第陸話 (後) 野良猫には透明の首輪 (2018.12.03→12.08)
2018.12.03
通話の向こうでは車の通る音が聞こえる。巌川零次が出かけ先から架電しているのはすぐに察しが付く。布留川霧流は「詳しく聞かせてください」と乞うた。
「今から〝ワイン〟を三本寄越す、飲んでいい人間は決まっている。他に〝ワインを嗜む〟連中はいる、けどこれは最高級品で味のわかる奴にしか飲めやしない。なぜなら〝問屋〟から仕入れたからだ。……言っている意味はわかるか?」
見え透いた例え話だった。本質を知る者には容易い、ワインは殺しの依頼の対象。赤を血の流れる人間と見立てたボトルで表現しているに違いない。以前は〝遂行業務〟と称していた片付けの仕事だった。足を洗ってしまった分野の依頼。初瀬総野は布留川が持っていた携帯電話を取り上げた。初瀬だってわざわざ危ない橋を渡りたくはなかった。初瀬は奥歯を噛み締めて、唸る様に「おう」と返事をする。巌川は話の続きを口にした。
「もちろん、ワインを飲まずに叩き割ってもいい。だが、そうなると〝真っ赤な〟ワインの〝滴〟があたりに散らばるだろう。それは酷い汚れで、きっと自分たちの手に負えなくなるだろう」
布留川も携帯電話へ耳を傾ける。スピーカーにするわけにもいかない内容に、小声で訊ねる。
「いい〝洗濯屋〟は紹介してくれないんですか」
現場の小細工と死体処理まで請け負ってくれる清掃屋、あるいはそれに類する業務代行店。七年前はいくつかあったが、すでに自分たちの知り得ているツテは古すぎていた。現役で裏社会に足を浸しているタイプに比べて過度にリスクが高い現場になりかねない。布留川が懸念する気持ちは初瀬も同じだった。しかし巌川は無情にも冷たく返す。
「ウチの勧めなど無い、自分で探す事だ。――いい返事を待っている。もちろん、否定的ならお前たちは酔いから醒めるだろう。アルコール、好きだろう?」
巌川の質問に答えたのは布留川だった。
「……好きで飲んでいた時なんて無いですけど、わかりました」
とやや静かに応答の旨、返事をした。
シャトーの赤ワインを三本受け取る算段を付ける。北里支店長を経由して〝プレゼント〟されるそうだと、伝えられる。巌川は直接この件に関わらない意思を感じ取り、初瀬は小さく舌打ちをした。諸々をたとえ話で伝えられた連絡が複数。通話が切れたあと初瀬は「くっだらねぇ依頼を寄越しやがって」と毒づいた。
「かつての〝仲間〟を手にかけるのは、」
布留川がぽつりと唇に乗せた言葉に、初瀬は唸る様に抗議した。
「俺らがやらなきゃ、死ぬのはこっちだ」
不機嫌を絵に描いた初瀬を横目に布留川は宣言する。
「この件、俺も乗るから絶対に無茶するなよ」
お互いに思う気持ちは、決まっていた。失う訳にはいかない、ヘマをしてはいけない。――守れるならば守りたい。死ぬわけにはいかない理由ができてしまった故、絆のみが繋がりである。布留川は自身の左人差し指に填まったプラチナリングへ触れる。布留川が最近覚えたそのクセを見やり、初瀬は視線を落とす。右手の平を握り、自身の中指に填まったプラチナリングを強く認識した。
2018.12.08 PM:夜間
暗澹と続く雲の切れからは月光もうかがえない。暗がりから窺えるのは黒い土建業従事者が着るような防寒レインコート。コンクリートからは放射冷却ともいえぬ冷たさが、都会の喧騒を静かに冷ます。
拠点としていた廃ビルで、岬清志郎は部下の帰りを待っていた。最後の標的を記した手帳をめくる。巌川零次より受け取ったワインは前祝いとして空けていた。――問題となるのはSDカードに残っていたテキストデータのほうだろう。独り言ちるのは巌川が用意した逃走経路の危うさだった。岬は、用意周到なあの男にしてはいささか杜撰すぎる逃走プランだと疑問に思っていた。すでにインターネットのニュース速報やテレビでは一部界隈の話が駄々洩れている。警察側ではすでに容疑者候補へ自分の名前ぐらいは挙がっているだろう。
