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 ゴミ拾いの後、デイヴィッドはなんとなく帰宅し損ねていた。そうなるような気もしていた。バーベキューの支度を手伝わされ、その間にパパは何人かの友人にデイヴィッドを紹介した。何人かは露骨にへえ、これがねえ、という顔をした。

 デイヴィッドのパパは広告屋で、ある洗剤会社でCMを作っている。デイヴィッドはパパが作ったCMを見てはっきり嘘だと思う。グラマラスな女の子が魔法の杖を一振りすると、流しに山積みになった汚れた食器が一瞬でぴかぴかになる。大げさに褒める夫から隠すように後ろ手に洗剤を持っていて、最後にちょっとだけ視聴者の方に向かって舌を出して見せる。胸の大きさと油汚れの落ち方にはなんの関係もないと思うし、パパの帰りをしばしば遅らせる制作会議とやらでなにが話し合われているのか、考えたくもなかった(「ダメダメ、もうすこし胸の大きい子じゃなきゃ。それこそ、泡みたいにおっきく」)。ほんとうにその洗剤が優れた商品だったなら、なにも言わなくたって売れなきゃおかしいはずだとも思っていた。

 パパは職業柄友人が多かった。一種のサロンを形成していた。ゴミ拾いの後のバーベキューにもこれらの友人たちが駆け付けた。もちろん、かれらはゴミ拾いには参加していなかったが。バーベキューには地元の人たちと、パパの友人の二つのグループが参加することになる。気まずくはならないが、それはパパが二つのグループの界面活性剤だからだ。だから、みんな帰る前にパパにお礼を言う。言わなきゃいけない。

 バーベキューは鉄板の周りに集まる人と、飲み物や食器の置かれたテーブルの周辺でうろうろする人に分かれるが、もちろんデイヴィッドは後者だった。そこから眺めていると、アビィを見つけた。

 まじめにゴミを拾っていたので、アビィの顔は少し火照っていた。片手にお皿、もう一方の手に紙コップをもって、ちょっと呆然としていた。デイヴィッドの視線に気づいて、二回まばたきをしてから、そばに寄ってくる。

「これ、あんたのパパが勝手に皿に入れてきたやつ」

 そう言ってちょっと焦げたシイタケをデイヴィッドの皿に押し付ける。パパは人にものを食べさせるのが好きだ。アビィはキノコが嫌いだ。

 シンプルな紺色のドレスを着ている。ちょっと前なら、絶対にジーンズだった。アビィの体は薄く、服と体の間に空間ができる。デイヴィッドはアビィがゴミ拾いをしながら立ったりかがんだりしているところを想像して、胃のあたりにムカつきを覚える。

「めずらしいのね、あんたがこんなのに参加するなんて」

「こんなの、とはお言葉だね。一応ぼくのパパのパーティだけど」

「あんたのパパだから言ってンじゃない」

 アビィには人を見透かすようなところがある。パパとデイヴィッドが違う人種だということにもたぶん気づいている。

 そして、デイヴィッドはアビィが自分と同じ種族なのではないかと疑っている。

 デイヴィッドはアビィの後ろにゴードンを探す。やつの先祖はどうせデーン人かなにかで、かつてリンカンシャーを蹂躙したときと同じくらい金髪だ。肩幅はデイヴィッドの二倍はあって、だからゴードンを探す必要なんてほとんどない。バーベキューの鉄串を指揮棒のように振り回すゴードンがすぐ見つかった。

「デイヴィ、そいつ返しな」

 ゴードンは鉄串でデイヴィッドとアビィのあいだの空間を切り裂くふりをする。アビィは表情ひとつ変えずにゴードンの顔を見上げると(この二人の身長差はたっぷり一フィートある)肩に回された腕に体重を軽く預けた。

利子interestも返した方がいいか?」

「そうできるんだったらそうしてくれ」

 デイヴィッドの悪趣味な冗談にゴードンは気付いていない。

 デイヴィッドとゴードンの仲は悪くないことになっている。陽子と電子の間に成立しているものを友情と呼べるのなら。この表現はデイヴィッドの日記からの抜粋だが、この比喩をデイヴィッドが口にしたことはない。ゴードンはデイヴィッドのことをデイヴィと呼ぶが、その発音はベイビィとほとんど区別がつかない。

 デイヴィッドとゴードンがはじめて会話をしたのは二年前で、デイヴィッドのママが死んだ直後にゴードンはアビィをものにした。三人の関係を時の流れに沿って描写することは難しい。三人の間に存在する六つの方向を持つ矢印は、それぞれが常にその種類と大きさを変えたからだ。

