マコトさんの過去
ここからしばらくは、わたくしが今年の正月にマコトさんから聞いた、マコトさんがかつていた南の方のお話です。
マコトさんがいた南の方の村、いやマコトさんは市って言ってましたけど、そこにはずいぶんと高い家がずらっと並んでいるそうです。
マコトさんはそこで「じょう水器」とかって物を売る仕事をしていたそうです。じょう水器ってのは、きたない水をきれいにするための物だそうです。
わたくしどもは井戸と雨水と、それから近くを流れる小川の水でまにあっているので必要だとは思えないんですが、マコトさんがいた所ではたくさん必要みたいですね。
「より良き水を届ける事、それがわたくしたちの仕事でございます。お客様の為に、今日も全力で仕事しましょう」
「はい、美川常務!」
ある日、そのじょう水器を売る会社って言う組合の中で3番目にえらいじょうむっていう人が、すごく高い建物の中でそうマコトさんたちの前で叫んだそうです。
あっ失礼、じょうむって言うのはそのお方の名前じゃなくて、肩書きって物だそうです。肩書きって言うのは、自分がどういう人間であるか示すための物だそうです。
わたくしならばえーと、「村の米作りの男」ですかね。
美川さん、それがマコトさんがいた会社のじょうむさんのお名前ですか……って言ったらマコトさんなぜかみょうなかんじでほほえみました。
「マコトってのは下の名前なんでしてね、本当は」
下の名前?わたくし生まれてから今まで、佐藤さんとこの男の子と呼ばれ、佐藤さんとこの息子さんと呼ばれ、そして今は単に佐藤さんです。それでまるで不自由する事なく過ごして来ました。
それでわたくしの家族は佐藤さんの妻、佐藤さんの上の娘、佐藤さんの下の娘。それで別に何も問題ありませんでした。
うちの妻も昔高橋さんでしたが、私に嫁ぐ前は高橋さんの娘と呼ばれていて、それで何にも困る事はなかったようですよ、まあ聞いた事がないのでわかりませんが。
強いて言えば二宮さんって海の方に住んでる方の所に双子が生まれてどうしようって事になったらしいですけど、男と女だったんで双子の男の子と女の子であっさり終わったようですよ。
――――美川清正、それがじょうむさんの全部の名前だそうです。ずいぶんと長いですねえ、この村には五文字より長い名前の人はいないんですけれど。
おっといけません、美川って言うのは名前って言うより「みょうじ」なんですねえ、わたくしたちの佐藤や鈴木とかと同じような。それで単に「名前」って言うと「清正」の方なんですね。
とにかく、その美川清正さんって人がマコトさんたちに向けて大声で叫ぶとマコトさんたちはバラバラに散らばって行った、って言うのが日常事だったとマコトさんは言ってますけど、わたくしにはてんで想像もつきませんね。
そしてそれ以上に想像がつかなかったのは、そうやって叫び声を聞いた人の内十人に六人が建物から出て行かないって事なんです。
わたくしが今住んでいる建物の広さが五十倍、高さが十倍の建物だそうとは言え、一体その中で何をすると言うのやら……と言うわたくしの疑問に対してマコトさんは大変真面目に説明しようとしてくれましたが、何が何だかちんぷんかんぷんですよ、本当。
「金属でできた机の上に置かれたパソコンって言う機械の……いややめましょう」
ってマコトさんは苦笑いしてましたけど、わたくしには「ぱそこん」って言う以前に「機械」ってのがわかんなかったんですよ。ああちょうどいい頃合いの事ですかって言ったらそれは「機会」って言う別の言葉だそうで、いやはや世間は広いですねえ。
それでマコトさんの仕事って言うのは、じょう水器がどこにどれだけ売れたのか調べるって言うお仕事で、そしてその数をしらべてまとめてえらい人に伝えるのがお役目だとか。
