マコトさんの戦慄
「今日はよろしくお願いします」
次の日、マコトさんが田起こしのお手伝いと言う事で、わたくしたちの家にやって来ました。いや、全くありがたい事です。
「今年は西の方へ開拓に向かうと言う話でしたが、東や北はともかくなぜ南の方へ向かわないのでしょうか?まあ私も南の方にいた時にはここの事などまったく気にしていなかったですけど、なぜここの方たちは南の事を気にかけないのでしょうか」
そうです、わたくしもなぜなのか全然わからないのです。あえて言えば、この村の方がここちが良いからですかね。マコトさんだってそうなんでしょう?
村尾さんはわたくしたちに今のままではいずれ持たなくなる、人が多すぎて土地が壊れてしまうかもしれないと言う理由で西への開拓をすすめています。まあ、要するに南の方が既にマコトさんのお仲間さんたちによって開拓されていると言うのが一番の理由かもしれませんけれどねえ。
「申し訳ありません、嘘を吐いた事をお詫びいたします。本当は南にいた時もここの評判はある程度聞き及んでいたのです。怒らないで聞いていただければ幸いなんですが、まったく知識も道徳も教養もない場所であると言う、この上なくひどい場所として」
確かに、マコトさんからいろいろ聞いた事を合わせると南の方の子ども、わたくしの上の娘と同じぐらいの年の子どもの知識と言うのはわたくしよりずっと上で、下手をすれば村尾さんより多くの事を知っているかもしれないようなのです。
しかし、それでもわたくしたちは生きています。南の人と同じように生きています。マコトさんとわたくしや鈴木さん、斉藤さんには何の外見的な区別もありません。なのにどうして南の人はわたくしたちをそんな風に言うのでしょうか。ああ、気を悪くしたわけではありませんから。あれ、どうしましたか?
「いえ、何でも、ありません…失礼します!」
おやおや、田中さんが誰かとお話ししているようです。おやあれは、昨日の緑の服の方ではございませんか。田中さんの隣では田中さんのご長男が緑の服の方を鋭くにらみつけています。緑の服の方は田中さんのご長男の視線にひるんだのか深々と頭を下げて去って行かれました。
「ちょっと長男、失礼ですよ」
「だってお父さん、あの人がこんな鋭い目でお父さんの事をにらんだんだもん。父さんにそんな事する奴は大嫌いだよ!」
今年で確か十四歳になる田中さんのご長男は、田中さんにたしなめられてなお怒りがおさまらないご様子です。
「ああ佐藤さん聞いてくださいよ、あの人うちの父が今年西へと開拓するんですよ成功するといいですねって言ったら、今なんとおっしゃいましたって、こんな怖そうな言い方で父さんの顔をにらみつけたんですよ」
それはそれは……わたくしマコトさんとのお話で田中さんの方には気を配ってなかったんですが、確かに怖そうな声色ですね。
いやまあねえ、田中さんのご長男の意見もごもっともだと思いますよねえマコトさん、あれ?おやおや下の娘、どうしましたか?
「すみません、手拭いを忘れたと思い込んで」
「もうマコトさんどうしちゃったの?あたしの家に走って来て手ぬぐいはないかってあわてちゃって、ちゃんと持ってたのに」
誰にだってまちがいはあります。まだ初春の頃とは言え体を動かすと汗をかきますからね、目に入ったりするとまともに仕事できませんし、その上汗がかわくと寒くなりますからね。
そしてこの時期だとあまり問題ありませんが、夏などは汗をかきすぎて倒れ込んでしまいそのままあの世へ旅立ってしまったと言う話を聞いた事がありましてね。それに春と言ってもまだまだ寒い日もありまして、寒さを防ぐにもある程度は役に立ちますからねえ、まあこれは経験ってやつですよ。
「そうですよね、ちょっと慌てふためいてしまいまして申し訳なかったです」
「ほらそれですよ佐藤さん、さっきの男の人、ちょっと前まで普通に笑ってたのに父さんがそういう言葉を言うとこんな怖い目つきになったんですよ」
「どれをですか」
「です、ですよ」
「はあ」
「だからですって言う言葉ですよ、父さんが開拓するんですって言ったその時にまゆげがぴくって動いて、そして成功するといいですねって言ったら目をこんなにして」
わたくしはその時、黒辞書を思い出しました。~ですと言う言い回しは、英語と言うわたくしにとってはよくわからない言葉を使う人にとっては死ぬと言う事を意味する単語なんでした。しかしここでは英語なんて誰も使いませんから、知らなければ何にも気にする事はないはずなんですけどね。
「もしかして、マコトさんと同じ…」
「あなた、マコトさんは初めて会った時からそんな顔はなさいませんでしたよ。それに口ばっかり動かしている暇はないんですからね」