「アブ、そういやこいつにあのこと言ったか?」

「あのことって?」

 ゴードンは手に持っている鉄串をピッケルのように逆手に持って上下させる。

「ああ、ハイキングね」

 自分の知らない話、それでいて自分が関係しそうな話が目の前で繰り広げられているのに、デイヴィッドは割って入ることができない。だからといって聞こえていないふりをするのも難しい距離だったから、皿に乗っていた焼き玉ねぎを食べた。一枚一枚、外側から剥がすように。

「俺が免許取ったのは知ってるだろ。記念すべき初ドライブで山行こうと思ってな」

 もちろんゴードンは一か月前に免許を取ってからとっくに市内中に車を見せびらかしていた。十六歳二か月、学年で最速だった。最初の数回こそ助手席には退屈そうなアビィの姿があったが、そのあとは空席が続き、それからはたまに違う女の子が乗るようになった。ともかく、免許取りたての十六歳にとって、州境をまたがないようなものはドライブの名に値しなかった。

「いつ」

「来週の日曜日」

 ゴードンに聞こえないように舌打ちする。こいつはいつもこうだ。こちらが断ることを想定していない。パパと同じ性格してる。ゴードンがパパの子供だったらよかったのに。

「その日は忙しいって言ったら?」

「アブがさびしがるだろうな」

「心にもないこと言わないで」

 アビィがぴしゃりという。アビィがそう言うと、だれの心になにがないのか、意味がわからない。

「で、来るのか?」

 もういらいらしはじめたゴードンが険しい口調で訊く。「行く、行くってば。その日のうちに行って登って下りて帰ってくるくらいだろ」

 ドライブがメインならそう難易度の高い山に登るわけじゃないだろうし。

「ああ。本格的な登山して山頂で一泊して下山、ってのでも悪くはなかったんだが……」

 中西部のどこにそんな山があるっていうんだ?

「い・や・よ」

 アビィがこれ以上ないほどはっきり母音を発音する。なあ、ゴードン、ぼくとお前と、あとジョナサンとかこの際トムでもいいけどとにかく男だけで行くんじゃダメだったのか? 絶対そっちの方が楽しいぜ。そう言えたらなあ、とデイヴィッドはアビィの半袖から覗く細っちい腕を見ながらそう思う。

「うちのプリンセスもこう言ってるからな」

 プリンセスという表現は心底いやだった。というか、アビィがいやがっているといいな、と思った。

「だいたい、お前最近さすがに引きこもりすぎだぜ。肌、白すぎ」

「うるさいな、体質だよ」

 ほとんどアルビノと言えそうな肌の白さは〈冬の子供たち〉の特徴だった。

「うちのアメフト部入れとまでは言わないけどさ、半日有酸素運動すれば気分も変わるだろ」

「べつに、気分ならいつでも爽快だけど」

 なんでゴードンはぼくに気分転換が必要だと思ってるんだろう。デイヴィッドは訝しんだ。

 にべもないデイヴィッドの反応にゴードンもさすがに言葉に少し詰まる。

「……そういうわけだから、道具とか用意しとけよ」


 デイヴィッドがいつも本を買いに行くショッピングモールに登山用品店が入っている。向かいの本屋で立ち読みしながら、いつもこんな店に一生縁はないなという意味の一瞥を向けていた類の店だ。

 スニーカーにジーンズでいいじゃんと言い張るデイヴィッドに、靴で疲れ方が全然違う、体温をきちんと保持できる装備でないとダメだ、いいものを買えば山の装備はおしゃれでもあるとパパは反論した。

「それに、今後も使うかもしれないじゃないか」

「パパ、イリノイ州の平均標高調べた方がいいよ」

 それに、今の体型に合わせて買った登山靴もウェアも、すぐサイズが合わなくなるだろう。デイヴィッドはしばらくもぐもぐ言い続けたが、最終的には折れた。

 入店するなり店員が話しかけてくる。

「なにをお探しですか」

「息子に一揃い買ってやろうと思ってね」

「親子で登山ですか? 最高ですね」

 デイヴィッドの顔に朱が差す。友人と遊びに行くのに、買い物を親に手伝わせてるやつ。

「いや、女の子と行くらしいんですよ」

 パパは、ゴードンも行くことを知っているはずなのに、話を面白くするためにわざとこういう言い方をするのだ。

「なら失敗はできませんね」

 なんで登山用品って紫とかオレンジとか真っ青とか、きつい原色ばっかりなんだろう。

 蛍光紫のトレッキングシューズを履き、ショッキングピンクのラインが入ったパーカーを着て店の一角に設けられたちょっとした坂道の模型を歩く。「ねえこれ、ほかの色ってないんですか」

「どういった色がお好みでしょうか?」

「白とか……」

 おいおい、とパパが露骨にあきれた表情になる。

「デイヴ、白はないだろ」

「なんで? 汚れやすいから?」

「お客様、当店のウェアやシューズはシンプルなデザインのものも多く取り揃えておりますが、たとえば白一色、というようなものはご用意しておりません。万が一、もちろんそのようなことが起こらないことを願っておりますが、遭難した際に、目立たないし、見つけてもらえないからです」

