第197話 瞳の篝火

「ぐっ…………!」


 姫乃は眉を寄せ、歯を食い縛る。

 全身に有らん限りの力を込めるが、動くのは、手足の指先のみ。

 今の姫乃の体は、それ以上の自由が許されていなかった。

 両手足は大きく外に開かれ、『大』の字を全身で描き、立ったまま固まっていた。


「…………ここまで、だな」


 亞咬は、ポツリと一言そう呟くと、ピッチリと着こなしたスーツの懐に手を入れる。

 そして、ひどくゆっくりとした動きで懐からアルミのシガレットケースを取り出すと、煙草を一本取り出し、口にくわえる。

 これまた懐から年季の入ったジッポライターを取り出し、フリントホイールを回す。

 ライターのフリント(着火石)がカチカチと鳴る音を聞きながら、姫乃は悔しげに煙草を吸う父の姿を見つめた。

 挑発とも取れる父のひどく緩慢な行動は、明らかに自分に対するものだ。

「もう、終わったのだ」と。

 言葉だけでなく行動でも亞咬は娘にそう告げていた。


「まっ……まだですっ…………!」


 姫乃はさらに全身のありとあらゆる場所に力を込める。

 魔力も全身へと巡らせ、身体能力を限界まで高めていく。

 尚も諦めず、力を振り絞る娘の姿を、紫煙の向こうから亞咬は黙って見つめていた。

 その視線は、いつも姫乃に向けている厳しく険しい視線とはどこか違う。

 哀れみを抱いた、悲しげな視線。

 力の差をこれでもかと見せつけられながらも、尚も立ち上がり抗おうとする愚かな実娘を哀れんでいるのか、それとも…………。

 亞咬は煙草をくわえたまま、軽く右手の小指を曲げる。

 すると、姫乃の瞳は大きく見開き、全身を強ばらせおとがいを上げた。


「あっああああぁぁぁぁぁ!!?」


 甲高い悲鳴が周囲に響き渡る。

 喉奥が裂けるような悲鳴を上げた姫乃は、大の字で立ったまま、首が落ちるかのように頭だけ項垂れる。

 その様子を見た亞咬は、手にしていた煙草を落とし、地面で踏み消した。


「『ここまで』と言ったはずだ。既にお前には私の血糸が毛穴から全身に張り巡らせてある。それこそ内臓、筋肉、骨、血管、神経に至るまでな。普通ならば、身動ぎ一つできないだろう」


「がっ…………はぁっ…………はっ…………!」


「まぁ、仮に動けたとしても…………」


 亞咬が再び小指を曲げる。

 すると、姫乃の全身を耐え難い痛みが駆け巡り、痛々しい叫びが喉奥から込み上げた。


「あああああああぁぁぁぁぁぁっっ!!!」


 まるで体内から刃で切り裂かれたかのような激痛に、姫乃は遠のいていく意識を何とか繋ぎ止めようと、悲鳴を噛み殺した。


「ぐっ…………くっ…………!!」


「私が血糸の繋がった小指をちょっと動かすだけで、簡単に抑えることができるがな。どうだ? 体内から直接血糸で締め上げられる気分は? 文字通り、ような気分だろう?」


 姫乃の額から細い血の筋が一筋流れる。

 額からだけではない。

 目の端や身体中の毛穴から血が滲み出している。

 目に見えないほど極細で、されど鉄より強く、絹よりしなやかで、剃刀より鋭い亞咬の血糸が、内側から姫乃の体を傷つけていた。

 全身を走る痛みを必死にこらえ、姫乃は下げていた顔を上げる。

 その瞳は激痛に疲弊しながらも、尚も奥底で静かに燃えていた。

 むしろ、火の勢いはさらに増し、燃え上がっているように亞咬には感じ取られた。


「未だその『篝火』を絶やさんか…………何故そこまで立ち向かう? お前が私に一矢報いることすらできないのはよくわかっているだろうに…………」


「…………お父様も不思議なことを言う…………」


「何?」


 姫乃は、痛みで乱れた息を整えるように、深い呼吸を繰り返す。

 徐々に呼吸を落ち着かせると、再び全身に力を込める。

 亞咬の右手の小指が、微かに引っ張られた。


「私は…………『魔王の臣下ヴァーサル』だから………………例え敵わないとわかっていても…………それがどんな愚かで無謀なこととわかっていても…………目の前の試練に背を向けるわけにはいかない…………」


「………………」


「『逃げるな』…………お父様が昔から私に言い聞かせてきたことです」


 亞咬は、引っ張られる小指を動かさなかった。

 姫乃の力では、自分の血糸を断ち切ることはできないとわかっていたというのもある。

 『痛み』で抑える必要がないということを。

 しかし、それ以上に亞咬が小指を動かさなかったのには理由がある。

 それは、姫乃が自分に立ち向かってくるを、まだ聞いていないということだった。


「『逃げるな』か…………確かに、『魔王の臣下』としてお前を育てるために、私はそう教えた…………しかし、それは?」


「え…………?」


 引っ張られていた小指が僅かに緩む。

 亞咬の言葉に、姫乃が動揺した証拠だった。


「既にお前が、私に立ち向かう理由になるかと聞いているんだ」


「お父…………様……」


 姫乃は唇を震わせる。

 姫乃のこの反応は、亞咬の言葉を肯定するに余りあるものだった。

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