毎日毎日、数字と向き合ってすごして来たそうです。と言うか、南の方から来た人はみんなそんな生活をしているそうです。
「ははあ……って言うか億って何ですか」
まあわたくしが仕事や生活の内容以上におどろいたのは、数の話です。わたくしなど三百六十五より大きい数を使った事などめったになくて、千より大きな数なんて一度も使った事などなくて、万より大きい数はもう何て言うかすらわかりませんでした。
億って言うのは万のそのまた万倍だそうで、それで兆って言うのは億のそのまた万倍で……えーと、正直見当も付きませんね。と言うか、万より大きい数を知らなくともそれでも今まで何の問題もなく暮らす事ができたんです、わたくしは。
あっさっき、じょうむっていう三番目にえらい人って言いましたけど、わたくしはどうも「えらい人」って言うのがよくわかんないんです。
「ここで一番えらい人って誰なんでございましょうか?」
ある時マコトさんがして来たそんな質問に対して、わたくしはなんとなく村尾さんって答えましたけど、何をもってえらいのかよくわからないんですよ。
一番大きな家に住んでいて今度の西の方角に何かあるか調べようと言い出して、それでわたくしを含めて村の多くの人がなんとなくそれでいいかってなってるんで、まあ村尾さんが一番えらいって事なんですかねえ。
まあ村尾さんだって家が大きくて、それでわたくしたちの家を作ったり直したりしてくれる事以外、わたくしと大差はないんですがね。
「じゃあ特段何をなさるって訳でもないようでございますね。何か村の掟に反した人をどうかなさるとか」
掟ですか……まあ必要以上に食べ物や水、肥料をむさぼる様な人は罰として収穫の一部を持ってかれるそうですけど、あとは特に……って言うかそんな話はわたくしがまだ十五になるかならないかの頃以来聞いてないんですけど。
あと何かあるとすれば神様へのお供えをおこたるような人は冷たく扱われるそうですが、まあ生まれてから二十六年間この村で過ごしているにもかかわらずわたくしそんな人見た事ありませんけれど。
まあいずれにせよ、村尾さんが中心になって何かするっていう訳じゃなくて、そういう人が出るとわたくしも含めてみんながそうしたんです。と言っても十五年以上の前の事ですから、わたくしの記憶もおぼろげなんですがね。
「私たちの世界では偉い人とそうでない人には差がありましてね、偉い人はそうでない人と同じだけ働いても多くの物を得られるようになっています。まあその偉い人の大半は元偉くない人でしたけど、この村でも年を取った人は尊敬されるんでしょ?」
そう言えば村尾さんは今年で六十五歳だとか。五十歳まで生きる人が二人に一人ぐらいしかいないこの村では、六十五年なんて果てしない年月ですよ。
村尾さんの長男は四十二歳で、その長男の最初の子ども、すなわち村野さんのお孫さんは十九歳と十六歳。それで上の方の女性は今度町村さんって言う山でキノコを取ったり鹿を追い掛けたりしている家に嫁いだって言うんですから、気が遠くなりますよ本当。
それで、じょうむさんよりえらいのがせんむさんって方で、一番えらいのがしゃちょうさんっていう方だそうです。
そのしゃちょうさんって人に怒られるとマコトさんたちは何もできなくなってしまうそうです、それってわたくしたちが神様に怒られて稲が育たなくなりご飯が食べられなくなるような物なんでしょうか、ああこわいですねえってわたくしが言ったら、マコトさんは首を横に振りました。
「会社で一番怖かったのは、社長でも専務でも常務でも直接の上司でもなく、手倉修子って言う人でした」
てくらしゅうこさん……ああすみません、「てくら」って言うのが「みょうじ」で「しゅうこ」が「名前」なんでしたね。で、その人はどんな人なんです?
