第2話 葉月
葉月。ハツキ。
僕の妻はいつもカメラを持っていた。時々見せてもらう写真はどこか異国の地で、砂っぽくて、日照りが強そうな眺めばかりだった。彼女の写真の一部は、インターネットや雑誌、時には新聞に掲載されていた。
彼女の主張はこうだ。
「私の仕事は、誰かの今日の食べ物を生むことはない。明日の水を運ぶわけでもない。落とされた手足を縫えるわけでもない。それでも私は外にむけて、人の見えるところに自分の成果をおいている。自分の成果を、月並みだけれど何かを外に、ほかの人の目につくところに置いておくのは大事よ。他人に、どこかの他人に自分の成果を手に取ってもらう。そうやって世界は回ると思うの」
○
「どうして」
僕は考えがまとまらないまま、その女性に訊いた。
「どうして、あなたとお話がしたいか?」
「どうして、僕の妻を死んだことにして、僕と話がしたいのか」
「悲しそうだから」
「どうして僕が悲しそうって思うの」
「なんとなくわかるときがあるんだよ。ときどき、お酒を飲んでるとさ、だれがどういう気持ちかよくわかるときがあって」
僕は、どうして悲しそうにしている人と話したがるのか?という質問を飲み込んだ。
「特に悲しそうなひとはよくわかる、悲しそうな人を見ると何か言ってあげたくなって、一緒の気持ち、わかるよって言いたいんだけれどさ、そんなことは望んでないよね、みんな。でもね、本当にときどき、助けが必要な人もいるんだよ、ずっと内側にもぐりこんで、ふさぎ込んじゃう人。つらいときって、本当につらい、すこしわかるんだ、こんな私でも。だから、話しかけちゃうんだよね。ほんとは良くないんだけれど」
「そして、僕には助けが必要だと」
「そうだよ」
言うべきことがあるような気がしたけれど、何も思い浮かばず、そのまま黙っていたいと思った。しかし、自分の本心言わずに自分の気持ちを汲み取ってほしいと期待するには、僕は大人すぎた。そして、自分の気持ちを、何にも包まずいえるほどには子供でもなかった。
「悲しくないよ」
正確ではない。正しくはこうだ。今は悲しくない。たった今は。今以外は、たぶんずっと悲しい。
一人で元の生活に戻るのは耐えられなかった。一人で家に戻るのは耐えられなかった。妻は僕のそばにずっといたわけではないけれど、それでも妻は心の支えだったと後から気が付いた。知っていると思っていた。けれども、何一つ知らないと後から気が付いた。
一人で家に帰れば、否が応でも妻の思い出が浮かんでしまう。台所に、寝室に、リビングに至る所に妻の亡霊がいる。いっそ本当に亡霊でもよかった。話がしたかった。
胸が張り裂け得るなんて言葉は比喩だと思っていた。比喩だと思っていた自分を殺したいと思った。いくら殺したって妻は戻らないけれど、少しはましになる気がした。
「でも…」
そう言いかけて、その女性はすこしだけ微笑んだ。僕よりずっと若い女性だけれど、ひどく達観した表情だった。僕はその顔をみて、とても痛々しい気持ちになった。何を経ればそんな笑顔をするようになるのだろうか。何を見れば。何を知れば。どこかの誰かを見ているみたいだ。僕が一生分の介抱をした女性を思い出す。直後にもっと介抱してあげればよかったと思った。
「君は誰」
「ヒカル。ホンジョウ ヒカル」
「僕と話をして、どうするの」
「あなたの話を訊きたいだけだよ」
「訊いてどうするの」
「あなたが少しだけ、楽になればって」
「この世界で僕が話したいのは妻だけだ。もし唯一僕を楽にしてくれる人がいるとしたら妻だけだ。君じゃない」
ヒカルと名乗った女性は、僕を見ていた。
「そうだね」
僕は立ち上がった。店員を呼んで勘定を頼む。
本当は誰かに訊いてほしいと思った。一人は嫌だった。でも妻がいなくなった傷をほかの誰かと話して埋めるのは、妻に対する裏切りだと思った。
今度は、ヒカルは立ち上がる僕を引き留めなかった。その代りに言った。
「明日もこの時間にここにいるからね」
台風はちっとも弱まっていなかった。
○
僕はホテルで目を覚ました。
いつも、自分がどこからきて、何者で、どこへ行くのかを思い出すまでに時間がかかる。思い出すまでは、悲しくない。
そして、自分を思い出す。言わずもがな。最悪だった。
もしも、自分を思い出さない時間がずっと続けば楽になるのだろうか。ずっとずっと妻を思い出さなければ。
そんなわけはないのだろう。頭ではわかっている。そして、こんなふうなことを考え続けて生きていけるわけはないというのもわかっている。
ずっとゼンマイの切れたブリキ人形でいるわけにはいけない。いずれはネジを巻きなおさなければいけないのだ。それもわかっている。
ただ、その方法だけが分からなかった。
僕はベッドから起き上がった。何となしにテレビをつける。数秒のラグがあって黒い画面から色彩が生じる。急にアナウンサーの声が聞こえてくる。さっきまで意味のある音は聞こえてこなかったことを初めて悟った。そして甲高くていい声とは言えないアナウンサーの声が聞こえてきただけで、地に足がついた気がした。
それを確認した後、僕はテレビの電源を切った。そしてバックパックから新品の下着を取り出した。包装を手で切る。新品の衣類に特徴的な洗剤とは違う匂いがした。
ここ二か月間、どこか知らない街のホテルに泊まり、テレビの声をきき、新品の下着を着ける。誰ともまともに話をせず、日本各地を転々としていた。ばかげている。だからといってその他にやることが全く分からない。いつだって選択肢は広がっている。でも僕にはどうしても、こんなふうに知らない土地をうろうろするしか選べる道がないような気がしていた。
そういえば、この二か月間で、昨日の女の子とは初めてまともに喋った子かもしれない。思い出しただけで鉛を飲んだような気持になった。
ずっと孤独の中にいて、それと自覚せずにさまよっていたが、昨日の女の子が話しかけてきたことで、初めて自分の意識が宙に浮いていたことに気が付いた。
たぶん昨日の女の子はテレビの甲高い声のアナウンサーと同じことを僕にしたのだと思った。だが、自分の状態に気が付いたところで、解決など何も浮かばないのだ。
ホテルを出て、空を見上げると昨日の景気の悪い曇り空が相変わらずそこにいた。現在地からバスで15分程度のところに寺院と美術館が隣り合っているらしい。どうせ何もすることがない身だ。少しくらい文化的な活動をしてもいいだろう。そう思って僕は目的地までの経路を調べ、バス停に向かった。
「あなたが少しだけ、楽になればって」
その言葉を反芻する。楽になるだって?誰がそんなことを頼んだっていうんだ。僕の気持ちがどうなろうが、妻は帰らない。こんなに分かりきった答えがあるのだ。意味のないことはするべきじゃない。
でも、意味のあることだって、もう、したいなどとは思っていなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます