は微塵も揺れていない。
「ASU本部重犯罪魔導師対策室か。浮遊都市からわざわざ来たのか。ご苦労なことよ」
アーキの科白にラファランが反応する。
「お前は派手にやり過ぎだ。ASU警護課の連中が魔導師密売組織を締め上げたときに《ベルベット》の名前が出たから慌てて駆けつけたらこれだ。来た
「魔法使いを殺すためゆえ、無駄な加減など必要ないであろう?」
目的と手段がまるで噛み合っていない。話している理屈がさっきから常識外なのだ。当然ラファランが突っ込む。
「人を愛するとか言う口でそれか。お前、言ってることがおかしい自覚あるか?」
「大事の前の小事だ。多少の犠牲はやむなし」
「お前みたいな魔法使いがいるから普通の魔法使いが苦労するんだよ。少しは反省して《次元回廊》を食らうかさっさと死んでくれ」
「無理である。私には魔法使いを抹殺する責務があるゆえ、死ぬことも《次元回廊》で無為に時間を過ごすこともできない」
「なんで超高位魔導師はいちいち言い方が大仰なんだよ。お前何歳だよ。俺より年上か?
ラファランが心底嫌そうな顔をして吐き捨てた。アーキは精神の水面が平坦なように無表情のままだ。
「歳など数えることはなくなった。極まった魔導師に歳など関係なかろう?」
「そこまで言えるなら相当歳食ってるだろ。少しは落ち着けよ。ガキじゃないんだからそこかしこで破壊をまき散らすな。あといいからその姿やめろ。姿と声があってなくて気持ち悪い」
「すべて理由があってのこと。魔法使いは絶滅すべし」
「自己矛盾すぎるだろ」
超高位魔導師たちが放つ圧力が増す。その場にいるだけで粉微塵になりそうな濃厚な殺意。弱者ならばこの場にいるだけで泡を吹き気絶する緊張感。
「だったらお前が先に死ね」
ラファランの言葉と共に、超高位魔導師らの戦端が開かれた。
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