第3話 遠く

 ハツキと昔住んでいた家の近所で飲みに行ったことがあった。普段ハツキは家にいることが少なかったから、外食やお酒を飲むときは都心や空港の近くだったけど、その時は珍しくハツキがしばらく日本で仕事をしていた。


 ビールをしこたま飲んだ後、店の外に出た。屋内と外の界面付近を通過すると急に冷たい流体の中に入った。秋が近いのが分かった。ハツキが僕の後ろから出てきながら、ポケットをまさぐりながら言った。


「いい夜ね」

「うん。いい夜なんだ」

「君、ちょっと酔ってるね」ハツキはタバコに火をつける。

「秋になってきた。薄着でちょっと冷たい風にあたるとき、言いようもない気持ちになる、それにこんな季節は夜の匂いが少し違うんだ、この日のために生きてるって気持ちになる、いろいろ失くしそうで、この季節が本当に好きなんだ」

「訂正。だいぶ酔ってるね」


 ハツキはふう、とタバコの煙と一緒にため息をつきながら夜空を見上げた。


「私はあまりこの季節は好きじゃないな。金木犀の匂いがするじゃない」

「金木犀?いまもちょっと匂いがするね」

「この香りがすると少し焦るね。生き急ぐというか」

「僕にとってはただのいい匂いだけれどね」


 すう、と息を吸った。確かにすこし悲しい感じの匂いがする。


「それにしても君は寒いのがすきなんだな」


 ハツキがいう。


「君は嫌いなの」

「私は北国の出身だからな。冬なんて憂鬱で仕方がなかったよ」

「僕は大好きだったけどね、特に雪が降る日なんか」


 ハツキは笑った。


「君の故郷はほとんど雪なんて降らないだろう?常夏で冬だって全然寒くなさそうじゃない」

「わかってないな。ちゃんと寒いんだよ。冬でも半袖で過ごせるなんて思ってるひとが時々いるけど、全然だよ」

「ふうん」


 眼鏡の奥の少し鋭い目で、僕の方を見た。こんなふうにしているとなんだかにらんでいるみたいだが、本人はそんなつもりはないらしい。もともと切れ長の目でいつも冷静な、男みたいな喋り方をするから、誤解を受けがちだが、実はやわらかい性格の女性なのだ。


 ハツキ、と僕は呼んだ。


「なに?」

「次はどこに行くの?」

「アフガニスタン」

「怒らないでほしいんだけれど、君はどうして写真をとるの?」

「どうして訊くの」

「危険な場所だから。危険を冒して写真を撮る。そして写真をみんなに見せる。それはどんな意味があるの」

「バカにしてる?」

「してない」


 ハツキは少しうつむいたあと、ゆっくり喋りだした。


 写真を撮るだけで、何かが変わるとは私は思ってない。それを見てもらっても、やっぱり何にも変わらないって思うこともある。ジャーナリズムなんてやくざな商売だと思う。でもそれなら私はいったい何をしたらいいんだろう。


 少年兵にあったこともある。彼らはまだ声変わりもしていないような、初経も来ていないような子供たちなんだ。それなのに、立派な悪党なんだ。戦闘でとらえた敵兵の腕をナイフで平気で、まきみたいにたたき切ったり、とらえた娘を犯して、性交中にのどをかっ切ったりするんだ。


 反吐がでるほどの悪党で、でも彼らは誘拐されて兵士になった。誘拐されるときに親を殺すように命じられて、撃たなかったら殺される。大人の兵士たちが、子供たちにガンパウダーを無理やり吸わせて、ハイにさせて、言うことをきかす。そうやって悪になっていく。


 そんなことを知ったって、私に何ができるわけでもない。私は平和な日本で生まれ育った。ばかみたいに幸運に恵まれたんだ。宝くじなんてあるけどさ、私たちはこの時代のこの国に生まれたことですでにとびっきりの幸運を使ってるんじゃないかな。それが、ものすごく恥ずかしくなるんだ。自分が幸運なことがものすごく恥ずかしい。そんな私に、何ができるっていうんだろう。


 でも、わかったことが一つあるんだ。自分のすることは信じないと何の価値もなくなるってこと。写真を撮って、見てもらう。もしかしたら、私よりずっとお金や力があったり、頭が良かったりする人が、見てくれるかもしれない。そしたら何か変わるかもしれない。そう信じないと私の仕事に価値はなくなる。ただの作業になる。


 だから、私は写真を撮るんだ、とハツキは言った。夜の歩道橋の上。車の通りすぎる音。


「私の仕事は、誰かの今日の食べ物を生むことはない。明日の水を運ぶわけでもない。落とされた手足を縫えるわけでもない。それでも私は外にむけて、人の見えるところに自分の成果をおいている。自分の成果を月並みだけれど何かを外に、ほかの人の目につくところに置いておくのは大事よ。他人に、どこかの他人に自分の成果を手に取ってもらう。そうやって世界は回ると思うの」


 そして、そう思うことにしてる、ハツキはそういって僕の方を向いた。


 僕の妻は、今僕の隣にいる。それなのにとっても遠くに感じた。


 もしかしたら、彼女が外国にいる間のほうが、近く感じているんじゃないかと思うほどに。

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