或るトン死、あるいは生存権。

 

日本国憲法第二十五条第一項

 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。


「俺たちには生存権がある!」

 撫汰太志は、ニュースを見ながら口走った。

 ニュースは政府の大本営発表を伝えた。コンビニやスーパーの営業が規制され、取扱品目や営業時間が細かく制限されるのだそうだ。その影響は、幅広い。

 撫汰は、仕事をしていない。世間体が悪いので、深夜でもないと外出ができない。だから、営業時間規制で深夜営業がなくなると、困る。

 撫汰は早速ネットの掲示板に書き込んだ。ふざけるな、俺達を殺す気かと。そして、カップ麺も買えない世の中でどうやって生きていけというのかと。

 お仲間もいた。だが、そうでない者もいた。外国でもやっていることだとか、昼間に買えばよいとか、当番でも決めて手分けして開ければよいとか、規制を全否定しない意見もあった。

 撫汰は、語るべきものを持たない。せいぜい、アニメの感想を言ってみたい程度である。そんな撫汰が、Witterのアカウントを作ったのは、撫汰が死んでも構わないと言い放つ連中への怒りからだ。死にたくないと発信するために、撫汰は踏み出した。


 撫汰は、誰にも読まれない文字列を垂れ流し続けた。だが、少しずつ気付かれる機会も出てきた。ロースと名乗った撫汰をフォローしたのは、ミミガーという名のアカウントだった。そしてミミガーは、ロースの発言をリウィートした。ここから、二人の交流が始まった。ロースはアニメの話もしていた。ある日、ミミガーがそこに食いついたのだ。

 ロースとミミガーは、あの狂った政策についても語り合っていた。ミミガーも、どうやらひきこもりである。だから、二人には、せいぜい数十人を相手にネットで意見を開陳することしかできなかった。


 そんな折、選挙が近づいてきた。一人の候補者が、政府が間も無く実行する深夜営業規制に反旗を翻した。その名は豚田豚太郎。かなりの肥満の豚田は、よいこたちの生存を守るために、いつでも何でも買えるコンビニの24時間営業を死守しようと言う。

 これこそ、ロースやミミガーにとっての僥倖であった。自分たちのような世間に顧られない立場でも気にして守ってくれるえらい人が、初めて現れたのだ。国会では、与党の高圧的な強制に抵抗する動きもあった。だが、ロースたちはそんなことを知らない。だから、それは、主観において初めての話なのだ。

 ただ、豚田は、与党である大日本右翼党の候補者であった。それがなぜ党の政策と違うことを大声で叫べるのかは、誰にもわからない。しかし、ロースたちの耳に心地よく響きはした。そんなある日、ロースたちは、豚田のネット演説を見た。


「政治は結果だ。私は皆さんのために生存権を守る。」


 生きられる。これで生きられる。撫汰は感涙にむせび泣いた。ミミガーも同じだった。二人は、ダイレクトメッセンジャーで会話し、豚田を応援することを誓い合った。選挙運動本部へ行くことを決めた二人は、そこで困らないようにと名乗り合った。撫汰は、ミミガーの比具丸子という名を知った。


 二人は、それぞれ電車を乗り継いで事務所へ向かった。撫汰にとって、遠出など数年ぶりである。だから撫汰の挙動は、誰が見ても不審なものだった。今時ICカードも持っていない撫汰は、無闇にきょろきょろしながら、おっかなびっくり自販機を操作して切符を買った。そして、同じことを、乗継ぎの度に繰り返した。それでも、ネットで調べた乗継ぎに余裕があったので、なんとか予定の時間に間に合った。だが、比具は既に待っていた。


「あっ、あっ、あの…」

「あ……」


 声を掛け合うのも、たどたどしい。沈黙を交えた会話の後に、二人は歩き始めた。果たして二人が打ち解けたのかも、第三者には理解しづらい。ただ、似たような丸々とした体型を見て辛辣な視線を浴びせ合ったり、近くで話して互いの息を嗅いでは眉を顰め合ったりしているのは見えた。


 撫汰は、電話掛けの仕事を割り振られた。はっきりしない発声とたどたどしい喋りが不快感を与え、最初は聞いてくれた相手がガチャ切りすることさえあった。それでも撫汰はへこたれなかった。豚田のためである。夜中にカップラーメンを買える生活を守るために、撫汰は戦いを止めなかった。

 その頃比具は、証紙貼りをしていた。他人に邪魔されない小さな作業は、比具に向いていた。そこに、撫汰もやって来た。電話掛けがあまりにも下手糞で票を減らすばかりだと踏まれ、担当を変えられたのだ。撫汰も、これならなんとかなった。


 数時間後、今日の作業はここまでとなり、二人も事務所を後にした。


「太志くんもラーメン好きだよね。」

「えっ…え…あああ…はい……」

「たまにはカップ麺じゃない本物、食べない?」

「ぅぇぁぅ…はい……」


 二人は、とんこつラーメン屋に入った。熱いラーメンをすする間は、会話のしようもない。だが、会話が苦手な二人には、むしろそれがよかったようだ。そしてこのラーメン屋は、下の下以下の部類だった。これも、よかったようだ。化学調味料慣れした二人にとって、出汁の質はどうでもよい。あの粉が大量に入っていれば、うまいと言えるからだ。そして、客が少ない。お陰で、空間に余裕が生まれた。二人は、再会を期して別れた。


