第質話 隙を見せれば命取りと猫は言う(2018.12.10) PM 5:30
2018.12.10 PM 5:30
冷たい風が吹き抜ける。日の暮れた街は、夜空をのぞかせる。ここは
「待てよ霧流。巌川から電話があったとき、言っていたじゃないか。脅かしているのは警察だって」
初瀬は制す。焦った口調のまま反論した。しかし論する内容に布留川は難色をしめしたままだった。
「だから? 俺らが関わる案件じゃないハズだ。馬鹿じゃないのか? 一番手を出したら不味い人間だろう」
――よりによって、警察官を殺す依頼だなんて。
布留川は言いかけた言葉を飲んで、噛み締めた。巌川から追加で送られてきた詳細データに苦悶する。社会的弱者や裏社会に関わる屑の片付けとは違う。圧倒的にリスクが伴う内容であることは明白だった。
「逆に考えるんだ霧流、ニュースにあがった発砲事件。たぶんあれは岬が噛んでる案件だろう?」
「総野、違うよ。その件に手を出して岬を吊るした結果、今度は誰が岬を吊るしたかって話になる。見越してこの件を俺たちに預けてきたとしたら、巌川さんは相当性格が悪い」
「確かにあの男ならやりかねない。……わかって振ってきた可能性はあるかもな」
二人が知る中で一番厄介になるのが巌川零次という男であった。手中に収まると言う事はカモにされると同義である。懸念の色を隠せない初瀬は沈んだ声で「さすがに今回はヤバいかもな」と表情を曇らせた。
「こんな依頼、破棄しようよ。二本で十分じゃないか」
建設的な意見ではあるが初瀬は言葉を濁す。茶色い瞳は瞬きを忘れたかのように、酷く乾いていた。初瀬は「俺だって同じ気持ちだ。だが破棄すれば、……霧流にとっては不利だ」と語る。肩書と戸籍を簡単に捨てる事ができる初瀬と違って、布留川の場合は逃げ場がなかった。過去の記録を塗り替えることが容易ではないため、もしも裏切り行為をしたら巌川がどんな手を使ってくるのか。二人とも、かつての部下であるため、容易に想像できた。
「……俺、巌川さんに直談判してくる」
ぽつりと布留川はそう呟くと「霧流、行っても無駄だ」と初瀬は否定した。思わず初瀬は布留川の手を掴む。
「確かに俺個人として行っても無駄だろうな。……けど、人殺しの俺としてならどうだろう」
しかし布留川は据わった決意ある瞳で宣告する。初瀬の手を振りほどいて背を向けた。初瀬自身もこの件は降りた方がいいに決まっている。掛ける言葉を失った初瀬は布留川を見送ることしかできなかった。バタンと鳴り響いたスチール製のドア。屋上の扉を挟んで布留川は立ち止まる。
「なにより一番頭にきているのが、この件、総野に預けるしかない自分自身にだ」
奥歯を噛み締め目を細める。その青い目には殺意を乗せてギラリと鈍く揺れた。
真冬の冷たい風が吹き付ける。冷えた手を擦った初瀬は右手の指にはまっているプラチナリングを触れる。武運を祈るしかできない自分の歯がゆさに、初瀬は小さく舌打ちをした。
PM 6:30
アルミサッシの引き戸を叩く。東海金融照会、駅裏通り支店。布留川は涼んだ声で支店長、こと北里龍へと電話で商談を取り付けていた。相変わらずの狭くて古い内装も、布留川が勤めていた時と変わらず、旧世代の営業所じみた二階建て。地下室には契約書の束と違法な物品が詰まった段ボールがあるのだろう。部屋には、赤を基調としたソファーと、ニスが輝く木製のテーブル。シックな白い壁と本棚には経済書と金融関係の資料が詰まっていた。十年前からいたって変わらない事務所。いくつかの備品は布留川自身が書類等や報告を上げにいっていたときから何も変わっていなかった。
「こんばんは。珍しいですね、副社長様の方から訪ねてくるなんて」
警戒心が低い北里はさらりと応接ソファーへ座るように促す。布留川は北里の指示を素直に聞いてソファーへ座った。
「明日の朝会で言わなきゃいけない案件をすっかり忘れてたから、ちゃんと確認とりたくて」
建前上では前々から契約を詰めていた融資の話を打ち合わせ。表側でも東海金融照会とは付き合いがあったため、北里も不思議に思うことはなかった。込み入った話であることを北里に伝え、部下を事務所の二階へ捌けるよう、相談すると北里もとくに疑問に思うこともなく布留川の要求を飲んだ。北里は布留川の事を油断している。布留川は確信こそしなかったが、自分が北里にとってかつて親しくしていた先輩で、かつ、今だに交友関係があるというアドバンテージを自覚していた。北里の部下が淹れたお茶をすすりながら、ブラフで持ちこんだ議題について話を進める。布留川は北里の目を盗んで飲み物へ細工をしていた。北里がお茶へ手を付けたのを見届けてから、緩やかに話題を繰り返し眠気を誘うような専門性のある話へとシフトしていった。
北里はふと違和感を覚えた。倦怠感と強い眠気にさいなまれる。自分が睡眠薬に類するものを盛られたことを理解する。しかしそう自覚するころには、頭の奥はぼんやりとしていた。テーブルに片手を打ち付けて考える。しかし打開策が見つかることなく、北里はそのまま眠りに落ちてしまった。
「疑う必要のない生活ができたらいいと思わない?」
件の犯人である布留川は悠長に疑問文を口にする。しかし問いかけた言葉に返事がない。返事をするべき人は、今、布留川の前で眠りに落ちていた。
「あれ? 寝ちゃったか、」
布留川は首を軽く傾ける。ぐったりとソファーに横たわる北里を一瞥し、自社で開発している新薬のサンプルを使ったのが不味かったか。一応、臨床実験は通しているため、人体に悪い影響は低い。比較的安全であることは確認済みではあるが、自身が想像していたよりも、強力な効果を目の当たりにして「そんなつもりじゃなかったけど」と虚空へ言い訳をしていた。
布留川は北里の携帯電話へ手をかける。指紋認証でのロックのみ。パスワード機能ではないようだった。セキュリティ意識としてはどちらが高いのかと疑問に思うほど。推測できる文字列を予測するのと、直接指を切り取ってしまえば強制的に開けることができる指紋認証と。解除した携帯電話を片手に、メッセージ履歴から簡単に文章の傾向を把握する。布留川は画面をタップして、巌川零次へ成り済ましたメッセージを送った。
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