「遭難、ですか」

 店員はもったいぶってうなずく。

「ええ。しますよ、遭難って。人は道に迷いやすい生き物です」

 妙に気取った言い回しはひょっとしたらこの店員にとって常套句なのかもしれないが、デイヴィッドとパパからすればGPS方位磁石の宣伝としか思えなかった。

「日が暮れてしまえば低山も高山も変わらないですし、整備された高山より低山の方が道迷いしやすいこともありますからね」

 一通りの買い物を終えた親子は大荷物を抱えてハンバーガーショップで昼食を取る。

「お前が登山みたいなレジャーに興味があったとはな、知らなかったよ。明日は雪でも降るんじゃないか?」

「べつに、誘われたから」

「誘われたって、行きたくなかったら行かないだろう」

 パパはデイヴィッドのことを意志が固いタイプだと思い込んでいる。そんなことはない。サッカークラブを辞められないのも監督に一言辞めると言い出せないからだ。毎回嫌な思いをしながら三時間耐える方がかれにとってはましだからだ。今回の誘いに乗ったのもそうだ。ゴードンに行かないという勇気も、ゴードンとアビィのふたりが車内や山頂でどんな話をするのか、なにをするのか、想像する勇気がないだけだ。いや、想像はしていた、何度も。ないのは想像をとどめる勇気だった。

 パパはフライドポテトに手を伸ばそうとして、ためらってから皿をデイヴィッドの方に押しやった。細くて小さく、硬そうな一本をデイヴィッドは口に入れた。

「まぁ……たしかに敵は車を持っているが、大した問題ではない。大自然の中ではみな平等だからな」

「パパ、なに言ってんの?」

「お前にはあまり言ったことがないけどな、ママだって最初からパパのこと好きだったわけじゃないんだぞ」

 別にアビィのことそういう意味で狙ってるわけじゃないし、パパとそういう話するの死ぬほど気持ち悪いし。パパとぼくって親子なのに死ぬほど似てないよな。親子だからかな。デイヴィッドはもう一本ポテトを取ろうとして、皿の上で手が空振りした。

 ママとパパは高校生のころからの知り合いだったが、ふたりが結婚するまではそれこそドラマみたいな紆余曲折があった。どこの世界の息子がそんな話を聞きたがる? パパのことはこんなに嫌いなのに、ママがパパ以外の男の隣に立ってるところを想像したくない。デイヴィッドはねじれに気づいていない。

「じゃあママはいつパパのこと好きになったの?」

「そうだなあ」

 パパはベルトの穴を一つゆるめながら思案する。

「最期の一か月くらいじゃないかな」

 その表情を見て、デイヴィッドはこの男も自分と同じようなやり方で傷ついているのだということに気付かされた。


 朝起きたデイヴィッドはまず体にどこか悪いところがないかあちこち確認する。ベッドに寝転がって天井を眺めながら、頭、お腹、足、体の各部分に順番に意識を向ける。どこも痛くない。すがすがしいほどに頭もすっきりしている。山登りには万全の体調だ。

 お腹を壊さないかなと思ってパンにいつもより多めにバターとジャムを塗る。おえっ。

「晴れてよかったな」

 パパの言葉通りに雲一つない快晴で、九月の空気は冷え冷えと澄み切っている。デイヴィッドにとってはおあつらえ向きの天気。インディアン・サマーにはまだ遠い。

「雪が降るんじゃなかったの」

「山の天気は変わりやすいからな」

 デイヴィッドは肩をすくめた。パパの言うことに大した意味なんてないのだ。だからころころ変わってもぜんぜん不思議じゃない。

 おっ、と唸ってパパが窓の外に目を向ける。我が家の駐車場に続く私道に車が乗りこんできた。300Cはゴードンの趣味ではなかったが、ゴードンの家系は代々クライスラーに乗ってきたし、顔見知りの整備士もクライスラー以外を修理できなかった。実はデイヴィッドはヘミエンジンの奏でる音が嫌いではない。

「じゃあデイヴィッドをよろしく頼むぞ」

 ゴードンはパパに対しても生意気な表情を崩さない。

「晩御飯までにはお返ししますよ」

「そうだ、帰ってきたらきみたちも一緒に食べていくかい」

「魅力的なお誘いですが」ゴードンはアビィの肩を抱きよせる。「ご迷惑になりますから、遠慮しておきますよ」

 パパは朗らかな表情を崩さない。なに考えてんだよ、デイヴィッドは思う。背伸びしたガキだぞ、やっつけちまえ。祈りはどこにも届かず、高い空と心の中の雪原に吸収される。

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