第弐話 古い契約書類 (2018.12.03)

2018.12.03


 大都市のビル街の一塊、例に倣ってよくあるカタチで建設されたガラス張りの高層ビル。ここにオフィスを構えているのは、一部上場企業でもある港々成みなとこうせい製薬株式会社だった。医療従事者なら誰もが知る業界最大手の製薬会社。そうじゃない人にとっても、テレビCMなんかで、その名前を耳にしたことがあるであろう。金融関係や保険事業で有名な企業である。

 役職としては年齢とそぐわない。二十代後半にして、常務取締役である初瀬はせ総野そうやは自身の首から下がるパスカードを持て余して、デスクから窓の外を眺めていた。名ばかり役員である彼は書類にハンコを押すだけの簡単な仕事であり、けれどもいつか起きるかもしれない責任問題に面したときに首切りとして使われるであろうポジションにいた。本人には出世願望もなく、副社長のお眼鏡にかなって得た役職、これ以上の努力も無い。彼には伏せるべき過去がありすぎる故、目立たない事も一つの仕事であった。

「初瀬さんまた仕事サボっているんですね」

 部署違いの後輩、相川奈津あいかわなつが珈琲を淹れてデスクに置いた。初瀬は相川の顔を見るなり「めんどくさいのが来た」と言わんばかりの表情を張り付けた。

「なんですかそんな嫌そうな顔をして」

 きょとんとした顔に思わず初瀬は「実際嫌なんだけどなぁ」という内心の愚痴を零しそうになってしまった。

「サボっていたわけじゃない。午後は外回りに行ってくるさ」

「またそんな事言って、初瀬さんがちゃんとした仕事をしているところなんて見た事無いですよ。サインだって自分の名前なのに間違えるし、エクセルの表計算だって間違えるし」

「悪かったな事務業務が得意じゃなくて。俺はもともと〝営業〟の人間なんだよ」

「そんなんじゃ副社長も初瀬さんの事見損ないますよ」

 相川は慌てて自身の襟元をただした。その意図に気づかず初瀬は続けて「そしたら布留川ふるかわの副社長の方が過大評価され過ぎているんじゃねぇのか。一族経営とは馬鹿でも出世できる素晴らしいシステムだな」と揶揄する言葉を並べた。

 聞き捨てならないセリフが耳に入った副社長こと、布留川ふるかわ霧流きりゅうは「誰が馬鹿だって?」と初瀬の前に立ちはだかる。

「おっと噂をすれば副社長のお見えだぜ」

 反省の色もなく、対応もまるで上司であるということを心得ていないも同然だった。怒るも何も布留川の態度は、すでに初瀬へは一切期待していない様子にも見える。相川は眉間に手を当て深いため息を吐いた。

「副社長、大変申し訳ございません」

「相川さんはなにも悪くないですよ」

「でも、」

「人事のセンスが無い俺の責任ですから、謝らないで下さいね」

 布留川はそのまま笑って相川の肩を軽く叩いた。副社長たる人格者である事を改めて相川は認識して、心からの返事をしたところで、さっきとは打って変わって初瀬を睨みつけ「総野ちょっと来い」と呼び付けた。初瀬はめんどくさそうな顔をして「はいはい」と二回返事を重ねる。やる気のない様子の首根っこを掴んで引き擦るようにオフィスから追い出した。

「くっだらね、お仕事ごっこは肌に合わねぇ」

「分かってるよ」

 布留川の声色は、低く唸るようにも見受けられる。相川がいないところではだいぶ調子が違っていた。

「それでも、しょうがないじゃん」と口にして、自身の行いに腹を据えていた。そんな布留川を横目に、初瀬は苦い笑みを貼り付けて「まぁ、そんな思い悩みさんな」となだめる言葉を投げかけた。布留川は相変わらず「悩みの種はお前なんだけどね」と軽く睨みつけるしかできなかった。

 初瀬の携帯電話が鳴り響く。液晶画面には非通知と記され、予感からは思い出したくもない事柄がよぎる。目配せした初瀬は、布留川に「霧流、ちょっと」と声を掛け、電話を傾ける横で布留川は聞き耳を立てるために近寄る。警戒しながらも、初瀬は画面をタップして通話をオンにした。

「――この電話が掛かってくる意味はわかっているだろうか」

 開口一番、名乗る事もない。低い男性の声は昔、聞き飽きる程聞いた元上司の声だった。

「悪いがあんたとの契約は満期じゃないのか?」

 かつての契約を知る者は少ない。初瀬総野という名前を語る前、入野湊谷という名前には曰くがあった。偽りの名前を語っている理由は、昔行っていた〝仕事〟に由来する。彼と、その隣に並ぶ布留川霧流は、指定暴力団 東間組あずまぐみに雇われていた殺し屋だった。そんな稼業をしていた時代からの知り合いなんて両手で数える程も居ない。叩けば埃が出る過去を封殺するには代償が伴う。故に、初瀬は名前を変えて余生を送っていた矢先。封じた過去を思い出させるような人間からの連絡。どう考えても罠か、新たな火種と厄介ごとの引き金であることは明白だった。

「ほう。ではそのまま切るとお前だけの話で済まされない事もわかるだろう」

 脅し文句とも取れる言葉を並べる内容に初瀬は舌打ちをした。自分にとって不利であることは明白だったが、ここで通話を切るのは愚策と察する。ひねり出すような思いで「要件は」と肯定系で返答した。

「脅しているのは俺じゃあない。お前らを脅かしているのは警察だ」

 布留川が初瀬の耳元から携帯電話を取り上げる。初瀬は思わず「おい」と布留川に声を掛けたが気にも留める様子もなく「詳しく聞かせてください」と捲し立てた。初瀬も電話越しから漏れるわずかな声を頼りに耳を澄ませる。

「話が早くて助かるよ。物わかりがいい人間は嫌いじゃない」

「もう嫌われたっていいですよ、何一つ不利益になりえないので」

「言うもんになったものだ」

 鼻で笑った巌川は本題を口にした。

「この件で一番ボトルネックになっているのはむしろお前、布留川の方だろう」

 はじめから巌川零次という男を知っている者にとってどこまでが誘導でどこまでか事実なのか見極めるには難しくない。語られた言葉に嘘が無いか耳元に神経を尖らせる。喰うか喰われるかの世界であることは十分承知の上。――この二人ならば尚更だった。彼の下で殺し屋として雇われていた二人ならば。

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