岬はため息を吐く、ポケットの中に押し込めていた携帯電話へと手を伸ばす。メールが届いていたのを認識すると、不意に足音が聞こえた。
「誰だ」
時と場合があいまって警戒心を持っている。岬が相手を認識するやいなや、突然背後を取られ首を絞められる。抵抗しようと格闘を試みるが、懐にしまっていた拳銃へと手を伸ばしたのが運のつきだった。寸で間に合わず減音器付きの拳銃が放つ発砲音が轟いた。
「なんでお前が、」
--腐れ専務が余計な事を。霹靂のような痛みに襲われるがその感覚もすぐに消えた。絶命するさなか思う、誰が裏で糸を引いているのか明白だった。
「……俺達は、これが最後の契約にしたいんだ」
それは若い男の声。夜色をしたウールコートを羽織っているのは初瀬総野。息絶えた一塊となった岬を見下ろす。初瀬はぽつりとこぼした。
「それに、平和な日本で暮らしたい」
東海金融照会の遂行班として請け負っていた時は、事後処理として偽装工作や清掃をする班員がいたものだ。東間組の後ろ盾を失った今、自分ひとりで最後まで
「チッ、めんどうだ」
初瀬は軽く息を吐く。薄いビニール手袋をはめた手で、岬の着ている上着をあさる。黒色の本革カバーがかかった分厚い手帳を手に取る。年季が入った色の変わった紙の束。パラパラとめくると東海金融照会と、元請けの会社名が散見された。遂行班の存在を知られるわけにはいかない。--後で処分しよう。初瀬は岬の手帳を自身の懐へ入れた。
岬が持っていたマガジンを回収し、空薬莢を拾う。死骸の脳天にもう一度、引き金を引く。上塗りするようにしっかりとしたトドメの弾丸を打ち込んだ。銃口はまるで爆竹のような音を立てる。軽い引き金。上がる硝煙。ゼロ距離での発砲は、肉が焦げる匂い。動かない死体を前に射出角度を見誤ることはない。爆ぜた血液と脳味噌が散らばった。
「きったねぇな」
廃ビル内に隠していたキャリーケースを持ってくる。岬の携帯電話のメールを開く。相手は池亀からの遺書。――遺書のていをしたメールが届くということは、布留川は無事に遂行できたことを悟る。布留川のやり口は刃渡り十二センチのダガーナイフで頸動脈を掻っ捌くのが常だった。現場がハデに汚れる事が懸念されるが、初瀬は布留川の死体処理の腕を信じるしかない。少なくとも同業者、下手なマネはしないだろうと思いをはせる。
初瀬は脱力している死体を折り曲げた。死後硬直が始まる前に折りたたむ。好かない種類の拳銃を一丁、岬自身の
それからコンクリートをよく観察し、貫通した弾丸の先を確認する。仕留めたときの弾痕を探した。近辺と、ほんの三メートル先に、それと思しき個所を発見する。あらかじめ用意していた、少量のモルタルパテと床の塵で埋めた。血と脳味噌が散らかっているところへ、スーパーで買った塩素系漂白剤を一リットルかけて、水溜りを靴で伸ばしていく。直接的な現場の隠ぺい。この手の小細工が効くとは思えないが、粗雑な鑑識であれば見落とそう。考えれるすべての偽装工作を施した。
「くっだらねぇ依頼を寄越しやがって」
初瀬は吐き捨てる。七年前とは勝手が違う。個人で動くはハイリスクが過ぎていた。一通り片づけた頃には一時間が過ぎている。長居すること自体が宜しくないと知っているが故、死体が詰まった大きいキャリーケースを引き擦りながら廃ビルから立ち去った。
キャリーケースの引き手を掴み、初瀬は思う。--もう吸わねぇつもりだったのに。空いた方の手で口元を押さえた。禁煙して七年も経つが、煙草が喫いたい欲求に駆られていた。
「……くっだらねぇ、」
口元から懐に手を滑らせる。手になじむ鉄の塊に安堵する。それすらも初瀬は馬鹿らしく思っていた。
