第4話 落日
かかとで石畳を鳴らして、街を歩く。
平素見ないような古い町並みで、時代劇にでも出てきそうな場所だった。そういえばいつだったか、ハツキと京都に行ったことがあった。祇園の街を覘いたとき、僕は辻斬りが出そうなところだといった。ハツキは笑っていた。
今もその時と似た場所にいる。だけれど、そんな冗談じみた言葉は僕の頭には浮かんでこないし、当然口にも出さない。
観光地なのにずいぶん曇り空が似合う街だ、と僕は感じた。とはいえ、ここ数カ月、晴れが似合う街なんてお目にかかったことなどなかったが。
曇り空であってもだんだん夕日が沈んでいくのが分かる。晴れの日に比べて明度は緩やかに落ちる。それでも時折、太陽は雲の隙間から顔を出した。そしてすぐに覆われる。
古い街を抜けると大きな駅に着いた。らせん状に組まれた木造の柱がある。思い出すまでもなく、近くには昨日のバルがある。
僕は柱の前で立ち止まった。そして迷おうとして、何かに迷おうとしていることに疑問を感じた。全部がばかばかしかった。知らない街も、曇りの日の落日も、アナウンサーの声も、新品の下着も、全部くだらないものに感じた。
きっと、自分の迷いも、考えも、くだらないものなんだろう。人は自分の考えに基づいて行動していると思っている。現実には沢山の環境要因とそれに刺激される本能の集合体があるだけだ。悩むだとか、迷うだとか、考えるだとか、すべて馬鹿げている。
何も考えないようにすると、昨日のバルに向かうことが自然なように思えた。僕はそれに従うことにした。自分の行動を後から正当化するより、マシな気がした。
○
昨日と同じ店。同じ時間。今日も多少にぎわってはいたが、昨日ほどではなかった。
ヒカルは同じ席にいた。僕は昨日のこともあって少し気まずく思ったけれど、ヒカルは僕を見つけて、いかにも気軽そうに、手を挙げた。
「やっ」
僕はヒカルの隣に腰かけた。本当にいるとは思わなかった、と言いたいところだったが、なぜか不思議に思わなかった。ヒカルの行動は、僕には言語化できなかったが、言葉にできないだけで自明だ、と感じた。
一方で、なぜ自分がここに来たのか、正直に言えばわからなかった。もし分かったとしてもそれは後付けの正当化だという気がした。一人になりたくなかっただけだろうか。妻を失った傷を他人に癒してもらいたかったのだろうか。
それとも。
この二カ月の当てのない放浪を、この娘に打ち止めてもらいたかったのだろうか。
「ねえ、大嵐の後は快晴!ってのが相場だとは思わない?ほんとにさ。めったにこの辺は台風なんか通らないから、そのあとの青空を期待しちゃったよ」
僕はヒカルの方を向いた。
「君は、誰なの」
ヒカルは少し驚いたように笑った。
「ヒカルって、昨日言ったじゃない。そんなに覚えづらい名前じゃないと思うけど」
「そういうことじゃなくてさ。君はどんな人なの。名前だけ知ったって、誰かは解らない」
ヒカルは納得顔を見せた。
「あっ、そういうことね。一応、花の大学生だよ。経済学部で、今三回生。金融工学っていうのに興味があって、結構真面目に勉強しているよ」
僕は不思議に思った。この女性は確かに若いが、なぜか大学生という感じがしない。
「本当に…」
僕はすこし訝し気な顔をしたと思う。
「失礼だなー。そうだよ。ちゃんと戸籍もあるし、学籍もあって、友達もいるし、フェイスブックだってやってる。あとで友達申請しておくね」
「僕はフェイスブックしてない」
「あらあら。バーチャルな人付き合いは苦手なの?」
「あんまりほかの人の動向に興味がないから」
「それで?なんで私が偽名を名乗っていると思ったの?」
「偽名を疑ったわけじゃないけれど」
やはり、こんな風にしゃべっていると学生という感じがしない。どこか達観して、でもとびっきり明るい。ヒカルは、僕が学生時代、というか今まで生きてきてあまり会ったことがないような人間だった。
ヒカルは頬杖を突きつつ、改まった感じで言った。
「それで?あなたは誰なの?」
僕は。一番自分を表すのは何だろう。仕事は妻がいなくなってからやめてしまった。身分というものを僕は今持っていない。少し悩んで結局こう言った。
「僕は、ワタナベ ヒロミ。仕事をこの前やめて、ここ二カ月くらい日本各地を転々としてる」
「お仕事は何をしていたの」
「弁理士って仕事。特許を申請する人の手伝いをするんだ」
「わあ、かっこいいな。私、人生で特許なんてものを仕事にする人に初めて会ったよ」
僕はヒカルに聞きたいことがあった。
「君は、なんで今日ここに来たの?」
「ん。うーん。昨日、約束したから?」
「悲しそうにしていたから、楽にしてあげたいからって君は昨日言ってた。何があったら、そんなに、人に……」
おせっかいを焼こうとするの?と続けようとしたけれど、思いとどまった。なんとなく、この言葉はヒカルを表さない気がした。ヒカルは少し考える顔をした。
「理由ね…。理由…。あんまりないなー。でも誰かが悲しいのが好きなわけじゃないよ。うーん、なんでだろ。まあ、強いて言うなら、私が悲しかった時は助けてくれた人がいたから。だから、誰かが悲しんでたら、私が助けるべきかなって」
小さな声で、誰かがつぶやいた気がした。「そうやって世界は回る」。
もしかしたらこの先、誰かが、こんな風に僕の話を訊いてくれようとするかもしれない。それでも、不意に、この女の子に、助けてもらいたくなった。そう思ったとき、僕は自分が助けを必要としていることに気が付いた。
少しの間、僕は黙っていた。ヒカルは勝手に僕のギネスビールを注文していた。すぐになみなみ注がれたビールがテーブルに運ばれてくる。ヒカルは自分のビールを勢いよくあおった。そして、少し息を吸った後、ヒカルは言った。
「ねえ。少し込み入ったこと訊いていい?」
「割とさっきから訊かれてる気がするけれど」
「奥さん。どんな人だったの」
「なんで君に話さなきゃならないの」
「そうなんだけどさ。話すと楽になるかもというか」
ヒカルはなんだかもごもご言った。
「僕はそんな辛そうに見える?」
「うん」
「話したら、悲しくなくなるかな」
「きっと、すこしは」
「でも、ほとんど知らない女の子と二人で話してるところを妻が見たら、妻が悲しむかも」
駄々をこねる子供みたいだ、と僕は内心可笑しくなった。
「私はこれでもお堅い女だからね。大丈夫。それに奥さんもわかってくれるよ。私はただ思い出話を聞きたいだけ。あなたもただ、話すだけ。もしかしたらあなたの気持ちが楽になるかもしれないことなら、奥さんも悲しまないよ」
少しだけ、天井を仰いでみた。しゃれた電球が発する光線が色とりどりの酒瓶に反射してきらめいている。いくつか知っている銘柄を見つけた。雨音がほんの少し聞こえてくる。さっきまで曇りだったのに。しばらくは外に出られないだろう。もしかしたら、こんな夜には長話が合っているのかもしれない。
僕は、ヒカルが勝手に注文したビールに口をつけた。
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