第7話「何て酷い事を……」
地下工場を抜け、奥には十畳程度の無機質な部屋があった。普段はデモの作戦を立てたり、会議室として使用されているだけで一つの机とホワイトボード、畳まれたパイプ椅子が壁に立てかけられている。
屈強な男がそのパイプ椅子を一つ出し、香川をそこへ縛りつけた。香川が途中から大人しくなったのは、工場で作られていた「ラーメンのかやく」を見たからだ。仮に久野が同僚とは言え、抵抗すればタダでは済まないと考えた。
とある秘密結社への潜入で命を落とした、そうすれば自分が死んでも不自然ではない。
「さて、お話ししよう。香川」
久野は香川の前にもう一つパイプ椅子を設置し、そこに座った。片膝を立てる特殊な座り方をして、そこに肘をあてがう。彼なりの楽な体制だった。
「話すことなどない」
「こっちにはあるんだ。ねぇ、優秀な人材が欲しいんだ。仲間にならない?」
「なに?」
「協力してくれれば、毎日ここにあるたくさんの種類のラーメンが好きなだけ食べられるよ。魅力的でしょ。何人も店主を匿っているからお店の味も出せる。馬鹿みたいに高い合法ラーメンより全然美味しいよ」
「そんな理由で首を縦に降るとでも?昔と違って今はラーメンが好きではない」
「嘘だね、ラーメンを見てから明らかに君は興奮してる」
「眼科へ行ってこい。いや、心療内科が先か。とにかく、俺はもうカレー派の人間だ」
「そっか。なら君を拷問するしかないな」
剣呑な響きが空間を支配する。拷問、と聞いて香川の厳しい表情が少しだけ動いた。数秒間見つめ合う二人だが、沈黙の帳を破ったのは白河だった。
「待って下さい。そこまでする必要は……」
「大丈夫さ。おい、アレ持ってこい」
「わかりました」
低い声でそう言うと、香川の後ろで控えていた部下の一人が部屋を出て行った。
「拷問をしたところで無駄だ。この事は報告させてもらう」
「なら、目と耳と舌を潰す。君はこの先一生暗闇の中でラーメンを想いながら生き、そしてラーメンを食べる事無く死ぬんだ。そんなのは嫌でしょ?」
「脅しても無駄だ。俺に何かすれば確実に足が付く」
「うん。でも、それが何か問題?」
久野は笑っている。が、笑顔で生き物を火炙りにする残酷な雰囲気がした。
「……白河、何故こんな狂った所に居る。忠告に気付かなかったのか?」
「気付きましたよ。でも、私はこの国にラーメンを取り戻したいんです。またこの三人で、名店巡りをしたいのです」
白河の真摯な台詞に、二人は再び黙ってしまった。常に口角の上がっている久野の顔からも、今だけは愁いが伺える。
香川が長い溜息を吐いた所で、扉が開いた。先ほど出て行った久野の部下が拷問危惧を持っていた。
それを見て香川、白河までもが目を丸くする。
「そ、れは……」
部下が持って来たのは丸いトレーと、一つの丼ぶり。それを見た瞬間、聡明な香川は自分が何をされるのか理解した。拷問と聞いてもほとんど表情を変えなかったが、今は唇を震わせて狼狽しきっている。
医者に死の宣告を受けた時のような、絶望を隠しきれない顔だった。
部下は持ってきたどんぶりを机の上に置き、香川の目の前まで持っていく。丼ぶりから放たれる強烈で魅力的な香りに香川だけでなく部屋に居る全員が喉を鳴らした。
「久野、貴様っ……これをどこで」
丼ぶりには焦げ茶色のスープに浸る中太の縮れ麺、上に乗るのは十種類以上の野菜炒め。野菜炒めは其れだけでご飯が進むくらいの味付けで、かつてはこの野菜炒めが単品で売られる事もあった。
そして定番の肉厚叉焼と半熟のトロトロになった煮卵、メンマと岩海苔、揚げナスに揚げパプリカ、更に海老天までもトッピングに参加し、ダイエットと言う概念を殺す為だけに生まれたようなこの丼ぶりは所謂「全部乗せ」と言う物だった。
