【十五】
なんとなく朝から気分が落ち着かないまま、昼近くになっていた。
天気は今日も晴れ。気温は午前中から三十度に届く勢いで、外の日差しは強力だった。
母が掃除機をかけているリビングから逃げてきたゴンが部屋の中でごろごろしている。
母からは事件の時の記憶は失われていた。マリアンたちの処置によるものだろうと思ったが、むろんあえて触れる必要もなかった。
ジュディの知り合いの医者に来てもらったことにして、軽い暑気当たりだろうということにしておいた。
その後、これといった動きはないまま日々が過ぎていた。
とりあえず特に問題はないはずなのに。なんだろう。
音楽を聴いたりマンガを読んでみたりしてみたが、どうも気分が晴れない。
はあ、と息をついて机に肘をついた。
(お風呂にでも入ってこようかな……少しは気分よくなるかな)
携帯が鳴る。画面に『みつる』の表示。
「はあい、どしたの」
「やっほー、明日出発なんだけどさ。おみやげ何がいいかなー、とか一応リクエスト聞いてみようかと思って」
「あー、もう明日かあ。おみやげねえ、何がいいんだろ。栃木と言えば」
「ギョーザ」
「やめろって」笑った。「んなもん買ってくんなよ。チーズケーキとか、おいしそうなお菓子がいいな」
「いいよ。じゃあなんか見繕ってくるね。ジュディとネコちゃんにも訊いたんだけど、いらないみたいだったから」
「そうなんだ。栃木のどこだって言ったっけ」
「宇都宮から西行ったとこの野張市。なんもないとこよ。北野張って駅からバスで二時間だったかな」
「山の方だっけ?熊とか出そうね」
「イノシシとか出たらとっ捕まえておみやにしてやるよ」
「おー、楽しみにしてるからね。送ってこいよ?」
「クール便で一頭どかーんと。着払いね」
「やめてー。ママが卒倒しちゃう」二人であははは、と笑った。
「じゃあ行ってくるねー」
「んー、気をつけてねー」
電話を切ってから、ふと気づいた。
――胸騒ぎがするんだ。なんでだろう。
※
「明日か」ジェンは少し考えた。「――よかろう、人は手配しよう。カポラに指揮を取らせる。お前が案内しろ」
※
ぎらぎらと陽光を照り返す駅のホームに降り立ったのはみつる一人だった。
むわっと足元から熱気が上がってチェックのワンピースの裾から太腿に這い上がってくる。うわあ、と声が出た。
気の抜けた音を立ててドアが閉まり、にぶい銀色の列車が動き出すのをぼんやりと見送る。遠ざかっていく列車の後尾が、カーブして緑の濃い山裾に消えて行った。
周囲を見回した。屋根もない二つのホームには誰もいない。
離れた位置にある駅名の看板がかすかな陽炎に揺らめいている。むき出しの日差しが帽子を通しても熱を伝えてくる。
暑い。
空を見上げる。
街の日差しと明らかに違う質感がある。さえぎる建物も、雲すらない。ただ周囲には緑があるばかりだ。山がのしかかる様にすぐそばに迫っている。
みつるはバッグを下げて跨線橋を渡り、改札口のある側のホームへ降り立った。
改札口の日陰がやけに暗く見える。目が慣れるのに少し時間がかかった。
ひどく場違いな感じのする自動改札機にカードを触れさせる。緑色のランプが灯るがゲートすらない。何のための改札機なのかみつるは疑問になった。
窓口はあったが人がいない。木製の壁に埋め込まれた券売機が一台あるきりだ。
定期券とかどうすんのかな。余計なことが心配になった。
改札口の横には扉が開け放たれた四畳ほどの待合室がある。窓も開けっぱなしの室内にはエアコンもなく、そこにも人影はなかった。こもっている熱気が扉から漏れ出してくる。
出入り口を出ると駅前はロータリーになっている。停まっている車はいない。目の前の山が圧倒的な存在感を示していた。
周りを見る。右手は駅舎の切れ目の隣がトイレになっている。左側にはコンクリートの柵の向こうに引き込み線があり、整備用と思われる車両が熱気の中で煮えていた。
出た場所は車の降車場のように舗装が低くなっていて、カーブの右側にバス停、左側にはタクシー乗り場らしい看板が見えた。
ロータリー中央のスペースにはさつきが数株植えてあり、まるで絶海の孤島のようだ。
バス停に向かった。来る前に調べたら確か三十分に一本程度の本数はあったはず。
近寄ってみる。時刻表の上に『本日運休』と書かれた紙が張ってあった。
(えー……何それ、そんなの聞いてないわよお)
目を落とす。差掛けの日除けの下にベンチがぽつんとあるだけだ。座った。熱い。すぐに立ち上がる。
(タクシーかあ……高くつくけど仕方ないか)
とぼとぼと乗り場側へ向かいながら携帯を取り出した。看板に連絡先とか書いてないかな。
ロータリーからは真っすぐの道が伸びていて、左右に何軒かの民家が見える。人が生活しているようには見えなかった。
道の向こうから黒塗りの車が一台駅に向かってきた。屋根の上にロゴらしいものが乗っている。
(お、ラッキー)
車がロータリーを回り込んで、乗り場の前で停まった。
近寄っていくと後部のドアが開いた。
みつるが乗り込んだ。
ドアが閉まって車が走り出す。
トイレの陰から人影が姿を現した。
ネコだ。
遠ざかっていく車をじっと見つめていた。
車が見えなくなると、陰から出てゆっくりとバス停に向かう。時刻表に張られた紙を無造作にむしり取った。
車が走り去った方向から目が離れない。
