穏やかな生活

 あれほど積もっていた雪がいよいよ全くなくなり、カエルの鳴き声がひびく様になって来て、わたくしたちが田んぼを耕して肥しをまき、土を肥えさせる日々が始まった頃。

 緑色の服を着て背中に大きな荷物を抱えた男の方が村に現れました。


「あの、きよのさんと言うお方の家はどちらに」


 わたくしが知らないですと言いながら首を横に振ると、男の方はがっかりした様子でどこかへと歩いて行きました。


「知りませんね、それよりも田起こしですよ」


 そうですよねえ、見た所さほど疲れている様子もないようですし、放っておくとしましょうか。もちろん、足取りがふらついていて苦しそうだったならば助けるなり誰かを呼ぶなりしていたのでしょうが、見た所そうではありませんでしたからね。

 それにしてもあの緑色の服は何なんでしょうか。マコトさんのそれとも違う、ずいぶんと丈夫そうな服ですがねえ。まあ、どうでもいいですけど。


「この田起こしが終わったら次は苗作り、そして田植えですよ」


 その先がいよいよ……そうです。村尾さんが言うには、今年の夏こそいよいよ本格的に西の山の向こうを調べる事になるようです。ここ何年か、少しの豊作と普通ぐらいの取り入れの時期が交互に続き村全体でたくわえに余裕があります。


「でも場合によっては、あなたも出番があるかもしれませんよ」


 一昨年は豊作でした、でも去年は普通でした。いや米の取れた量と言うより、雑草やら虫やらの数が多くて米の世話にいまいち集中できなくて、それがいけないんでしょうね。

 まあ彼らからしても生きるのに必死で、あるいはわたくしたちが油断している豊作の年に彼らはひっそりと力をたくわえ、次の年に本気を出すのでしょうか。

 まあ、生きるのに必死なのは我々と同じ事ですからね。あまり責め立てても仕方がありません。しかしまあ、稲もそうですが雑草も虫も早く育つ物ですね、一年であんなに育つんですから。うちの上の娘なんか八年経ってもまだあんな子供ですからね。でも、いざこういう時が来るとマコトさんみたいな人ってありがたいですよね


「うちは男手が一人しかいないですからね。もちろん鈴木さんや田中さんのような近所の人にもいざと言う時にはお頼みしますけど、そう考えるとあなたの言う通りマコトさんの様な人ってありがたいですわね」


 よその家では未婚の兄弟とかいとこがいて刈り入れ時とか言う忙しい日に手伝ってくれるんでしょうが、うちにはそんな便利な存在はいませんからね。


「わたくしたちが食べられるだけの量はとりあえず取れてますし、それから蓄えもある程度はありますから」


 そうです、わたくしたちは正直これと言って食を始めとした生活に困る事はなく暮らせています。

 不安があるとすればうちには娘しかいないんでこの家をどうするかって言う事がありますが、まあその程度です。


「あの人もマコトさんと同じように村中を渡り歩いて暮らすつもりなのでしょうかね、マコトさんと同じように南の方からいらっしゃったのでしょうか」

「それにしてはずいぶんと重そうな荷物を抱えていますが、さらに北へと向かいたいんでしょうかね」

「北の村はまだ雪が残っていて危ないですよ、今度見かけたら注意してあげましょう」


 マコトさんはほとんど着の身着のままでこちらの村へ逃げて来たとおっしゃっていますが、あのお方は違うようです。いかにも万全の用意を整えてここに来たと言う感じで、一体ここに何をしに来たと言うのでしょうか。

 わたくしがくわを振り下ろしながら妻と一緒にそんな風な事を言っていると、マコトさんが何かを包んでいたっぽい布を握りながらやって来ました。


 そう言えばわたくし、マコトさんに以前から聞いてみたかった事があるのです。マコトさんはどうやってこの村に来たのか、わたくしは村の中では北の方の住民なんで南の方の事はよくわからないんですが、少なくともわたくしの中ではこの村から南の方へ向かった人がいるって話は聞いておりません。


「すみません、これからかじ屋さんの手伝いをしなければならないのでごめんなさい」


 でもマコトさんはわたくしの質問に答えてくれませんでした。まあ、マコトさんもお忙しいのですから仕方がありませんね。

 もしわたくしの仕事に余裕がなく、かつどうしてもマコトさんがどうやってこの村に来たのか知りたいのであれば、むりやりにでも止めてうかがったかもしれませんが、正直な話わたくしと妻だけでも十分足りてますし、それにマコトさんがいやがる物をむりやり聞いても仕方がありませんからね。


「ぜいたくを言っちゃダメでしょう、お米が新しくとれるまであと七ヶ月はかかりますよ。その事をよくわきまえなさい」


 まあ欲ってのはつきないもので、娘たちはいつものご飯は飽きたって騒いでます。妻の言う通り新しい米が取れるのは七ヶ月も後ですから、それまではこれまで収穫した米やそれと交換した野菜や調味料などで作った物を食べるしかないのです。