スープは厳選に厳選を重ねたスパイス数十種類を混ぜ合わせた秘伝の味。勿論ニンニクと生姜もふんだんに使用されている。
出来るだけ見ないようにしても、どうしても目にしてしまう。ラーメン禁止法が施行されてから廃業してしまったとあるラーメン店の名物。二度とお目に書かれないと消沈していた、香川の大好物であった「カレーラーメン」が、そこにはあった。
彼はその狂気的旨さと狂暴的カロリーと深刻な依存性ゆえに「あれは麻薬だ」と他人が食べるのを止めたほどである。
その恋焦がれたカレーラーメンを目の前にし、禁断症状を抑えられなくなった彼は血眼になって歯を食いしばっていた。
「君は大好きだったよね、このラーメン。偶然にも行き倒れていた店主をつい最近仲間に引き入れてね、工場の監督がてらたまに作って貰ってるんだ。香川、ウチに来ればいつでもこれをたべられるんだよ」
「ぐ、ふうううぅ、ううぅぅっ、ふぅぅ」
香川は獣のような声を出し、カレーラーメンを睨みつけている。顔の半分は憤怒、もう半分は狂喜に満ちていて、傍から見れば完全に壊れていた。
久野が団扇を取り出し、どんぶりに向けて仰ぐ。香りだけで脳髄に突き刺さる程の快感が香川を襲い、エクソシストに退魔の儀式を施される患者のような狂乱振りを見せた。
「何て酷い事を……」
香川のいたたまれない姿が見ていられなくなり、白河は苦心しながら目を逸らす。
「俺は、このまま出世、すれば、いつでも、ラーメンが、くえる」
「このカレーラーメンも?世界でたった一人しか作れないんだよ?」
それはその場にいる全員が理解している。そして再びこの依存性の高いラーメンを食えば、二度と戻れない事も。
無意識のうちのラーメンへ顔を近づけていた香川の眼鏡は、既に前が見えないくらいに曇っていた。
「手枷だけ外せ」
久野の指示で香川の左手が解放される。自由になった利き腕は真っ先に端へ手を伸ばすが、自制心を極限に振り絞ってその手を止める。まるで左手だけが別の生き物のようだった。
「g、krrrr……!」
もはや言葉にならない音を出し、殆ど白目を向いている香川。
久野はトドメに箸でラーメンを掬い、目の前に持っていった。獣のように箸を奪おうとした左手を避け、香川の髪の毛を掴んで顔を上げさせた。
「これ以上君を苦しめたくない。素直になろうよ、香川。仲間になるだろ?」
「……r」
「何だって?」
「る」
「もっとはっきり!」
「なりゅうううううううううう!!!!」
「良く言った香川!」
久野が箸を離すと、それが重力を受ける間もなく香川の手に渡る。
久しぶりの「本物のラーメン」を食べるその姿は、野獣だった。カレーの汁だと言うのに構わず飛び散らし、蓮華がないので丼ぶりに口を付けてスープを啜る。挙動を一つ起こす度に絶頂したような妖艶な声が彼から発せられた。
「白河」
「……なんですか」
汚い咀嚼音を聞きながら、白河は無表情を崩したまま久野の後ろで佇んでいる。
「幼馴染三人が、また揃ったよ」
言って、笑った。
酷く純粋で、残酷で幸せそうな表情に、白河は何も言う事が出来なかった。
ほんの少しとは言え、好きな物を三人で語り合える場が設けられることを期待していたのは、事実だったから。
「これでやっと、本気を出しても大丈夫だ」
久野の言っている意味は、白河にはわからなかった。
彼女にはただどうしようもないこの状況の愁いと、これで良かったのだろうかと言う後悔だけが心の中に残っていた。
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