第7話 幸せでね

 ひとつひとつの画素が集まってどこか異国の地の画像を表していた。確か、ブラウン管は一つの画素の色を決定するために電磁場を使って直進するはずの電子をねじまげているらしいけれど、このラップトップは液晶だからどうやって画像を表示しているかはわからない。ともかく、そこには異国の地が、砂色の風景が映し出されていた。ハツキが撮った写真。


「その写真ね、この前、アフガニスタンにいったときに経由した、インドでとってきたの」


 ハツキは僕の隣に座りつつ言った。


 そこには警察官らしき男が、浮浪者を警棒で打ち付けている写真だった。たくさん広場には人がいたけど、誰もそんな光景に注意を払わない。駅前の広場。照り付ける太陽。多くの人々が歩いている。多くの人が座っている。うつろな目の人も、生き生きしている人もいる。でも、誰も、警棒で殴られている男を、殴っている男を見ようとしていなかった。


 ハツキは少し恥じ入るように画面から顔を反らした。なんとなくわかった。だから僕は言った。


「ハツキ。僕は君が立派だとおもう」

「…」


 多分、ハツキは自分がその場にいたのに、浮浪者を助けなかったことを恥じたんだと思う。どこの国でも、警官に反発するのは危ない。ましてや、まさに暴力が行われている最中だ。そんな中に女性一人で飛び込むなんて自殺行為だ。


 でも、ハツキは恥じる。自分が思った正しさを行動に表せなかったことを恥じる。なるほど。恥じるのは当然なのかもしれない。行動できなかったハツキは、正しくなかったのかもしれない。


 でも、それはその場にいなかった人間が、口にするべきじゃない。


 これを省みる権利があるのは、本人だけだ。


「君もだよ」


 ハツキは静かに言った。


「君も立派だよ」


 僕はかぶりを振る。僕は立派じゃない。もしも立派なら、君に後ろめたさをおぼえることなんてないだろう。


 ハツキは、次の仕事でシリアに行くことになっていた。内戦の最中で、今行くのは危険だった。その内情を伝える人間はたくさんいたけれど、どれが本当かわからなくなっていた。内戦では、多くの難民がでる。正確な報道は、政治を動かすことがある。


 僕は立派じゃない。僕は立派じゃないから、ハツキに危険なところへ行ってほしくなかった。でも、ハツキは立派だった。彼女は自分の仕事を信じていた。自分の仕事を世界の誰かに見てもらって、世界を回すことを信じていた。僕は彼女の足を引っ張りたくなかった。



 数日後だった。


 ニュースがあった。シリアの市街地で武装勢力が展開した。いくつか空爆があって、民間人が巻き込まれた。その中に日本人の女性が混じっている可能性があると、アナウンサーが言っていた。


 ハツキがいるはずの街だった。


 僕はそのニュースを見て、馬鹿みたいに突っ立っていた。涙も出なかった。本当に何も感じることができなかった。



 二週間は耐えた。だけれど、それはその間正気を保っていられた、という程度の意味だった。たくさんの電話がきた。そして何人かの官僚と会った。なんとなく官僚という職業の人は横柄なイメージがあったが、皆礼儀正しく、本当に気遣ってくれる様子を見せてくれた。ハツキが生きている可能性は絶望的だった。


ほどなくして、仕事を辞めた。ほとんど突発的だった。外界の刺激を遮断すれば、ハツキがいなくなった実感を味わわないで済むと思った。仕事を持っているというだけで、自分が自分以外の人間とつながりを持ってしまっていると感じた。辞表を出してから一度、上司から電話が来たが、僕は何も言えず、ただ辞めます、と再度告げただけだった。


 貯金はあった。何せ共働きだったし、どちらも稼ぎは悪くなかったからだ。


 家のリビングから台所を眺めた。ハツキは料理をあまりする方じゃなかったのに、なぜか僕はそこにハツキがいるんじゃないかと思って、ずっと眺めていることが多くなった。


 時々、名前を口に出した。ハツキ。ハツキ。


 声に出す前までは平気なのに、声にしたとたん、猛烈な吐き気に襲われた。僕は何度も胃液を台所に吐いた。


 感情の濁流にのまれている間は、永遠にこの状態が続くのでは、と思った。でもつらいのはそんなことじゃなかった。何もない時が一番つらかった。ただの日常が。


 そうやって、多分一ヶ月は過ごしたと思う。そしてようやく、外に触れないからといって、ハツキいなくなったことを実感しなくなるわけではないと気が付いた。



 そうだとも。寄り添った方も、寄り添われた方も、どちらも不幸になる。帰納法を使うにはあまりに標本が少ないけれど、でも僕の中で、それは事実だったし、真実に思えた。僕たちは、どちらが寄り添って、どちらが寄り添われたのだろうか。


 本当は、分かっていた。それが重要なことではないということ。幸福と不幸はたいして意味のない言葉だということ。


 だけれど僕は今その基準でしかものを考えることができなかった。自分は不幸だろうか。ハツキは不幸だったろうか。これから幸せになることはできるだろうか。


 どれもハツキが生きているときには、考えもしないことだった。



 ヒカルの言うとおりだった。もしも僕が、一人で生きることが正しいって思えるんなら、それでよかった。ずっと一人で生きていて、自分のためだけに物事を考えて、自分を唯一の道連れに、あてどない旅をする。悲しいことも、うれしいことも、幸福も、不幸もすべて自分のためにある。そんな生き方。


 でも、僕も、そして何よりハツキもそれを善だとは信じていなかった。ちゃんと世界とかかわることを信じていた。自分の目の前に起きた物事に、責任を持つこと。自分が知りえた物事を、自分から切り離さないこと。自分の成果を人の見えるところに置くこと。どこかの他人にそれを取ってもらうこと。世界が回っているということを信じること。


 ずっと一人では、多分そんなこと、できない。今も自分の欺瞞は覚えている。別に自分がやる必要はない、誰かがやればいい、責任を負う必要なんてない。だけれど、その欺瞞が正しいとはもう、これっぽっちも思っていなかった。


 一人で生きていてはいけない。そんなことは分かっている。ずっとゼンマイの切れたブリキ人形でいるわけにはいかない。そんなことは分かっている。いつかはゼンマイをまかないといけない。それも分かっている。


 そして。


 もしかしたらその方法だって、もう分かっているんだろう。



 深夜なのに妙に明るい公園で、ハツキが不器用そうにブランコに乗っている。僕は思いっきりブランコを漕いで、ハツキに何か言っている。


 やがて、ハツキはブランコを降りて、歩いて行ってしまう。僕はまた何か言った。ハツキは振り返って、優しい笑顔を見せた。そして僕にこう言った。


「幸せでね」

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