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デイヴィッドのパパは、オーロラ市の新興住宅街から少し離れた川沿いにぽつりと建っているコロニアル様式の家を買った。ママはその家の二階で死んだ。 それは去年のことで、デイヴィッドは十四歳だった。公式見解としてママの死は風邪をこじらせて肺炎になったことが原因とされているが、デイヴィッドはパパが殺したものだと信じている。というか、死ぬ前にママが自分でそう言っていたのだ。
ママと、その息子であるデイヴィッドは《冬の子供たち》と呼ばれる生き物だ。みためは普通の人間と変わりがないし、体温もそう極端に低いわけじゃない。華氏九七度をめったに超えないくらい。ママがやり方を教える前に死んだせいでデイヴィッドはやり方を知らないが、小さなものなら凍らせることができる。冬の朝、布団から簡単に這い出ることができる。
「世界中にわたしたちと同じような人たちがいるのよ。でも、みんな自分が《冬の子供たち》であることは隠して生きているの。だから、あなたも、誰にも言っちゃダメ。パパにも、ジョナサンにも、学校の先生にも」
もちろん、《冬の子供たち》には弱点がある。意外でも何でもないが、熱だ。
最初はすこし体調を崩しただけだった。寝ていれば治るわ、と寝室に引きこもったママを、パパは会社を休んでまで甲斐甲斐しく看病した。「うっとおしいから、やめて」ママはそういってパパの看病を拒んだが、パパは笑って聞かなかった。
すぐに治るだろうと思っていた体調不良は長引いた。パパが熱心に看病すればするほどママの熱は上がっていった。パパの懐事情で呼べるだけのあらゆる医者が呼ばれたが、だれもはっきりとした病名は挙げられなかった。ある若い医者は無責任そうな口調で「まるで、アジアかどこかの熱病みたいだ」と言っていた。パパはママが亡くなるまで、彼女の前ではずっと笑みを絶やさなかったが、デイヴィッドは夜中にパパがキッチンで一人でうつむいているところを何度か見ていた。
パパの愛情はすさまじい熱量で、結果的にママを融かしつくしてしまった。最期の一か月、ママはなにを思っていたのだろう。それが自分を殺す愛情から逃げなかった勇気だったのか、甘い蜜に我を忘れているうちに捕食される幼虫の怠惰だったのか、デイヴィッドは判断がつかないでいる。
スピノザは『エチカ』の中で、人間の感情を四八種類に分類した。《冬の子供たち》には三五種類の感情がある。この一三の差が人間とかれらを大きく隔てている。
三五という数字はどこからでてきたのか。
デイヴィッドがママから教えてもらったことのひとつに、感情を制御する方法がある。心の中を雪の他にはなにもない雪原だとイメージする。気温はきわめて低い。そこに生まれたばかりの小さな感情を閉じ込めると、それを凝結核として、すぐに氷の結晶が成長する。
氷の結晶は生成時の圧力や温度、湿度などを条件としてさまざまなかたちに成長するが、どれだけ複雑に見えようと、それはけっきょくのところ三五種類の基本構造とその組み合わせになる。この基本の三五種類が《冬の子供たち》の感情と対応する。幸せを核とした氷晶はきれいな正六角形に。恐怖を核とした氷晶は鶏の足跡のような形に。憎しみは葉脈型。後悔は、片側が槍のようにとがった六角柱。感情はもちろん単一の要素から成り立っているわけではない。複雑な感情を核にした氷晶は、これらの構造の複合体として結晶する。氷晶は大きければ大きいほど時間がかかるとはいえ、いつかは融ける。そうして融け切ったあと、核となった感情はきれいに忘れ去られている。
