第漆話 哀色は歪み覚悟 (2018.12.10) PM:夜間
2018.12.10 PM:夜間
所詮は口約束。二人が巌川と結んでいる契約に、法的効力はない。それは今までの信用から形作られている関係だった。あくまで布留川は聞く耳を捨てずにいる。代替案さえあればそれに準ずるつもりだった。自分たちがこのリスクを背負うには不相応だと思ってしかたがない。ここで騒ぎになれば困るのは目に見えている。それは巌川だって同等であることを、似たような表社会にも影響するような肩書がある以上、言うまでもない前提条件だった。故に保身へ走る、巌川も予測できているに違いない。
誘い込んだ場所は会話ログから推測できる行動範囲。E区の裏通り、三番地。布留川は地の利を取って、よく知る近くのバーを指定をした。北里の携帯電話はわざと事務所に置いたまま。その代わり、メッセージアプリにいくつかの細工をした。まずやり取りを削除し、巌川からのメッセージを非通知にしていた。多少の時間が稼げるだろうとタカを括って、ばれたとしても、場所までは特定できない。布留川は袖の下に仕込んでいたナイフを確かめる。スルリと手元へおろし、逆手持ちでグリップを握りしめる。殺すべきか、殺さないべきか。――まずは依頼破棄の約束を取り付けることを優先した。
目標を定める。当然、背格好は覚えている。かつて、その背に従った者として。今はただ反抗するため。勢いに任せ布留川は詰め寄った。振り上げたナイフを突きつける。刹那、振り返った巌川は身を反らす。掠ったコートは切り傷が入り、両面の刃は月光に当てられ鈍くキラめく。闇夜に溶かした殺意、巌川は抵抗するように真横へ避けて正面で向き合うが、それが悪手となった。布留川の空いた左手は巌川のそう太くはない首を捕えられる。急所を押さえつけられて、そのまま壁へと追いつめられる。叩きつけられるようにコンクリートへ押し付けられた背骨が真っ直ぐ、主軸の通り痛みが走る。若くは無い肉体に観念し、布留川の左手を掴みかかった。そのまま布留川は左側の肩甲骨と鎖骨の間を定める。コートの下から覗くスーツもシャツも関係なく、貫通してしまう程。すでに刃先は衣類へと食い込み切り裂かれている。あと少し力を込めると、皮膚へと到達するだろう。よく砥がれた幅五センチ、刃渡り十二センチの両面刃が的確に捉える。巌川の握力が足りることもなく、布留川の左手を振り払う事も叶わない。首筋に力を込められるか、そのダガーナイフで肺を貫かれるのも時間の問題だった。
「よくここがわかった」
巌川は自分の置かれている状況を軽視した。悠長に、まるで命の危機と認識していない涼んだ顔へ、布留川は告げる。
「あなたの直属の部下に聞きました。
そこまで言われて初めて巌川は眉間に皺を寄せる。布留川にとって〝後輩〟と呼べる人間はひとりしかいなかった。それは巌川が一番信頼を置いている部下、北里龍を指す事は想像に容易い。不愉快に「……俺の部下に何をした」と巌川が声をあげるが、布留川は殺意の視線を崩さず答えた。
「巌川さんこそ、俺に何をしようとしたんですか?」
巌川は初瀬との通話を思い返す。確かに依頼の遂行を怠った場合、相対して失われる命は相方であるということを明言した。当然、それが布留川からの架電であっても、巌川は同じセリフを並べただろう。どちらが先に連絡を取ろうとするかの違いであり、伝える内容に変わりは無かった。
「俺をダシにして、総野を脅すのはやめて頂きたい」
棘のある口調と、冷めきった視線。不可侵的な領域を踏みにじられたかのような、絶対的な拒絶を布留川は表す。しかし、巌川は場違いな笑みを浮かべた。
「思えば布留川は
――懐かしい。かつての契約は布留川を人質にとって交渉したものだ。
口元に浮かべた笑みを崩さず、巌川は言葉を続ける。
「といっても、お前たちはいつも短絡的な思考で動く。もっと賢い選択をするべきだ」
緩やかに語る巌川の笑みは崩れない。焦りや自暴自棄ではなく、ただ純粋に、興味深いものを見たかのような余裕ぶった笑みだった。
「俺は仲間を殺す行為が嫌いだ」
