第198話 意地とけじめ
姫乃は一瞬驚きの表情を見せるが、すぐに納得したような笑みを浮かべる。
心のどこかでは、わかっていた。
自分の真意なぞ、亞咬がすぐに看破するであろうことぐらい。
「気づいて……いたんですか?」
「…………お前を育てたのは私だ。考えそうなことくらいわかる」
姫乃の母は、姫乃の出産と同時に命を落としている。
それからはずっと、姫乃は父に男手一つで育てられてきた。
姫乃は、母親の顔を写真でしか知らない。
伝え聞いた話では、父と母は政略結婚であったそうだ。
純血の吸血鬼の家系を、代々『背信の裁き手』である紅神家の血を絶やさぬために。
故に、姫乃にとって血縁者は父である亞咬しかいなかった。
例え、かつて自分を苦しめ、今尚も辛く当たってくる相手だとしても。
姫乃にとっては、ただ一人の親であった。
「…………一つ、確認したい」
「…………はい」
「お前のその選択は、魔王様のことを…………
亞咬は言葉を選んでいた。
姫乃の心情の奥底にある、暁への想いが、ただの忠誠心だけではないことも、亞咬は知っていた。
今まで一度たりとも自らの意思を表に出さなかった(少なくとも自分の前では)姫乃が、初めて意思を示したのが暁のことであり、それが唯一だったからだ。
そのことから娘の恋心を察せぬほど亞咬は鈍くはないし、それを暴き立てるほど情を失したわけではなかった。
勿論、それに賛同することもできないが。
今回の緋彩との婚約の話は、紅神家のためであることは間違いないが、それ以上に叶わぬ恋に身を
そう、叶うことはない。
紅神家に生を受けた以上、暁と結ばれることは絶対にない。
時として魔王の命を奪う役目を持った『背信の裁き手』としての役割を担う紅神家の者が、魔王と結ばれることがあってはならないのだ。
『忠を尽くせ。されど情を抱くなかれ』。
それが、紅神家の魔王に対するスタンスだった。
「だが、やはり一つ腑に落ちない。最初から私の提案を飲むつもりなのならば、そもそも今このような場は必要なかったはずだ。なのに何故だ? 何故お前は私の前に立つ? その理由は?」
「それは…………」
父の問いかけに、姫乃は少し言葉を考える。
姫乃自身、今の自分の行動を上手く言語化する自信がなかった。
暁に、『黒い目』の情報をもたらすこと。
暁から緋彩との話を聞いた時、姫乃はそれこそが自分の役目だと考えた。
その役目を果たすための方法は簡単だ。
父の提案を飲み、自分は『
必要なのは、自分の了承の意思だけ。
しかし、同時に姫乃は、ただ父の提案を飲むだけではいけない気がした。
衝動に駆られたと言っても差し支えがない。
姫乃はその衝動に近い、自分の意思に正直に従ったに過ぎなかった。
「…………」
「どうした? 答えられないのか?」
姫乃は沈黙するしかなかった。
自分自身、どう説明すればいいのかわからないのだから当然である。
父と娘の間に沈黙だけが流れる中、地を蹴り走る足音と忙しない息遣いが近づいてくる。
二人の下に足音と息遣いがたどり着くと、親子もその足音と息遣いの方に視線を向ける。
二人と視線が合うと、沈黙を破るように、叫んだ。
「姫乃っ!!」
「…………暁……」
「…………魔王様」
息を切らし、必死な顔をして現れた暁を見た瞬間、姫乃は頭の中がはっきりとした。
そうか、自分はどこまでも、呆れるくらい、そういうヤツなんだ。
そう心の中で姫乃は納得し、笑みを浮かべると、再び父の方に視線を戻す。
さっきまで言葉にできなかったことが、今度ははっきりと言葉にできる。
面と向かって、父に伝えることができる。
それが、『紅神 姫乃』なのだから。
「……意地と、けじめです」
「何?」
「こうやって、お父様に立ち向かうことが、私の…………逢真 暁の『魔王の配下』である私の意地とけじめだからです」
答えるや否や、姫乃は再び全身に魔力を巡らせ、力を込める。
姫乃の全身には、未だ亞咬の血糸が張り巡らされている。
必然、姫乃の体からは血が吹き出し、全身を激痛が襲う。
姫乃は全身の痛みに顔を歪ませながらも、歯を食い縛り魔力をたぎらせ続ける。
身体中から血が溢れようとも、構わない。
尚も強大な魔力を全身から沸き上がらせた。
(っ…………!? まずい!!)
亞咬は咄嗟に、姫乃の全身に張り巡らせた血糸を解除しようとした。
このまま姫乃が自分の血糸に抗い続ければ、命の保障はない。
流石に亞咬も、娘の命を奪うことまで良しとはしなかった。
しかし、亞咬の動きはすぐに止まる。
血糸と繋がった小指の先に、手応えがなくなってきている。
そこでようやく、亞咬は姫乃のやろうとしていることが理解できた。
亞咬は、姫乃から迸る魔力に目を凝らす。
間違いない。
姫乃は、自らの魔力を組み換え、亞咬の血糸の魔力を中和しようとしている。
先ほど亞咬が姫乃に見せた魔力操作技術だ。
しかし、それはそんな簡単にできる芸当ではない。
長年の経験と途方もない鍛練の下、ようやく身に付く技術だ。
それを姫乃は、一度見ただけで実際に行っている。
娘の類い稀なるセンスに、流石の亞咬も目を見張るしかなかった。
だが、そこまでだった。
姫乃の全身から
遂には、今にも消え入りそうなほどの魔力しか感じられなくなり、姫乃自身の意識も朦朧とし始めていた。
今の姫乃の状態は、全身を激痛に苛まれながら、手では細かい作業をしつつ、全力疾走を続けているようなものである。
限界がくるのは、必然だった。
「ぐっ…………うっ…………ぁ………………」
「姫乃っ!!」
意識を失った姫乃は、糸が切れたように人形のようにその場に倒れそうになる。
暁は慌てて駆け寄り、その体を受け止めた。
「姫乃! しっかりしろ!! おい!!」
暁は必死に姫乃に呼び掛け続ける。
その姿を見ていた亞咬は、娘の言葉を頭の中で何度も
(意地と…………けじめ…………か)
亞咬は静かに目を伏せる。
そして、既に意識のない娘に向かって、一言告げた。
「約束だ…………今日限りで、お前には『魔王の配下』を辞めてもらう」
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