視線が遠くなる。唇を引き結ぶ。
手の中の紙を握りつぶした。拳が胸を押さえる。
※
携帯が鳴った。画面に『みつる』の表示。
「はいよー、もう着いたの?」
少し間があった。
「お友達を預かった」低い男の声。
あかりの顔が険しくなる。
「――あなた、だれ?」
「誰でもいい」素っ気ない。「――これから指定する場所に一人で来い。余計なものを連れて来たら、お友達の安全は保証しない」
言葉に詰まった。ごくっと唾を呑み込む。
「わかったわ」
男は路線の名と駅名を告げた。
「――時間は指定しない。着いたらこの電話に連絡しろ」
「みつるは無事なの?」
母に聞こえないように声を落とした。
「君次第だ」
電話が切れた。
しばらくの間携帯を見つめていた。考える。
(MMだわ、間違いない。目的は、わたし。みつるを巻き込んでしまった)
携帯をぎゅっと握って唇を噛みしめる。
(警察……はだめか。事情を話さなきゃいけなくなる。FSSに連絡すれば通じるんだろうか)
もう一度携帯を持ち直してから、ふと動きを止めた。
(あんな卑怯な奴らだ。盗聴とかしてるかも。連絡してるのがばれたら。――どうしよう。どうすれば)
頭の中がぐるぐると回りだす。目を閉じた。落ち着け、と自分に言い聞かせる。
考えた。なんとか誰かに知らせなくては。
――ジュディ。
メール、と考えてから止まった。確か傍受できる装置があるはず。
手紙。遅すぎる。なにか方法は。
思い出す。
――実体波つかんだ。街の中ぐらいだったらだいたいの居場所わかるデス。
(ジュディにはわたしのいる場所がわかる)
さらに考える。
(……ならば、わたしの考えていることを伝えられないか)
目を開いた。読むことができるなら、伝えることもできるはず。
携帯を机の上に置いた。
胸の前で両掌を組んで目を閉じた。
集中する。ジュディの家の方向を思い出す。思念をそちらへ向くように意識した。
(ジュディ! ――ジュディ!)
心の中で必死に呼びかける。
頭の中の右奥の方でぴかっと何かが光った。
――いた! ジュディ!
また光る。つかまえた!
集中する。
――みつるがさらわれた。わたしをおびき出すつもり。
――助けに行く。わたしを追って。
頭の奥で光が瞬く。驚愕。同意。――伝わった!
確信した。目を開く。
(頼んだわよ、ジュディ)
手早く上着を替えて薄手のパーカーを羽織り、ジーパンとソックスを履く。
バッグを袈裟に掛けると部屋を飛び出した。階段を小走りに駆け下りると「あら、出かけるの?」と美千代が声をかけた。
「うん。友達のうちに泊まるから、今日は帰らない」
スニーカーに足を通しながら言った。ゴンが玄関に降りてくる。
「ゴン、あと頼むね」
頭を撫でた。にゃあ、と返事。
ドアを開けると走り出した。
※
白い長拳服に袖を通し、紐を止めた。ぐるぐると腕を回してみる。
壁に掛かっている年季の入った鹿革の袋を取ると中をちらっと覗いた。
紐を締め、肩に掛ける。
ジュディはふうっと息をつくと、立ち上がった。
(――待ってて、あかり。今行くね)
※
『第三要員は準備室へ集合して下さい。繰り返します。第三要員は準備室へ集合して下さい。』
館内放送が切迫した声で流れる。
廊下を早足で歩くギイの周囲に複数の画面が浮かんでいる。歩きながらそれらを次々と操作しながら口頭で指示を出す。
「――そう。精鋭三十人程を私服で。
別の画像を操作する。
「機動班長、ヘリを待機させて。編成は任せるわ、いつでも飛べるようにしておいて」
その横でマリアンが携帯を使って早口で話す。
「あ、ユミカ。医療班の指揮を執って。救急態勢で待機するようにして。あと別班で移動基地のメンバーも選んでおいて。ニーナに任せていいわ」
呼び出し音。「はい、マリアン」
「移動基地準備できました」緊張した声が飛び出す。
「ユミカの指示を仰いで。ニーナと連携して編成が済み次第FSSの第一班と連携を取るようにしてちょうだい」
「チネーズ! 車を用意して」ギイが別の画面に声をかけた。
マリアンが驚いたようにギイに顔を向ける。
「ちょっと! あなたが出るつもり!?」
足を止めて向き直った。「あなたはナンバー2よ。役員が現場に出てどうするの?」
ギイも足を止めた。
「――マリアン、これは決戦よ。サイキや彼のメンバーがいたら任せてもよかったけど、彼らはアメリカよ。今からじゃ間に合わない」
マリアンが唇を噛んだ。
「主力を置いてきちゃったのはまずかったわね」再び歩きだす。
「わたしのミスよ。MMが拠点を日本に移したことがわかった時点で移動させておくべきだったわ」
「後始末があったから仕方ないわ。他に誰かいないの?ザキは?」
「ザキには別の仕事があるわ。トキとタカノとキタがいるし、あとはジュディでなんとかするわよ」
「彼女は子供よ? 本拠地だとしたら、相当な能力者がいる筈よ。大丈夫なの?」
「わたしにはこれがあるわ」
杖を持ち上げた。リングがちゃらりと鳴る。マリアンはまだ不安な顔だ。
「バルバニアの杖……確かに無敵だけど、敵の本拠地よ」
ギイがかすかに笑った。
「なんとかするわ。チェッカーの名は伊達じゃないのよ。――ここを頼んだわね」
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