第6話 アルコール

 ハツキと結婚したのは、まだ僕も彼女も在学中の時だった。


 なぜ、在学中に結婚したのか、よく聞かれるけれど、僕はいつも答えを出せずにいた。一度ハツキにも僕が同じ質問をしたけれど、ハツキも答えられないようだった。


 ハツキは言った。


「そんなこと訊かれても困るよな。ティッシュを買うときに、なんでそのメーカーにしたのか、って聞かれてる気分だ。例えば、なぜ君を選んだのか、と訊かれれば、言葉にできないのも含め千個ぐらい理由を挙げられるんだけど」

「多分、娯楽なんだよ、他人の結婚って。だから皆そんなことを訊くんじゃない?」

「ふうん。娯楽にしてはつまらないと思うけどな」


 卒業してから、僕はしばらく自動車関係の企業に勤めていた。僕は大学の頃はほとんど知りもしなかった弁理士という職業の独立性が高くていいな、と感じた。大学を卒業して二年くらいたっていたが、弁理士試験を受けるために、今まで触れたことがなかった知的財産関連の法律を勉強しだした。


 一方ハツキは出版社に就職した。卒業して二年目くらいから、ハツキは海外への出張が多くなった。僕らは同じ家に住んでいたが、ハツキが家を空けることが多くなっていた。でもよくテレビ電話がかかってきた。


「今どこにいるの?」

「バンコクのホテルに着いたところ。街からの食べ物とか汗のにおいが強いよ」

「よくネットがつながるね」

「ふふ、君は知らないな。大都会だよ、ここ」

「え、そうなの」

「君はほとんど海外に行ったことないものな」


 最初は東南アジアや中国への出張が多いハツキだったが、徐々に情勢が不安定な中東の国に行くようになった。その頃から、ハツキがどこか遠くへ行ってしまうような感覚があった。


 何年かして、ハツキが僕に、会社を辞めていいか、と相談に来た。フリーのライターになりたい、ということだった。僕はそのころ、弁理士試験に受かる前で、受かった後には独立を考えていた。独立にはまとまったお金が必要だったが、すぐでなくてもよかった。


 少しだけ、僕は悩んだ。お金のことは、共稼ぎだったから貯えがそれなりにあって、あまり心配なかった。僕が悩んだのは、ハツキが遠くへ行ってしまう、ということだった。ずっと前から、中東のある国の情勢が正しく伝わっていない、ということを言っていた。そうかもしれない。でもハツキがやることはないじゃないか。そういう言葉がのどまで出かかった。僕は心の底ではわかっていた。自分以外の誰かがやるからそれでいい、その言葉は欺瞞だと。


 僕は言った。


「大丈夫だよ。お金のことや生活は心配しないで」


 ハツキは何も言わず、僕を見ていた。やがて、小さく、ありがとう、と言った。


 僕はハツキから目をそらしてしまった。自分の欺瞞が脳裏から離れなかった。



 なみなみ注がれたビールがなくなっていく。鯨飲、という言葉が板についている。ビール、カクテル、ウォッカ、ビール、ウォッカ、ビール。ヒカルの飲み方は、ほとんどビールだけしか飲まない僕には、不思議に思えた。


 人心地ついた、という様子をヒカルが見せた。こんなに飲んでもあまり酔っているようには思えない。


 僕はというと、二杯目のビールを飲んだっきり、コップにほとんど口をつけなくなった。その代わりしゃべる時間が多くなっている。だからというわけではないけれど、ヒカルに尋ねた。


「そんなに飲んで大丈夫?」

「大丈夫じゃないよー。お腹もうたぷんたぷんだよ」


 笑ってヒカルは答えた。


「いつも飲みすぎちゃうんだよね。あんまり酔わないから」

「僕も酔わないんだ」

「きっとアルコールが体の中に留まらないんだね。すぐに肝臓に行って分解されちゃうんだよ。エタノール、アセトアルデヒド、酢酸、二酸化炭素ってさ。そして体から流れちゃうんだ。お酒の瓶に入っているときは整然と集まっているのに、人に飲まれると一気にエタノール分子は自由になるもんだね」


 僕は少しふざけて、昔の記憶を取り出した。


「君はばかだな」


 気を悪くする風もなくヒカルが応答する。


「あらあら、こんなすーぱーすまーとガールを捕まえておバカ呼ばわりとは、あなたのお里がしれるってもんだよ」


 愉快そうにヒカルは笑っていた。僕もつられて笑ってしまった。


 本当にいつぶりに笑っただろう。僕は妙に感心した。しばらく笑わなくても、どうやるのかを思い出すまでもなく自然に笑えるものだ。


 そして、なんでもないことみたいに、ヒカルは言った。


「このまま、どこかに留まらずに、流れるの…」


 自分の唇が言葉を形作ろうとして、でも、声が出なかった。


 しばらくして、僕は言った。


「わからない」

「流れてもいいと思うよ。でも」


 ヒカルは残ったビールを一気にあおった。結構な量があったけど瞬く間になくなっていった。僕はさっきの台詞をもう一回言った。


「そんなに飲んで大丈夫なの」

「余計なお世話と、あなたを傷つけること言うから。多分、ものすごく傷つくと思うから。だから、お酒の力を借りようと思ったの。あんまり効かないけど」


 何度か深呼吸している。そして、その呼吸が声に変った。


「一人で生きてたら、だめだよ」


 しん、と周りの音がなくなった。その次に、カウンターのグラスを視認できなくなった。それだけでなく、さっきまで視界に入っていたものが意味と形を成さなくなる。


 目の前が真っ白になる。その真っ白にどんどん、おどろおどろしい赤色がしみ込んできた。


「僕は、一人で生きたくて、生きてるわけじゃない」


 どこかで大声が聞こえる。誰かが怒鳴っている。醜い声だ。


「うん」


「僕が望んだんじゃない。僕が望んだんじゃないんだ」


 女々しい言い訳。厳然たる事実の否定。意味のない言葉。


「うん」


「だって、彼女が行ってしまったから。そんなこと、考えたくもないのに」


 こんなことを言うのはいったい誰なんだろう。きっとアルコールに強くないのに飲みすぎたお調子者だ。なんて馬鹿なやつなんだろう。


「うん」


 全部全部。僕の声だった。どうしようもなく、変えられもせず、僕の言葉だった。


 少しして、僕じゃない声が言葉を紡いだ。切実な声だった。


「それでも、一人で生きてたら、だめだ」


 僕は何か言おうと思った。でも意識したとたん、言葉をとらえるのが難しくて、ただアルコールの混ざった呼気だけが口からはかれた。


 心臓がつぶれたように感じた。僕の脳は、ありもしない架空の心臓を描き出して、勝手につぶした。体は痛くないのに、痛みを勝手に僕の脳が感じている。いっそ、本当に心臓が握りつぶされてしまえば、どんなにいいだろう。いっそ、本当に痛かったら、どんなにいいだろう。

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