「そういう割にはお前が一番仲間を殺していたじゃないか」
動揺を悟られないよう、布留川は下唇を噛んだ。巌川のセリフに、ほんの一瞬だけ、布留川の目元が歪む。抑え込まれた巌川はさして抵抗するそぶりは見せず口を開いた。
「フラッシュバック症候群をこじらせて周りを虐殺し続けた人間が、今更、人殺しの一件や二件、些末な話だろう?」
突きつけているナイフが二ミリ程度後退するが、すぐに急所を捉えなおす。
「そうさせたのは紛れもないあんたじゃないか」
敵対する相手を再確認する。過去に担当した案件だって、巌川が仕事として割り振らなければ殺しの依頼など受けていない。確かに殺れと言われて、実行犯として動いたのは紛れもない、自分たち、遂行員だった。しかしそれは仕事として、殺らねば殺されるのは自分の方だった。南條組で殺し屋の下で働いていた時は、あくまでも自由意思。しかし南條組が解体してから、東間組の傘下に就いてからは〝仕事〟と称して殺しの仕事を強要してきた。
「それがどうした。あの日あの時、入野が東間に従うと言った日から、お前の命は天秤にのった交渉材料だったに過ぎない。なにか勘違いをしているんじゃないのか? 布留川、お前も保身に奔る一塊だろう。今の生温い生活が、永遠続けばいいと思っている」
「それのどこが悪い」
「いいや悪くない。だがしかし、お前にそれを守るだけの力があるか?」
冷たく問いかける巌川の声は布留川の心を揺さぶるものだった。
「金はあるか? 権力はあるか? 力はあるか? 余裕はあるか? ――選んだすべての事柄に責任を持つだけの覚悟を持っているとでも言うつもりか?」
動揺を隠す事ができず「うるさい!」と声を上げる。しかし巌川の口が閉じる事は無かった。毅然とした態度で語る言葉の一つ一つはまるで一本のナイフのように布留川の心へ刺さる。
「ここで俺を殺すことは容易だろう。お前の腕は知っている。だが、そうすることによって、お前が一番守りたかったはずの〝家族〟とやらはどうなる。お前の判断ミスにより、きっと取り返しがつかない事態になるだろう」
巌川は布留川の扱いをよく心得ている。切り捨てるべきものと、切り捨ててはいけないもの。分別がついているからこそ、交渉に持ち込めることも十分理解していた。
「そもそも、お前が声を掛けてこなければ」
声を上げた布留川に、畳みかけるように持論を語る。当然、布留川にとっては耳が痛い話だった。
「それはどうかな。犯してしまった罪は消えない。どんな形にせよ、因果応報となって自分の身に降り注ぐのが世の中の理だ。神様とやらの心臓へそのナイフでも突き立ててみれば変わるかもしれないが、居もしない偶像へ願う事は愚かな行為だろう」
極めつけた台詞に同情は無い。しかし巌川は目を細め集中するように顔をしかめた。
「清算したくてたまらない連中は数多い。公務員にはそれを生業にしている人間もいる。たとえば、警察。――それだけじゃない、お前たちが殺した高岬組の残党。あいつらだって、十分それに近しい。清算したかった過去のため、復讐という路を選んだに過ぎない。当然、報いを受けることとなった。お前らが裁いたんだ」
辛辣な現実を告げる巌川へ布留川の喉が震えあがる。吐き出す空気は胃酸の気も孕み、自身の良心が喉元へとせり上がる。
「――違う。俺達は、俺は、ただ」
ここには今までの犯行を肩代わりしてくれる者はいない。そして、お前は悪くないと責任を転嫁する者もいない。状況が悪かったと慰める人もいなければ、悪い行いであっても肯定してくれる者もいなかった。
「そして、お前が俺に刃を向けた事により、事態は悪くなる一方だ。そこまでバカだと思ていなかったよ」
半身である初瀬はここに居ない。布留川は初瀬のために、反抗する事を選んだ。それを肯定する者は誰一人、一番肯定して欲しかった初瀬自身も、ここには居ない。
「そう言う意味で言うなれば、入野は優秀であろう。あぁ、今は初瀬と呼ぶべきか」