「私の会社の社員……と言えば社員と言えますが、よそから派遣されて来た人で給料は、ああ働きに応じてもらえるお金の量の事を言うのでございますが、それはそんなに多くなかったんでありますけど」
おかねって……ああそれその物に何かと取りかえられるような価値があるってみとめられた金属や紙の事でしたっけ。この村にはそんな物ありませんからねえ。
以前マコトさんがさびしそうな顔で丸い金属の塊と1枚の紙を見せてくれたことがありました。十って数字が書かれた赤茶色をした2枚の丸い金属の玉、そして千って言う数字が書かれた一枚の紙。
「これで何ができるんですか」
「私たちはこれと米や野菜、その他を交換して暮らします。それが私たちの生活と言う物なのであります」
わたくしの家にある紙は、さっきも言っていたおとぎ草紙の本と稲の育て方の本だけで、そしてそれはわたくしの知っている他のほとんどの家にある物です。
鈴木さんの家にも田中さんの家にも、村尾さんの家にも高橋さんの家にも。ああ失礼、村尾さんの家にはおとぎ草紙を聞かせるような子どもがもういなかったんでおとぎ草紙はありませんでした。
まあ正直な話、ないと少しは困る物の別にご飯が食べられなくなる訳じゃありません。それに対して金属はって言うと田畑を耕すすきにくわ、雑草を切り取るかま。それらがなくなったらと考えるとそれだけで身ぶるいがしますね、いや本当に。
ところが、マコトさんが言うにはこの金属の玉を百個集めてやっともう一方の紙一枚と同じ価値だと言うんです。全く、不思議な話ですねえ。それでそのおかねってのをたくさんもらえる人がえらい人なんですよね、そのはずですよね。わたくしは正直訳が分からなくなってしまいました。
「手倉修子、彼女は私たちの見張り役であり、私たちが間違った事をしていないのか、その事を調べるためにやって来た存在でありました」
まちがった事って言うと、その数字がまちがっていないとか、あるいはおかねをごまかしているとか……。
「そんなんじゃありませんよ。ところで佐藤さん、子どもの頃好ころすきだったお料理って何で……しょうか」
「おいしかったなと印象に残っているのは一年に二回ぐらいしか食べられなかったホタテって言う名前の貝ですけど、普段はごぼうやニンジンが入ったみそ仕立ての鍋ですかね。今でもですけど」
「そうでしたか、それで今の質問をどう思います?」
「どうと言われましても……」
「実はですね、南の町ではこんな言葉は使えなかったんであります。確か十五ページぐらいに」
マコトさんにそう言われ、わたくしが隣に置いてあった黒辞書の十五ページ目を見てみた所、
『~頃 「好きな」「すごく」などの言葉を続けてはいけません。「殺す」と同音になり相手の気分を悪くする可能性があります。→時、時分』
と書いてありました。
殺す、ですか。まあわたくしたちはみんな米なり野菜なり果物なりイノシシなり魚なりの命をいただいて生きてる訳ですからね、多かれ少なかれ何かを殺している訳です。
狩谷さんなんか自分が死なないためとは言え一体何匹のシカやイノシシを殺しているのかわかんないって言ってましたよ、南ではそんな事もダメなんですか?
「ダメではありませんけれど、殺すとは言えないのであります。撃つとか、切るとか、捕まえるとか、一番極端な人だともらうって言う事もあります」
確かに、山のシカとかイノシシとかは弓矢で撃ったり刀で切りかかったりわなを張ったりして捕まえたりする物であり、同時に山の生き物の命を我々がもらう事でもありますが、だからと言ってそこまで「殺す」って言う言葉を避けるのはどうしてなのかわけ分かりませんよ。
「手倉修子。彼女は私たちがそういう言葉を使わないか、それを見張るためにやって来ていた存在であります。監視役だったのでありますよ、そう直接言うと睨まれるので管理役って呼んでましたけど」
「監視と管理ってどう違うんですか?」
「どこも違いませんよ、この場合。最初一人視察役って言って仕事を減らされた同僚もいましたけれどね」
何でも、「視察」って言う言葉と刀などで相手を刺して命をうばう「刺殺」の読みが同じだからって言う話だそうですけどね。
『視察 「刺殺」と同音であり、相手の心を無用に脅えさせる危険性があります。』
あ、その単語も黒辞書にのっていました。
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