戦いの前

 …………なんていう事でしょうか、マコトさんのおっしゃっていた通りになってしまいました。次の日の昼間、わたくしたちは村尾さんの家に集められて一枚の真っ白な紙を見せられました。今まで生きて来て一度も見た事がないような真っ白な紙を。








「これまで幾度かに渡り我々は貴殿らの市を見て回って来たが、その暮らしたるや全く粗野であり、何より言葉に礼節と言う物がない。

 かように他者の心を苛み、また世の秩序を顧みまいとさせる言葉を何のためらいもなく唱えるその有様は、真っ当な人間の為し様ではない。

 よってこの書状が届けられてから五日後、我々は貴殿らの市に乗り込みその非礼を正しまたより良き生活、具体的に言えばより多くの収穫を得より長く生きる事ができる術を貴殿らに教え込む。

 我らが思慮深き判断を受け入れるのならばよし、さもなくば貴殿らの魂を次の世へ導かせる。




 正田義美」





「これは一体…」

「緑の服を着た南の人間からもらった物だ。南の人間は我々の間違いを正そうとしているらしい。それからこれだ。この厚い本に書いてある言葉を使った場合、すぐ厳しい罰を下せと言う事だ」


 村尾さんが左手で床に置いたのは、紛れもなく黒辞書でした。


「具体的にどんな」

「黄色い所に書いてある言葉を使った者とはなるべく付き合いをせず、赤い所に書いてある言葉を使った者からは今すぐ土地やたくわえを取り上げ、そして最後の黒い所に書かれている言葉を使った者は今すぐ殺せと」

「冗談じゃない!」

「ですよね、たかが言葉一つで先祖代々守って来た畑を失う理由なんかありませんしね!」

「そう、今の言葉がいけないらしい。しねって言うのは死ねに通じるから、もし彼らの要求通りにするのであれば今すぐ我々は鈴木さんの土地を取り上げねばならない」


 これって、マコトさんが南の大きなかいしゃって言うのを放り出された時と同じです。もしこの紙の通りにすればそんな事がこの村でも起きてしまうって言うんですか。


「佐藤さんの言う通り、そんな村には住みたくない!」

「拒否しましょう!」

「無論そのつもりだ、でもその場合」


 戦いになるかもしれません。いや、なるでしょう。これまでマコトさんから話を聞いて来て南の人たちの生活のきゅうくつさはよく知っています、そして南の人たちは本気でやるでしょう、全く何のためらいもなく。


「わかりました、マコトさん」

「はい」

「私の側にいて下さい、南の人間であるあなたならばわかるはずです」


 村尾さんの側にいろと言う言葉に、マコトさんは両眼を大きく見開きました。


「私は南の人間ですよ、これから戦う相手である」

「知っていますよ、でももう二年もこちらにいるんでしょう」


 自慢でもありませんがわたくしなどはマコトさんの事を誰よりも重宝していると言う自信があります。何せ男手がわたくし一人しかいない家庭ですから、マコトさんのお力は本当頼りになります。


「ありがとうございます………」


 マコトさんは本当に嬉しそうにしていました。この顔を守るだけでも何ていうか、戦わなければいけないと思いますね。決めました、わたくしも戦います。先頭に立ってかまを持って。




「戦うの?」

「そうなの、お父さんも戦うの」


 家では妻と娘たちが迎えてくれました。わたくしが話のあらましと決意を語ると妻も娘も顔を引き締めました。


「お父さん、がんばってね」


 下の娘はなんともいたいけな顔をしながらわたくしの手をにぎり、とてもかわいい口調でわたくしを励ましてくれました。

 がんばって。わたくしたちがもし南の人間に負けてしまうと、そんな言葉も言えなくなってしまうようです。




『頑張る(頑張れ) もし元気付けのつもりで使おうとしているのであれば、何があってもやめて下さい。相手がもし鬱状態である場合、かえって逆方向へ追い込んでしまう危険性があります。』




 そう、黒辞書に書いてあるのです。まったく、マコトさんは南でどういう言葉を話して暮らしていたのでしょうか、本当に苦労がしのばれますよ。

 田を耕す事しかできないせいかわたくし学なんてありませんが、あの言葉もだめこの言葉もだめとなると何を言ったらいいのか参ってしまいますね。

「そんなのやだー」

 本当にそうですよね。この子たちのためにも、負ける訳にはいかないんです。




 それからの三日間田んぼは妻と娘にお任せにして、わたくしはたくわえていた種もみを手土産に南側の家でかまを振る練習ばかりして来ました。


 今度の相手は動かない雑草ではありません、そしてイノシシやシカともまた違う、人間です。いずれにせよわたくしたちの生活を脅かすのであれば放っておく訳には参りませんからね。


「そう言えば今の今まで聞いていなかったんですけど、マコトさんはどうやってこの村に来たのですか」

「ほとんどの着の身着のままで、これまで貯めていたお金を食料と水に変えて山を登ってやって来ました」


 北の山は低く、西の山は高いですが、南の山はもっと高かったです。わたくしは南の山を見たのはこれが初めてですが、実際どれぐらいまであるのかわかりませんね。適当に北の山の二倍と言っておきますが、当たっているのかどうかは知りませんし大した問題ではありません。