 まあ、新しい米が取れた後でもあまり変わりませんけどね。まあそれなら海の方にでも行って……


「やめてくださいよ、ホタテ一枚にわたしたち四人が食べる米をどれだけ渡さなければいけないと思ってるんですか」


 そうですよね、まあそういう事なんで、二人ともわかりましたね。


 わたくしとしてもたまには娘たちの希望を聞いてやりたいと思った事があり、海の方へ行ってどれぐらいの価値があるのか調べた事もあります。そしたら驚きましたね、ホタテって言う貝ひとつでわたくしたちが食べる二日分の米を渡さなければいけないようで。

 アワビとか言う貝に至ってはそれを買ったら十日分の米がなくなっちゃうほどで……まあとてもとても手が届く物ではございませんね、まあ娘が嫁に行く時とかは考えてもいいかもしれませんけれど。


 まあどうしてもと言うのならば今度南の川で釣りをして暮らしている長野さんと言う方からもらって来ようかなと言ったら二人とも全くきれいな目をしながらおねがいって甘えて来ましてね、よっぽど飽きていたんでしょうね。


 そして妻も次の日に田起こしのやり方を教えるから二日我慢しなさいって娘たちを説得しましてね、その上で食べられるかどうかはわからないわよって前置きをつけましてね。まあちゃんとやるべき事をやれば出来不出来はあるにせよ確実にとれる米と違って魚はいるかいないかわからない物ですから、こればっかりは仕方がない事です。


 ましてや貝って言うのは米や野菜と違って少しでも放っておくとすぐダメになる物だそうで、まあ冬はともかく夏なんて一日で食べ切らないとダメだとか、全く面倒くさいですよ正直。

 海までかなり遠い所にわたくしの家があるのがいけないんでしょうけれどね。その分肉や野菜などは結構簡単に手に入る物で、海のそばに住んでる人にうらやましがられた事もあります。


「あたし、大きくなったら海の方の人とけっこんするー」

「でも毎日だとあきるかもしれませんよ」

「大丈夫だって」

「その前にはちゃんとお前がその時まで生きなければダメだよ、わかったらちゃんと食べなさい」

「うん!」


 マコトさんから以前うかがった事があるのですが、マコトさんが住んでいた南の方では子どもを三人も持つ夫婦ってのはめずらしい存在だそうです。

 わたくしたちなんか二人でも少ないと思い、今度男の子を授かりたいと思っている訳なのですがどうしたらいいのやら。村尾さんにうかがった事もあるのですがそんなのは天におまかせだなんて言われてしまいましてねえ、まあ確かにその通りですけどね。


 わたくしが母と、姉と、父をなくしたのもまた天命ってやつなんでしょう。父は四十一、姉は二十五、母は三十と言う年でこの世を去ったと申し上げましたらマコトさんは本当に悲しそうな顔をしながらわたくしを見つめました。南の方ではそんな若くして双親や身内を失う方はめったにないそうで……。

 とにかく我々はそうやって多くの身内を若くして失う場合が多い事から、とにかく子どもが多い事は一つの価値であるとされ、また同じ理由で結婚や子どもの誕生をなるべく派手に祝っていると父から聞かされた事もあります。わたくしが生まれた時にどれほど祝われたのかは記憶にありませんが、娘二人の誕生を派手に祝ったのはよく覚えております。


「どこでお産みになるんですか」


 以前、マコトさんのその質問に対しわたくしが自分の家ですけどと答えたら、マコトさんは感心したような驚いたような表情になりながらうなずきました。南の方では自分の家で子どもを産むことなどほとんどなく、びょういんと言うとこに行ってうむ事がほとんどの様です。

 正直な話、たくさんの子どもをうみ全ての子どもが育ち終わるまで生きている女性なんてそんなにいませんからね。悲しくないのかですって、はい大して悲しくはありませんよ。もちろん死んだときには悲しみましたけど、早い遅いの違いだけで人間はいずれ死ぬ物ですからね。

 南の方では七十歳なんてざら、九十歳以上まで生きる方もさほど珍しくないとか。わたくしが今まで生きて来て目にした一番年かさの方ってのは、今六十五歳の村尾さんです。


「それで、うまく行っているんですか?」


 行っていますよ、たくさん人は死にますが、それと同じか少し多いぐらいに人も増えていますから。ただ不安があるとすれば田んぼの事です。最近はどうも量はともかく質がやや落ちている感がありまして、再来年には十五年に一度のあれをやらなければいけないのではないかと言う感じでねえ。


 あれって言うのは単純な事です、まったく種を植えない事です。もちろん米はまるで取れませんが、それをやらずに何十年と同じ土地から米を取ろうとしてしまいには雑草しか生えない土地にしてしまった方がいましてねえ、まあそれは百年ほど前の事でわたくしも又聞きの又聞きなんですが、自分の田んぼがそんなひどい土地になってしまうと考えると恐ろしくて仕方がないですよ。

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