第189話 黒き夢

 暁はまた、光のない暗黒の中、目を覚ます。

 正確には暁の肉体は目覚めておらず、意識は夢の中だ。

 しかし、その意識ははっきりとしている。

 今自分が夢の中にいることすら認識できるほどに。

 この夢の中にいる時、暁は妙に落ち着いた気持ちになる。

 目覚めれば心的・肉体的に大変疲労したように感じるのに、不思議と夢の中にいる時だけはそれらを全く感じなかった。

 ただ、暗闇の中に一人佇んでいるだけの一時。

 今の暁には、起きている時の方が夢で、今自分が立っている暗黒の世界こそが現実なのではないかと思ってしまっていた。

 それだけ、この黒い夢の世界は暁の心に落ち着きと安らぎを与えていた。


(…………まるで『胡蝶の夢』だな……)


 夢の中で暁は独りごちる。

 ふと、暁はある違和感を感じ、暗闇を見渡す。

 今まで夢の中には、自分ただ一人だけだった。

 しかし、先ほど自分以外の誰かの気配を感じた。

 夢の中で、自分以外の誰かを認識するとは可笑しな話だが、確かに暁はそう感じたのだ。

 暁は目を凝らして、暗闇の中を探る。

 すると、ぼんやりとであるが、闇の中に人影の輪郭が浮き出ていることに気づく。

 何故、こんな光のない闇の中にいるのに、その影を見つけることができたのか不思議だが、見つけることができたのだから、探らないわけにはいかない。

 暁は、影の方にゆっくりと歩み寄る。

 暁が近づいてきても、影の方は何も反応しない。

 とうとう、暁は少し手を伸ばせば届くような位置まで影に近づいていた。


「あのー…………」


 暁は影に向かって、声をかける。

 しかし、影は背を向けたまま、何の反応も返さない。

 暁は頭を掻くと、改めて声をかける。


「ここは……恐らく僕の夢の中なんですけど……できれば名を名乗っていただきたい。自分の夢の中に見知らぬ者がいるというのは、どうも気味が悪いんでね」


 夢の中で他人に話かけることに、妙な滑稽さを感じつつも、暁は影に言葉をかける。

 すると、ようやく影の肩がピクリと反応を示す。

 影は、そのまま振り返ることなく、暁の方を横目で一瞥すると、薄く笑みを浮かべた。


「『見知らぬ者』……か…………。果たして本当にそうか?」


「へ?」


「知らぬ訳がない。お前が知ろうとしていないだけだ。忘れる訳がない。お前が忘れようとしているだけだ」


「…………何なんだアンタ?」


 暁は訝しげに眉根を寄せる。

 すると、突然影は両手を伸ばし、暁の両肩を掴む。

 影の顔が暁の鼻先につきそうなほどに近づく。

 突然のことに、暁は離れようとするが、何故か体に力が入らない。

 顔を近づけた影は、歪んだ笑みで暁の顔を見る。

 その笑みを見た瞬間、暁の心臓は早鐘のようにけたたましく鳴り出した。


「安心しろ! 俺が思い出させてやる!! 邪魔するヤツは俺が始末してやる!! !! お前は誰にも渡さない!! お前は…………お前は…………!!」


「やっ…………止め…………!!」


 影は笑みを浮かべたまま、暁の体を激しく揺さぶり、叫ぶ。

 暗闇の中、動けなくなった暁は、ただ影のされるがまま、体を揺さぶられる。

 何もできず、言い知れぬ恐怖に襲われながら、影の笑い声が暁の頭を何度も突き刺さった。



 ※



 気づけば、暁はベッドを飛び出し、ドアを跳ね開け、廊下に飛び出していた。

 額からは、大量の汗が滝のように流れる。

 まるで、長距離を走った後のマラソン選手のように、心臓も忙しなく鼓動を刻んでいる。

 足にも、腕にも、うまく力が入らない。

 それでも、暁は暗い廊下を、壁を伝いながら歩み出す。

 何度もよろめきながら、何度も倒れそうになりながら。

 それでも、暁は歩みを止めなかった。

 歩みを止めてしまっては、に追いつかれる。

 そのとは誰のことなのか、暁にも分からなかった。

 しかし、何かに追いやられている焦燥感と、言い様のない恐怖感が、暁の歩みを止めさせなかった。


「いか……なく…………ちゃ…………行か………………な…………く……ちゃ…………」


 うなされるようにぶつぶつと呟きながら、暁は廊下を進む。

 暁の足が進む先は、ただ一つ。

 自分の運命の狂った場所。

 全てを失った場所。

 父の―――――魔王の執務室。


「ぐっ…………!!」


 しばらく進むと、例の頭痛と吐き気が暁を襲う。

 思わず、痛みにその場にうずくまりそうになるが、何とか堪えつつ先に進む。

 普段の暁ならば、ここで断念していただろう。

 しかし、今の暁は、に駆り立てられた今の暁は歩みを止めない。

 いや、止めることができなかった。

 暁の中で『止まりたい』と思う気持ちと、『進まなくては』という気持ちが激しくぶつかり合うが、今回は後者の方が勝っていた。


「う゛っ…………がはっ! お゛お゛え゛え゛ぇ゛ぇ゛ぇ゛ぇ゛ぇ゛っ!!」


 暁の口から、堪えきれなかった胃の内容物が溢れ出る。

 流石に暁の足も止まり、その場に両手をついて顔を伏せた。

 しばらく、暗い廊下に暁の苦しそうな呻き声がこだまする。

 もう、出そうにも出すものがない。

 ただ透明な胃液が出るまで吐き続けた暁だったが、吐くのがある程度治まると、再び歩みを始める。

 口元を吐瀉物としゃぶつまみれにしながらも、暁は止まらない。

 割れそうなほどの痛みを頭に感じつつも、歯を食い縛り、暁は歩み続ける。

 真夜中の廊下の闇を、ただ一人、歩み続けた。

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