 撫汰は、生身の人間に萌えたことがないわけではない。だから撫汰は、今日もよくわからない興奮を示していた。本人も、どうやら、自身の感情に気付いていなかった。だが、比具は、筋金入りである。比具が見る世界には、女×男などありえない。それ故、一つ間違えれば、二人は不幸な結末に至った。それが避けられたのは、偏に撫汰の交流障害の故である。世間からは馬鹿にされるような傾向も、時には危機回避の役に立つのである。


 ネットでは、二人や同類たちが、徹底して豚田を賞賛し続けた。「豚田さんしかいない!」と。すると批判が返ってくる。ロースは抗戦した。「アンチは豚田がダメだなんて言うけれど、じゃあどうすればいいのかは言わない!」と。この誇らしげな抗戦を、ミミガーたちはそうだそうだと囃した。彼らが言うところのアンチは、「さっき豚田しかいないって言ってたのは誰だよ」「放火するヤツを止めるのにここじゃなくてあっちの家を燃やせと言うヤツはいない」等、多彩な批判を繰り広げた。ロースもミミガーも仲間たちも、正面から争うのをやめた。「ヤツらは間違っている!」「とにかく豚田はんやで!」「豚田さんサイコー!」「口汚く罵るアンチのウンコ野郎!」等々、より簡潔で仲間の耳に心地よい言葉が選ばれるようになった。


 この頃には、批判もより深いものとなっていた。とりわけ、人権を廃止する改憲案を発表した党の候補が人権を語る矛盾が、厳しく指弾されるようになっていた。だが、豚田の支持者たちは、気にしてすらいなかった。あるいは、そもそも何を突っ込まれているのかを理解できなかった。撫汰も比具も、例外ではなかった。それ故、彼らは、単なる罵詈雑言を垂れ流すことにためらいもせず、判で捺したような台詞をばら撒き続けた。


 夜はその調子でも。二人は裏方系の仕事を選挙が終わるまで続けた。報酬は出ない。交通費も自腹だ。睡眠も足りなくなる。だが、そんなことは問題ではなかった。正義のために戦えることこそ、撫汰たちの悦びであった。

 そして豚田は当選した。自室で速報を見たロースは、ありがとうとかおめでとうとか言う前に、アンチざまあとつぶやいた。


 その数週間後。


「党内でがんばったが止められなかった。ただ意見はきっちり言う。」


 ネット番組で豚田はそう言った。話が違う。でもきっと豚田ならなんとかしてくれる。撫汰は、ただ信じていた。信じるが故に、今日も豚味噌ラーメンをすすっていた。


 そして撫汰は期待を裏切られることになった。親の財布から多額の金をくすねていたことがバレたからだ。豚田のために浪費した交通費や食費は、結構な額となっていた。親からもう家に置かない出て行けと言われ、撫汰は無一文で叩き出された。純真で、しかし謝ることを知らない撫汰は、文言通りに親の言い分を理解した。選挙から一週間経った夕方のことである。

 寝床もない。スマホも取り上げられた。撫汰は、そうだあそこならと、豚田の事務所へ向かって歩くことにした。せいぜい10kmの距離なので、ゆっくり歩いても撫汰の若さなら3時間あれば着けるはずだ。だが撫汰は、何度も道を間違えた。日頃外に出ないので、土地勘というものと無縁だからである。もしスマホがあったとしても、事態は大して変わらなかっただろう。そんな事情のお陰で、着いた頃には日付も変わっていた。

 奇跡は起こらない。選挙専用の事務所は、もぬけの殻だった。そこには誰もいない。退去は、完了していた。だが撫汰は、深夜故のことだろうと楽観してそこに座った。

 運が良いのか悪いのか、警察に咎められることもないまま夜が明けた。それでも撫汰は座り続けていた。夏の暑さの中、無為に座っていた撫汰は、昼過ぎについに倒れた。


 そんな日々に、有力な支持者たちは、豚田を労う宴席を催していた。支持者たちは、これで荒稼ぎできると、ほくほく顔である。市民運動業者や弁護士にメディア関係者といった面々が、豚田を囲む。だが、豚田も考えていた。その利益は俺が吸い上げるのだ、と。


 撫汰は、本人の意思と無関係に病院に運び込まれた。TVは、大日本右翼党が生活保護制度を廃止する方針だと伝えていた。家族の助力がなければ、撫汰は病院を追い出されて野垂れ死ぬ。身分証の類を持たない撫汰には、働くことすら難しいからだ。そんな撫汰は、目を覚まさない方が幸せなのかも知れない。


 今のところ、撫汰の意識は戻っていない。ミミガーこと比具は、見かけなくなった撫汰のことなど気にせず、無為徒食を続けている。ただ、こちらの親も、そろそろ堪忍袋の緒が切れかけているようだ。お陰で、現金が必要なことは、何もできずにいる。例えば国民年金の掛け金は、比具には支払えない。

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