パパと会話したあとは、デイヴィッドの胸の中にたくさんの氷晶がごろごろと転がることになる。パパの暖かさも、デイヴィッドの胸の内にまでは届かないから、それを融かすことはできない。氷晶が胸をふさげばふさぐほど精彩を欠いていく息子の表情に、パパの表情はほんの少しだけ不満げになる。俺の息子が、どうしてこんな風に。デイヴィッドは口元の皺をそう読み取ってしまう。
パパとの関係がおかしくなりはじめたのはママが亡くなったすぐ後のことだ。週末のサッカークラブの練習に行く時間になり、歩いていくには少し遠すぎるグラウンドまで、パパがいつものように車を出そうとするのを、デイヴィッドは断った。「前みたいに、アームストロングさんちの車が来るのか?」「ううん、そうじゃないけど。……バス、乗っていくから」
パパは俳優みたいな眉の上げ方をしたが、何も言わなかった。そして、往復の運賃よりもちょっと多めにお金をくれた。
パパの優しさはほとんど恐怖に近いものになっていった。恐怖が形作る結晶は、六角形の板から四本、触手のような手が伸びている。ママを殺したその温かさを惜しみなく振る舞い続けるパパに、いっそ教えてあげようかとも思った。お前の妻を殺したのはその気遣いなのだと。
デイヴィッドは食卓で足をぶらぶらさせる。ちゃんと伸ばせば足の裏はぺたりと床につくのに。ママが椅子に座るとき、テーブルの下ではこっそり靴のかかとだけ脱いでいたことをデイヴィッドは知っている。
ママの死後デイヴィッドは少し太った。パパは少しとは言えないほど太った。デイヴィッドは丸くなったパパが嫌いではない。
パパはいま、キッチンで料理をしている。食卓で宿題をしながら晩御飯の完成を待つのは、ママが生きていたころからの習慣だ。わからないところをママに聞くと、数学以外ならだいたい答えが返ってきた。パパにわからないところを聞いたことはなかった。パパはママが生きていたころと同じメニューを再現することに熱心だ。まるでそうすることになにかの意味があるかのように。息子に何かの意味を感じてほしいかのように。
パパは料理が下手なわけではない。ただ、キッチンに立っていることがまだ当たり前になっていないだけ。だからデイヴィッドは料理中のパパには話しかけない。
食卓に料理が並ぶ。ハンバーグ、チキンステーキ、コールスロー、多すぎる、と思う。量が、というより、品数が。三人にふさわしい食卓と、二人にふさわしい食卓は違う。そのせいで親子は太りはじめたのかもしれない。
「デイヴィッド。明日、久しぶりにゴミ拾いでもしないか?」
うげえ。ただのゴミ拾いなら構わない。パパの言うゴミ拾いは要するに、地域のカトリックのお父さんたちが集まって始めたやつだ。広すぎる町内の、目の届く範囲だけゴミを拾って、そのあとは誰かの家の庭で肉を焼く。そうして、その日拾った量を超えるゴミが出る。ゴミ拾いでもしてなければ、芝生でも刈ってそうな親父たち。
「やだよ」
「どうせ家にこもって『かわいい魔女ジニー』見るだけだろ。ジョナサンも来るって言ってた」
それにゴードンも来るしね。吐き気を伴う不安は平らにつぶしたモミの木のような形。
「じゃあ、ゴミ拾いは行く。でも、お昼は家で食べる」
昼食会で、パパは息子がその場にいない理由を説明しなきゃいけなくなるだろう。デイヴィッドは申し訳なくなる。申し訳なくなることにイライラする。
デイヴィッドはパパより早く食べ終わる。あまり喋らないから。ゴードンが来るってことは、アビィも来るってことか。デイヴィッドは皿を下げながらそう考える。そう考えるとなにかが胸の中に湧き上がるが、これが期待なのか、憂鬱なのか、怒りなのか、凍らせてみればわかるんだろうけど、そうはしなかった。
アビゲイル。アビィ、アブ。アビィ? どう呼ぶかはデイヴィッドの気持ち次第。最近はもっぱらアビィ。親しみと、そっけなさのバランスがいいと思っている。
きっかけはパパだった。九歳の七月のこと。学校から帰ったデイヴィッドはその日誰と遊ぶか約束をしていないことに気が付いて、当然のように隣家のジョナサンに電話をしようとした。ところが、その日は偶然休みで家にいたパパがデイヴィッドに気安く声をかけた。