至って冷静に振る舞う。普段の行動範囲に収まる最寄駅のコンビニでセブンスターを買った。一本口に咥え火を付ける。絶滅しかけた屋外の喫煙スペースには人影が複数あった。目に留まり、一瞬ためらうが、気にしている方がおかしな話。死体の詰まったキャリーケースに寄りかかり、一本吸った。上がる紫煙にめぐらす思考は鈍い。さながらダウナー系と言うように。初瀬は自分自身の性質を一番理解している。生まれてこのかた、気質の仕事など。違法薬剤師のホームレスに拾われて、ヤクザ者の下で殺し屋を営み、海外で違法臓器売買に手を染めて。日本に帰って来ても裏金のプールと、――そして、今回のような殺しの依頼。呪いのような罪状がレッテルのように貼りつき、剥がれる事もなく。まともな暮らしをしたことがない自分にはこれがお似合いだと自戒していた。--霧流と違って、俺は。なんて、感傷的な思考を打ち消すように携帯電話が強く震えた。液晶画面にはまるで心を読んだかのように。呼び出し表示の相手は「布留川霧流」となっていた。
「わりぃ、禁煙できなかった」
どうせ匂いで悟られる。ならば自分の口から正直に話すのが筋だった。
「いいよ、俺の目の届かないところだから」
電話の向こうはとても冷たい口調。理由が推測できる以上、初瀬も弱気で笑った。
「いっそ高飛びでもするか、どこか遠くへ。地球の裏側とか」
冗談めかした言葉を告げる。できるものならとっくの昔に逃げ出していた。――相方である布留川も似たようなムジナ。強いて言うなれば御家柄が名家で信用に明るいだけ。血で染めた両手には変わりない。布留川も分かり切っているため「……俺の手を引いてくれるのか」と弱々しく訊ねた。
「逆に聞くけど、手を取ってくれるのか」
初瀬はまた自分都合な疑問を重ね、同等である事を悟る。行先も無い閉塞感に布留川は「はは、笑えないよ」と乾いた笑いを皮肉的に浮かべていた。
「まぁ最悪、地獄で会おう。大罪ばっかりしてるからしばらく居なきゃいけないだろうし」
意味も無い約束を告げる。現実逃避くらい許されべきと
「それもそうだな」
「勝手に死んだら追っかけるからな」
「そっちこそ、勝手に死ぬんじゃねえぞ」
通話が切れたのを名残惜しいと感じる。日付が変わってもう明日に踏み込んでしまっていた。
「そうは言っても、大事に拾った命だ。むざむざ死ぬわけにはいかないな。霧流に怒られる」
――日曜日、会社は休日だから霧流に会う事も叶わない。初瀬はぼんやりと頭の中で独り言ちた。すぐさま架電することは得策ではないと知りつつも、携帯電話の液晶画面へ指を滑らせる。三コールで出るのはかつての上司、今はロクでもない依頼を寄越した巌川へとだった。
「赤ワインは二本空けた。酔いから醒めた。もう俺達はあんたの指図で動きたくない」
初瀬は流れるように文句を伝えると、電話越しで「まぁそう言うな、今更、惜しいだろ」と巌川は答える。
「惜しい、? それこそ、今更だ、」
言いかけた言葉に「まさか俺のやり方を知らんで言っているのではあるまい」と巌川は焚き付けた。
「……霧流には手を出させねぇ」
初瀬総野という人間は、相方の布留川霧流を天秤にかけるなら、どんなものだって犠牲にできる男だった。――それが殺人であったとしても、自身の自殺であったとしても。
「ならラスト一本、お前は空けなきゃならん」
「クソッたれ」
殺意をこめて初瀬が吠えるが巌川に動揺するそぶりはない。至って冷静な声色で告げた。
「データは後で送る。山はやめて海にしといたほうが無難だな」
切れた通話に初瀬は目に見えて不機嫌になる。煙草の箱を空にして、喫煙スペースの灰皿へ乱雑に捨てた。灰皿の水は酷く濁り、湿る厚紙は煙草の灰で汚染される。
初瀬は呼気を吐きだした。吐いた煙が夜空の雲へとならんことを考える。月光が降り注ぐ空を仰ぎ見た。
(続く)
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