「でも相手がこの高い山を越えて来るのならば、その時点で相当に疲れていると思いますよ。その時をやれば……」

「田中さんの長男さんは山へ見張りに行きましたよ、山本さんの次男さんと一緒に」


 山本さんのご次男はおとなしい人だそうですが、子どもの頃から父親と一緒に山を駆け回っていたおかげかかなり足が速いようで、そのおかげでずいぶんと意気盛んな田中さんのご長男に半ば強引に連れ出されたようです。

 確かに向き不向きって言う物は確実にあると思います。


「しかし約束を守るでしょうかね」

「南の人たちがですか?村尾さんは自分がどれぐらい偉いと思っていますか?」

「全然えらいなんて思いませんね。今までたくさんの人の家を作って暮らして来ましたが、今となっては体も弱ってしまって。それでもこれまで自分なりにかけて来た恩のおかげでこんな年まで生かさせてもらっていますけどね。

 もし家族の負担になるようであれば遠慮なく父母や妻たちの所へ向かうつもりですよ。もう六十五まで生きましたからね、悔いはないですよ」

「私から見ればまだ六十五歳なんですけど、これから先何か楽しみとか」

「特段ありませんね。私には四人の子どもがいたんですが、その内一番下の子は病にかかって二歳で死に、二番目にできた女の子は七年前に三十三歳で十五年前に死んだ妻の元へ行きました。

 そしてその二番目の娘が産んだ二人の子の内の下の子は、産まれて数ヶ月でね……これ以上、子どもたちの死を見たくないのですよ」




 南では六十五歳と言うのはようやく仕事を終える程度と言う年であり、その年になってからようやく自分のやりたい事ができるそうです。

 わたくし達の場合、そんな年まで生きる事がまずありませんし、村尾さんの言う通りそんな年で何を楽しみに生きれば良いのかわかりませんからね。


 食ですか?毎日毎日いろいろな物を楽しむだけのたくわえがあればよろしいのですが。子孫の発展ですか?村尾さんみたいに子孫が先に死んでしまうのをわたくしは見たくありませんし、下手をすれば自分のせいで彼らの道をあやまらせてしまう事もあります。


 長生きが楽しくないなどかわいそう?いえいえ、十分生き切った結果であれば問題はないと思いますよ、まあ村尾さんのお子さんやお孫さんのようにそうだったとは思えない場合についてはいささか悲しいとは思いますが、それもまた運命と言う物なんでしょう。


「偉いと思っているからこそ、約束を反故にはしないんですよ。一度した約束を破られたら怒りますよね」

「それは当然ですよ」

「自分たちは一度した約束は絶対に守る誠意ある人間だ、と言う事を示したいんです」


 なんかそれって、自分たちは誠意ある人間だって事を示したくて仕方がないって聞こえるんですけど、何か間違ってますかね。


「佐藤さんの言う通りです、見知らぬ相手なればこそ礼節を尽くさねばならないのは当然の事ですが、南の方ではとにかく礼が少ない事は誠意がない事であると見なされます。そうなれば無論良い暮らしはできません。ですから誰も彼も、礼を尽くす事に汗を流します」


 良い暮らしをするための礼って、礼ってそんな目的のためにある物でしたっけ。わたくしの頭の中では、礼って言うのは相手にいやな気持ちをさせないためにある物だと思っているんですけど、何かまちがってます?


「だからこそ黒辞書なんて言う物ができるんです。時と場合によっては相手の心を傷付ける、非礼となる可能性がある言葉を使わせず、誰も傷付かないようにする為に」


 でもその結果、マコトさんはほとんどすべて失いそのお体だけでわたくしたちの所へ来なければならなくなったんですよね、傷付いてますよねとわたくしが言ったらマコトさんはなるべく少ない人間しか傷付かないようにって言い直してくれましたが、いずれにせよその良い社会を作るために作られたはずの黒辞書のせいで、マコトさんと言う一人の人間が傷付いてしまった事は本当の話なんですね。


「まあ、そうなんでしょうね。南の人たちからしてみれば私はあの瞬間から異物になってしまったのです、それも害をもたらす存在としての」


 あるいはマコトさんは南ではもう人間として扱われてないんですかとわたくしが申し上げたらマコトさんはこの調子です。ひどくつらい事のはずなのにマコトさんの目はとてもきれいであり、どこか割り切った感じでした。

 故郷である南の方にもはや何の未練もないのでしょうかね、故郷を追われるなんて実にさびしく悲しい事のはずなのに。わたくしにはがまんできませんよ。


 やれやれ参ったなと思いながら村尾さんの家を出ると、空に二本のけむりが上がっていました。

 南の人たちが見えたならば火をつけて下さい、そう村尾さんは田中さんの長男と山本さんの次男に伝えていました。あの白いけむり、まぎれもなくお二人の合図です。普段は狩りに使っている合図がこんな風に役に立つとは、全くのろしって言うのは便利ですねえ。


 おっとこんな所にぐずぐずしているひまはありませんね、いざ参りましょう。

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