布留川は視線を下げた。自分が言い包められている事実にすら気づかない、言葉の数々に思考がパンクしかける。怒りで火照った体へ冷たいビル風じみた寒気が吹き込む。それを風と認識したのが間違いだと気付く、次の瞬間だった。布留川の頭部に筒状のものを押し付けられる。真後ろには巌川の部下、
「――さて、喋る暇があったら殺せ。そう享受した奴の教えに背いた行為で招かれる、これも因果応報。間抜けな話だな」
「側近なんていたんですね」
布留川は問いかける。巌川は「
「何か思い違いをしているな? 俺は誰の指図も受けない。指図をすることはあっても、だ」
数年前から何一つ変わらない驕った言い方は、実際に上へ上り詰めた人間だからこそ言える言葉であった。巌川の指針は気にいらない事への復讐。それは始めから果たされていた復讐で、すでに余生じみた生涯を送る自分にとっては、意味を持たない命題だった。
「そういえば、そういう人でしたね」
布留川はどうでもよさそうに答えた。――巌川零次という男は、筋書をつくり選択肢を提示する。ある種のゲーム感覚でより多くの功績点を獲得し、部下に分配することが楽しみであった。その手中に入れた連中がどうなってしまうのか、本人にはあまり興味がない。興味といっても、せいぜいお気に入りの駒を可愛がる程度の愛着しかもっていなかった。ゆえに出した指示は、彼の書いた筋書き通りに進行する。それが辿る者にとって吉と出るか凶と出るか、巌川には知ったことではない話。昔、可愛がっていたよしみで、得する内容を提示したのにも関わらず、反抗されるとは。しかし酔狂な巌川はこの状況を楽しんでいた。
「賢いバカで助かるね。じゃあ俺がお前をここで殺さない理由もわかっているということか?」
話の意図が分かった布留川は冷たく答える。形勢逆転された以上、もう勝ち目は残されていなかった。
「俺を殺すといくつか面倒ごとが降りかかるでしょうからね、」例えば、総野からの敵討ちとか。取引先がつぶれるとか、明るみに出てきてほしくない裏金と殺人事件とか。口にするまでもないことを布留川はつらつらと思い描く。当然、巌川は不敵に笑んで答えた。
「俺も大概、
巌川は暴言を混ぜるが、過信した茶番じみた会話だった。しかし部下の山波は「巌川さんはまだ若いほうかと、」と控えめに答える。まだ二十歳そこらに見える黒髪の青年は、どこか虚ろな茶色い瞳を巌川へ向ける。狂信しているかのような態度にも見える視線へ「そういう話をしているわけではない。口を挟むな」と巌川が声を上げる。山波は傷ついた顔して「失礼しました」と返事をした。
「最後の
やり場を失った感情を抱えた布留川は巌川を見つめる。一番言われたくないセリフで語られた現状に、反吐さえ出る思いであった。しかし巌川は悪びれた様子も、だからと言って、勝ち誇ったような態度もしない。軽く手をあげて振り払う素振りをする。指示動作の意味を察した山波は、布留川へ突きつけていた拳銃を下ろした。
「ただし気をつけておけ。俺は始末する気は無いが、お前の首が欲しいやつはいくらでもいる。俺に反抗した時点で、不可抗力が発生した。努々忘れるな」
忠告する巌川へ、見据える布留川は無言の肯定をする。認めたくない一心で、手のひらを握りしめ、爪が皮膚へ食い込む。去り際、巌川は布留川へ助言した。
「
誰にとっての悪者なのか、問題の定義が定まっていない。少なくとも、今の布留川には難しい話だった。否定も肯定もしないうちに、巌川と山波は裏路地を去る。ただひとり残された布留川は、風に吹かれ、己の無力感を噛み締めていた。アスファルトに転がる銀色へ、水滴がポタリと落ちる。それが自身の悔し涙であると、布留川本人は知らない。
2018.12.10 PM:深夜
幾ばくか時間が過ぎた深夜。リスクも考えず、布留川は、初瀬の事を電話一つで、自身の住むマンションに呼びつける。初瀬は知っていた。はじめから上手くいく交渉ではない事を。特に巌川零次の性質を知っている以上、自分たちが辿る結末は決まっているも同然だった。先手を読まれる以上、抵抗しても無駄だと知っている。それでもなお、自分自身に思考できるという余白、自由意思がある以上、反抗する気持ちもよくわかっていた。――自分が逆の立場だったら、きっと霧流をかばうだろう。初瀬は自分自身の事をよくわかっていた。だからこそ、この依頼が、この三本目のワインに記されていた