おやおやいけませんでしたね。田んぼをしっかり耕さない事にはまず米がみのらないのですから。そうなってはそれこそ一大事です。と言う訳で田中さんとのお話はそこまでにして、田んぼを耕さなければなりませんからね、これは失礼。
とは言ってもやはり気にはなるものでしてねえ、日が落ちる間際まで仕事を続け、マコトさんと一緒にわたくしの家に戻ってから聞く事にしようと思った訳なんですよ。
そこに鈴木さんが何か悩んでいるような顔でやって来ました。わたくしがどうしたんですか鈴木さんと声をかけようとすると、鈴木さんはわたくしではなくマコトさんに向けて頭を下げて来ました。
「ああマコトさん」
「何ですか?」
「マコトさんならばわかるかもしれないと思うんですけれど、さっき緑の服を来た方が何だか変な板を持っていたんです」
「どんな風に変なんです?」
「何か、黒くて輝いていて、山本さんが掘って来るような石とも違う感じの。確かに珍しそうな感じがしてうちの次男も何あれって感じで見てたんですけど、その後気味が悪い事が起こりましてね」
「気味が悪い事?」
「その石の板に向かって、何かをぶつぶつとつぶやいていたんですよ。それからその後でその石の板を指で突いて、その後緑の服の中にしまい込んで……」
全く変な行動ですよね、その石の板を突く事や石の板に向かって話しかける事に何らかの意味があるのでしょうか。でもどうしてマコトさんにうかがおうと思ったのですか?マコトさんには悪いですけど村尾さんの方が知恵がありそうですけど。
「私もそう思いまして村尾さんに聞いてみたんですけど、彼にとっては重要な物なのだろうって言われてそれっきりで、まあ確かに私たちが舟とか持っていてもしょうがないですものね、長野さんはともかくねえ」
その通りです。わたくしがもしくわやすきを失ったらそれこそ生きていけませんよ、舟に乗り魚を捕って暮らしている長野さんが舟がなくなったらそれこそ生きていけないのと同じようにね。
「ええ…念のためにと思いまして、それでマコトさんならば知ってるかもしれないと」
「わかりました。でもどこから説明すべきでしょうか」
「やはりあの黒い板が何なのか知ってるんですね」
「はい、あれは携帯電話と言う物です」
けいたいでんわ…………ですか。マコトさんは時に、いや特にこの村に来た頃にはほとんど毎日のようにわたくしたちが知らない言葉を言って驚かせてくれたものですが、久しぶりですね。
「あの板ではるか遠くの人とお話をすることができるんです。またデータ、要するに文字を送る事も出来るんです。それを使って誰かと話していたのでしょうか」
「へぇ……って言うかってことはもしかしてその人も」
「ええ、南から来た人だと思います。それで何かおっしゃっていましたか?」
「はい、確か……上から下まで望みなし……と」
「失礼します!」
マコトさんは突然真っ青になって走り始めました。いったい何があったと言うのでしょうか。わたくしと鈴木さんは思わずあっけに取られたまま、マコトさんが戻って来るまで立ちつくすしかありませんでした。
「申し訳ありませんでした。この村は危ないかもしれません」
やがて戻って来たマコトさんの顔色は走って来たつかれを差し引いても青く、見るからに大変な何かが起きたように思えました。ってか危ないって何がですか?大雨ですか、日照りですか?
「違います、南の人間たちが攻めて来るかもしれないって事です」
「攻めるって、戦争ですか?」
「そうです。この村をこれ以上このままにしてはおけないという事で来ると思います」
「わたくしたちがこうして暮らしている事が、南の方にとっては気に入らないと?」
「はい、おそらくは。自分たちと同じように清く正しく美しく暮らしていない人間がいる事が許せないのだと思います。
自分たちと全く同じ姿をした生き物が、自分たちよりはるかに遅れた、そして汚らしい生活をしている事が許せないのでしょう。その存在のせいで自分たちまで程度が落ちてしまうのではないかと言うつもりなんでしょう。
あるいは皆さんの事を心底から哀れみもっともっといい生活ができるはずなのになぜそうしないと教えてあげようとしているのかもしれません」
……不満はないんですけどね、今の生活に。あえて言えば、もう一人子供が、男の子ができるといいなって言う事ぐらいですかね。もちろん米がたくさん取れればそれもいいんですけれど。妻などはマコトさん心配し過ぎですよって笑ってましたけど、マコトさんの顔は真っ青なままでした。
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