「またジョナサンか?」「……そうだけど」
パパはパスタなんか茹でていた。午後三時に。いつ食べるっていうんだろう? なんにも考えちゃいないのだ。どうせ冷蔵庫に入れることになる。さもなければ、口の寂しくなったパパがそのまま食べて、夕食が入らないと言ってママに怒られるのだろう。ウェブスターの辞典にも「家庭的な夫(ピントのずれた)」という項目があるが、そこには「ソール・ハワードのこと」と書いてある。
「たまには女の子と遊んだらどうなんだ」
パパがべつに嫌がらせや、若いころからモテた自分を自慢するためにこんなことを言っているわけじゃないのは、幼いデイヴィッドにもわかった。肉を食ったら魚も食え、程度のいい加減な気持ちで言っているにすぎない。女の子を誘って遊ぶなんてことは、不良か、変態の考えることなのに、パパに言われると、まるでそうしてない自分がことさら子供みたいに思えた。
パパは鼻歌を歌いながらパスタソースを作っていた。すでに茹ですぎているのがデイヴィッドにはわかっている。もうパパは自分の言ったことから興味を失っているから、何食わぬ顔でジョナサンに電話したって問題はなかった。それなのに、パパの言ったことを真剣に検討していた。誘ったとして、明日学校で笑われないだろうか、そもそも誘いに乗ってくれるだろうか、いや、誰を誘うのか? なにをするのか? パパの無責任な言葉で自分だけが悩んでいるのが悔しかったし、いざ女の子を誘うとなると、自分がそれをそう嫌なことだとは思っていないのも腹が立った。
悩んだ末、デイヴィッドはアビィに電話をかけた。アビィは調べもの学習で至聖三者大聖堂に行った時、同じ班だった女の子だ。
今でも覚えている。内陣と至聖所を隔てる
「これ、ニコライ二世のお金で建てたんだってさ」
アビィとの最初の会話の記憶はこうだ。同級生の女の子の口からとつぜんロシア皇帝の名前が出るのを聞いて、その子の顔を覚えておかないのは難しい。それで、親しくなったわけじゃないが、会話をしたことがないわけじゃない。あんまりクラスの中心、ってタイプでもない。夏服だと肩が虚弱そうに見える。教科書を包み込むように持つ長い指が蜘蛛の足みたいに見える。そんな女の子だった。
アビィは三コールで電話に出た。
「あー……」「どちら様? こちらは」「デイヴィッド、デイヴィッド・ハワード。あのう、アビ……アビゲイルは?」「(ハハッ)わたしよ」
どうやって誘うか考えていなくて、手のひらに脂汗が滲んだ。「もしもし? 聞こえてる?」「うん。えーっと、その、今日」「今日? アー、今日はダメよ。あ、ごめんなさい。用事も聞いてないうちから。でも、今日はダメなの。明日ならいいけど」
断られるか、オッケーかのどちらかだと思っていたので、明日ならオッケーというのがどういう意味かわからなかった。「んっ。じゃ、じゃあ明日」「明日、なんなのよ」電話回線を通さないで話すときよりも、アビィはすこしせっかちだ。「そのう、遊ばない?」
ねっとりとした沈黙。腕が振るえて、そのまま受話器を下してしまいたくなった。
アビィの口調がきゅうにゆっくり、落ち着いたものになる。
「いいわよ」
こうして、アビィはデイヴィッドの友達になった。ジョナサンの次に友達だと言ってもいい。常に一緒にいるとか、そういうタイプの友達ではなかったし、デイヴィッドは自分にとってアビィが友達であることが必ずしも望ましいことではないようだと考えることも多かったが、そうは言ってもアビィは友達だった。そして、アビィがゴードンの女になってからもそれは変わらない。
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