通い慣れた布留川のマンション。呼び鈴を鳴らそうか悩み、あえてそうする事をやめた。合鍵でドアロックを外す。玄関先で、すぐドアロックへチェーンを掛ける。一言「俺だ、霧流」と呼びかける。最近の状況を鑑みたらこの方が安全だと自己判断したまでだった。
「待っていたよ、総野」
呼びかけに応じた布留川と対峙する。どこか疲れ切った青い目は、まばたきも少なく、乾いていた。初瀬は、布留川の姿に目立った怪我がない事を確認すると、わかりやすく安堵する。近づいて、巌川との出来事を問いかける。初瀬は飛び飛びで答える布留川の表情を汲まなく窺っていた。話の途中で布留川の顔が、ほんのわずか左に逸らすたび、初瀬は優しく「嘘はつかなくていい、」と、「俺は気にしない、」と、まるで暗示をかけるように相槌を入れる。初瀬の甘やかした言葉の数々に、布留川の思考が悪化する。話の顛末を聞いた初瀬は、唯一、泣きはらしたかのような瞼の腫れには触れなかった。
「ごめん、総野」
「謝るな。霧流は何も悪くない」
幾度となく繰り返したセリフ。もう聞き慣れ過ぎて耳が腐り落ちる程、甘い甘い依存形。初瀬は食器棚へ向かう。迷うことなく、栓抜きとワイングラスを拝借した。氷のように冷たいガラスの器は蛍光灯の光を浴びて照り返す。それは良く磨いてあるグラスで、布留川の性格が出ていた。そのまま食卓に置いてあったワインボトルの栓を抜く。銘柄はシャトーの赤ワイン。巌川が依頼を忍ばせていた、建前上のワインだった。初瀬は勝手にグラスへ赤ワインを注ぎ、布留川へ飲むように促す。自身も手酌で片手に赤色のソレを注ぎ込む。受け取ろうとした布留川の手先は、ガラスのくびれを掴みきる前。布留川は赤色でフラッシュバックした。――殺人現場の返り血を思い起こす。手が滑ってしまい、受け取る刹那。グラスは重力に従って床に叩きつけられた。蛍光灯の光でぬらりとした光沢を持つ赤ワインは、ガラス片にはじかれる。まるで血溜まりのような光景に布留川は自責する。先の仕事がよくなかった、いくつかの現場がフラッシュバックして盆の窪に鈍痛を覚える。次第に曇る布留川の表情に、初瀬は「考えすぎるのがよくない」と忠告をした。
初瀬は片手に持つワイングラスへ口をつける。品性の欠片もなく呷り、グラスの中身を飲み干した。
「俺のグラスを使え」
空いたグラスを布留川に差し出す。布留川は視線を割れたグラスから、初瀬の片手へと移した。グラスをどこかぎこちなく受け取ると、初瀬はワイングラスへなみなみと赤ワインを注ぐ。持ち手の氷のような冷たさも初瀬の体温でほんのりと温かった。
深紅の液体が透明の器に収まると、布留川もグラスへ口をつけた。量もあったためか、初瀬とは違い、二度にわけてグラスの液体を胃に収める。
「別に何も考えていないよ」
ぽつりと語る布留川は、視線を左下に下げる。初瀬は「どうだか」とやや不信気味で返事をする。折れた布留川は初瀬と視線を合わせはせず、しかしほんの少し顔をあげた。
「……本当は少し恐い」
本音を聞いた初瀬は「霧流」と彼の名前を呼び止める。力なく笑い、布留川は手酌でグラスに瓶の中身を注ぎ込む。一口だけ口をつけて、初瀬へ傾けた。
「盃のかわり、」
グラスを受け取った初瀬は「俺、霧流と違って酔っぱらうんだけど」と愚痴った。しかし布留川は緩やかに笑った。
「今日だけはいいだろ。それに酔っぱらってたほうが都合いい」
言葉の意味を悟った初瀬はグラスを空けて、グラスを持っていないほうの手で布留川の片手首を捕らえた。
「なら、お前も忘れろ。――嫌な記憶はすべて」
そのまま引き寄せなだれ込むようにソファーに沈む。共犯の意を反芻する行為の数々へ、今更、悔い改めることをしない。それは新雪の静かな冬空。二人は夜の帳が上がるまで、依存と自覚しがたい感情を重ねていた。
続く
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