灰雨とアルコール

早雲

第1話 高速

 高速で移動していると何故か気が晴れる。止まると何故か気が塞ぐ。


 僕は子供のころ、母が運転する車でよく眠っていた。車が止まると、不思議と目がさめてしまって、さっきまで心地よかった車内が突然よそよそしくなる。そんな感覚は大人になっても残っていて、たった今、それを思い出した。


「ただいま台風の影響で」「復旧の目処が立ち次第」「大変ご迷惑を」


 止まっている電車の車内。さっきまで読めていた文庫本も、文字が頭に入ってこなくなる。少しの間、逡巡する。周りの乗客は同伴者と話したり、電話をかけたり、メールを打ったりしている。


 僕の場合は予定していた目的地にさしたる用事もなく待つ人もない。ついでに言えば現在の僕は”休業中”の身なので、時間にも困ってはいない。


 どうやら復旧の目処は立たなそうだ。とりあえずこの駅に降りて今夜の宿を探すことにした。


 近代的な駅舎。木造の不思議ならせん状の何かが門になっていて、そこから鉄筋が伸びてドームを形成している。初めて降りた駅で、偶然降りた駅だけれど、運が良かったらしい。観光地の駅前は泊まるところに困らない。なんだったら最悪の場合は駅で寝てもいいぐらいだ。もしも田舎の駅舎だったら、この雨をしのぐ場所さえ危ぶまれたと思う。


 僕はひとまず自分の端末を取り出した。どこぞの誰かが作ってくれたホテルの検索用アプリケーションを起動する。いつも思うのだけれど、人間は一人では決して賢くはなれない。例えば人類最高の頭脳を持った人間だって、たった一人だったら、このアプリケーションを発明するところから始めなければならなくなる。いや、そもそも端末だって誰かが作ったものを利用するだけだ。一人でできることなんてたかが知れている。


 何が言いたいかといえば、月並みだけれど何かを外に、ほかの人の目につくところに置いておくのは大事だということだ。他人に、どこかの他人に自分の成果を手に取ってもらう。そして僕はどこかの誰かの成果で今夜の宿を探す。そうやって世界は回る。


 いや、こんなふうに説教じみた考えではなく、生物学的に考えることも出来る。こうやって集団を形成し、伝達をすることで種や集団全体の生産性が上がる。さながら微生物がたくさん集まると光るみたいな現象だ。人類は単純にナチュラルセレクションに対して、こんなふうに―物理的ではないけれど―密に寄り添って生き残ることを選んだ。


 そんなことを考えているとすぐに駅前のホテルが見つかった。


 駅から見える景色は土砂降り。灰色の雨音の冷たい世界。それでも意外と近くにビジネスホテルがあったりする。


 タクシーを捕まえようと思ったけれど、僕みたいに雨に捕まって電車での移動がままならない人たちが列をなしてタクシーを待っていた。需要が目に見えて増えるところなんてところを見る機会は、経済白書のグラフのなかにしかないと思っていたけれど、その現象を肉眼で確認できるなんて、生きていればいいこともあるものだ。


 さて、とりあえずアプリで宿を抑えた。でも目に見える需要たちが移動手段を取り合っている。僕はどうしたものか。


 飲みに行くことにした。


 大きな街の駅でよかった。アルコールが出る店がすぐに見つかる。一応屋根がある経路を通ってきたのだけれど、雨は容赦なく僕の靴と服を濡らした。こんなとき人間の無力さを感じる。


 そんなわけで、重さが2倍ぐらいになった服と靴を纏ってバルに入った。店員にカウンター席をすすめられる。


 スツールに腰かけて、とりあえずビールを頼む。樽でできた机。きれいに磨かれたワイングラス。色とりどりのお酒の瓶。年季の入った木製のカウンター。店内が少し賑わっていて、騒々しいけれど、かえって親しみが湧く。ギネスビールが出てきた。二、三杯飲み終わるころにはこの台風も少しは弱まってくれればよいのだけれど。


