第肆話 喰らわば皆まですすり (2018.12.05) AM2:45
2018.12.05 AM2:45
E区、一三番。担当は駅裏店B班、佐熊と松田。巌川は過去に手をつけていた監督派遣業務を思い出す。ちょうど駅裏通りの支店長をしていたころに監督担当していたエリアだった。シャトーの赤ワインをいれた紙袋を片手に巌川は歩を進める。雨風で劣化した「テナント募集」のポスターを張り付けた、廃ビルじみたガランドウ。地上に出ているところは空き部屋ばかりで寂れた印象のみを与える。一方、地下では駐車場、さらに非常階段のような螺旋を下がるとスナック「
スナックの扉をあけると出迎えるご婦人。四十代をゆうに過ぎた日本語が不自由な中国人。薄暗い店内に妙な甘い香りが漂ういささか不健全さもうかがえる。カウンターに座っているのは、もはや営業する気もないように水煙草を吹かす、この店の経営者こと
知っている顔の客が来たと認識したところで彼女は「いらっしゃい、」と、そこだけ流暢な日本語で言った。特に返事を返すつもりもない巌川はざっと店内を見渡す。部屋の一番端に見たことがある背格好の男が座っていた。痩せても筋張った筋肉質な体格。真っ黒なスーツはまるで葬儀に着る礼服のようで、同系色のシャツを第二ボタンまであけていなければ、そのまま故人を偲びにでも行きそうな雰囲気だった。--そんなどこか夜の色をまとった男が、巌川と会う約束を取り付けていた主である。
「こうした連絡を寄越すのは何年ぶりだろう」
断りなく向かい合うように相席する。合成皮革のソファーがゆるく沈む。カラになりかけた
眼光が鋭く、人殺しの目をして濁っている。その男は元高岬組の当主、
「専務じきじきにお訪ねいただけるとは、それはそれは」
舐めるような視線。ギラギラと飢えた瞳と目が合い、巌川は静かに口角を吊り上げる。自分より七つばかり歳が多い。しかし歳に似合わず、いまだ野心的であった。恐れを抱くほどの人間ではない。頭のおかしい手遅れた人間だと邪険にできる立場ではあるものの、巌川はそうしない。巌川零次の指針は、使えるものはゴミ屑だって使うタイプだった。そして、今の岬を突き動かすのは私情、それも取り分けてくだらない思考回路。彼を突き動かすものが、「高岬」であるという
「高岬時代の左腕が返ってきた。余計な事をしてくれた
岬はそう吐き捨てた。グラスの焼酎をあおり飲む。底でぬらりと爬虫類独特の皮膚片が、この部屋の暖色を照り返している。
「岬も重々わかっているとは思うが、現代じゃすぐ足がつくぞ」
「専務、これは仕事じぁない。俺の勝手だろう。――東間でもお前の命令でもない、これは高岬としての落とし前だ。無論、帰ってきた
問屋の情報から話だけは買っていた。東間組と吸収協定後すぐの事。ざっと十五年は前になる。殺しの仕事でしくじって逮捕された愛弟子が、最近やっと釈放されたという話だった。中でも警察には岬の右腕となる
巌川にとって岬の弟子が今日までいなかった事は救いであり、交渉を優位にさせていた。元来、岬は東海金融照会をよく思っていなかった。東間組へと奉公するという取り決めから逸脱しないとはいえ、岬が自身で徒党を組むことがなかったのも、両手となる弟子を失ったからに過ぎない。長らく東海金融照会の遂行班として動いていたのは巌川の交渉があってこそだったのだ。岬にとっては使いづらい、東間生粋の連中とは別に、巌川は好きなように扱える班員を東海金融照会から寄越す。その対価として、東海金融照会の仕事を受けるように打診した。無論、多額の金銭のやり取りがあり、岬も潤沢な資金を蓄えている。それはいつか待ちわびていた高岬組としての復讐、あるいはそれに類する反抗のためだった。
「安心しろ、豚箱に突っ込まれたところで俺も池亀もウタウようなタマじゃねぇ。恩義のある専務と東間にゃ迷惑かけねぇ。これが俺の流儀でありプライドだ」
「心配していない、……もっとも、殺すだけならお前の得意分野だろう。よく知っている」
遂行班という言葉の伏せられた正式名称は暴行・殺人の任務遂行。殺しを専門とする物騒な括りをしていた。
「警察には
苛立ちを隠さず岬は手に余したグラスを握り割った。パキンッと割れた冷たい音を聞き、カウンターから玲美が母国語で「ちゃんと弁償してよ」と呼びかける。モノにあたる様で動じる人間などここにはいない。巌川も居たって冷静な声色で「東間の当主には俺から話をつけておこう」と話を括った。
「俺はあの若造と杯を交わしたんじゃねぇ、俺は先代の命令でツルんでいただけだ。はき違えるなよ」
間髪入れずに岬は強めの口調で忠告する。しかし巌川は調子を崩す事もない。
「わかっている。当然、東間の当主も存じているだろう」
「専務の下で働くのは嫌いじゃなかったぜ。腸が煮えくり返りそうだったがな」
「不利益なことはなにもなかっただろう」
「だから余計にむかつくのさ」
岬は鼻で笑って割れたグラスをテーブルに放る。鋭い刃物と化したガラス片は岬の掌に食い込んでいた。滴る真紅は鮮血。そのまま両手を組んで丸まった背筋を正していた。
「悪いが今日で遂行班の肩書も専務に返す」
「書面も無い口頭契約だ。好きにするといい」
「お言葉に甘えて勝手にさせていただくね」
そう吐き捨てて岬は立つ。巌川は軽く声を張って「ちょうどここに取引先から貰った一本のワインがある。景気づけにくれてやろう」と岬へ紙袋を手渡した。
「ワイン?」
訝しんで紙袋の中身を改める。――物の例えと、岬はピンときた。
「……なるほど、もちろん赤ワインなんだろうな」
ラベルの端が二センチ程度めくれている。黒いマイクロSDカードが刺さっていた。
「いうまでもなかろう」
不気味に口角を釣り上げて岬はワインボトルを受け取った。巌川はひとり心中でこれが最後の会話になる事を悟る。
玲美が水煙草を吹かすカウンターへ、岬は勘定よりも遥かに多い金額の札束を叩きつける。カタコトな日本語で玲美「コップ、十万スル」なんて言うが「うるせぇクソ女」と去り際に背を向けたまま、流血する片手をひらひらと振って聞く耳を持たずに帰ってしまった。
始終を見送り、巌川は水溶性のシミだらけのソファーで息を深く吐いた。見えている結末の筋書きが酷いものであるとは重々承知。ただしもう自分には関係ないことだと腹を括る。なんの酒にも手をつける気が起きず、自分もそのままスナックの扉を潜る。夜の東京は寒々と。乾燥し切った空気を吸い込んで、巌川は足早にこの場を後にした。
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