「あなた、今日はなんの因果でお一人の夜をお過ごしで?」


 振り向く。女性が僕の隣に座っていた。手元にはやたら小さいグラスが握られている。


 いけない。この女性は明らかにお酒に強い。どうやら酔っぱらった勢いで知らない人間に話しかけているようだ。


 こういうときの対処は心得ている。何も言わず席を立つ。


「まってってば。つれないなー」

「酔った女性の介抱は一生分したんだ」

「私は酔ってないよ」

「自分の手の平より小さいグラスを持っている人間は信用しないことにしてるんだ」

「黒いビールを持った人間なら信用できる?」

「お酒を持って知らない人間に話しかける人間が信用できない」

「お酒は人の和を醸すものよー」

「人の和を乱しもするけどね」

「時と場合と酒量によりけりね。そんなに知らない人間が嫌いなの?」

「知らない人間に限らないけどね」

「人間が嫌いなのね」

「…」

「大丈夫よー。私は今夜人間じゃないもの。ウォッカの精霊。それが私」


 僕はとりあえず席を立った。腕をつかまれる。


「ごめんごめん。冗談だよ。座って座って」


 変な女性に捕まってしまった。全く。何が面白くて僕と話したがるのか。


 いや、人は誰かと話したものだ。誰でもいいから自分の話を聞いてもらいたいものだ。どこの誰でもいい、すごいと認めてもらいたいものだ。


 でも僕は学んでいる。他人に認められることを望むのはとっても危険なことだ。一番やってはいけないのは他人のために生きることだ。それだけはやってはいけない。


 寄り添った方も、寄り添われた方も、どちらも不幸になるということを帰納的な経験則で僕は学んでいた。さっき言っていた密に寄り添った人間たちが素晴らしいパフォーマンスを発揮するといったのはあくまで機能であって、精神的な意味ではない。


「それで。本当に人間が嫌いなのかしら?それとも私のことが嫌いなのかしら」


 会話が勝手にクラウチングスタートの態勢に入っている。なんで初対面の相手に人間嫌いの嫌疑をかけられているのだろうか。人生はつくづく不思議なものだ。


「嫌いじゃない。」僕は答えた。

「好きでもない?」

「人による」

「私のことは?」

「好きじゃない」

「ふふふ」

「なに?」

「嫌いとは言えないのね」


 無視しよう。


「君はだいぶ人間が好きなのかな?」ぼくは訊いた。

「あなたのことが好きなの」

「きみはいかれてるね」

「だめだよ。女性から好意を向けられたときは素直にお礼を言ったり照れたりしなきゃ。真顔で人に悪口言ったらだめだよ」

「これでも照れてる」

「あそう」

「でも、僕は結婚しているから。それに妻のことが好きだし、一夫多妻制には反対だから」

「それは知ってる」女性が言った。「一夫多妻制についてのスタンスまでは知らないけれど」


 僕は自分の左手をみた。薬指に指輪をはめている。


「奥さんがいるのに見知らぬ女性と二人で話すのはどうなのかなー。愛妻家としては?」


 話しかけてきたのはそっちだという突込みを入れたほうが良いかもしれないが、でも確かにそうだ。やましいことはないが、妻が見たら少し気分を悪くするかもしれない。


「それじゃ、僕はこれで」

「ビール、まだ残ってるよ」


 その場で飲みほす。


「飲んだ。帰る」


 ウォッカが僕のテーブルの前に滑り込んできた。見ると先ほどその女性が持っていたもののようだ。コントロールがよい。


「ウォッカが残ってる」

「僕のじゃない」

「そうね。でも残ってる」


 もしも僕が会社員だとして、上司や先輩に同じことをされたら完全にアルコールハラスメントにあたる。


「どうゆうつもり?」

「もう少し、ゆっくり話したいってつもり」

「帰る。さっき言ったとおり、僕は妻が好きだ。妻が悲しむのはごめんだ」

「死んだひとは悲しまないよ」


 一瞬何を言われたかが判断できなかった。


 そして意味を解したとき、僕は驚いた。結婚しているかどうかは左手に目印がある。でも、右手に妻が死んだかどうかの目印はつけていない。


「死んでない」僕は言った。


 その女性は黙って僕を見ていた。


「死んでない」繰り返した。

「座って。もう少しお話しよう」

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