第190話 魔王の目覚め

 霞む視界の中、暁は執務室の扉の前にたどり着いた。

 暁の寝室からこの執務室まで、そう距離は離れていない。

 しかし、今の暁にとっては、険しく果てしない道のりだった。

 暁は震える指先をドアノブにかけると、残った力を振り絞って、それを捻る。

 既に頭痛は限界を超え、普通ならば痛みで卒倒していてもおかしくないレベルに達している。

 胃の中のモノも、全て出し尽くしてしまった。

 満身創痍。

 暁の状態は、正しくそれだった。

 しかし、そんなボロボロの状態の暁の力でも、執務室は容易くその扉を開く。

 鍵はかかっていない。

 むしろ、待ちわびていたかのように、扉はその口を広げた。


「あ…………」


 フラフラと部屋に入った暁の目に、真夜中の執務室が映る。

 部屋の中は、意外にも綺麗に掃除されていた。

 部屋の主である大きな文机も、月の光を映すほど綺麗に磨かれ、数々の書類も本棚にきちんと整理され、収められている。

 とても惨劇の現場とは思えないほど、整理が行き届いた部屋だった。


「はぁっ……はぁっ……はぁっ……!」


 酷い頭痛と、吐き気。

 それに加えて、痛いほど速まっていく動悸。

 今自分が立っているのか、座っているのか、どっちが上でどっちが下か、判然としない意識のまま、暁は部屋の中に足を踏み入れる。


「はっ……うわぁっ!?」


 踏み出した足がもつれ合い、暁はカーペットに顔面から前のめりで倒れた。

 顔面を強く打ち、視界を飛び交う閃光を頭を振って払いながら、両手をついて何とか体を起こす。

 ふと、顔を撫でた手のひらを見て、暁の双眸そうぼうが大きく開かれる。

 乏しく頼りない月の光だけでもはっきり分かるほど深く、濃い赤い液体。

 手のひらをべっとりと染め上げるその赤は、紛れもなく人の体を流れる生命の奔流――――――血だった。


「なん……だ……これ…………はっ!?」


 血塗れの手のひらから、さらに視線を落とした暁は思わず後退りをする。

 さっきまであんなに綺麗に掃除されていた床が、手のひら同様真っ赤に染まっているではないか。

 気づけば、腕、足、胸元から腹部に至るまで、暁の全身は血で赤に染まっていた。


「思い出したか?」


「!!?」


 冷や水のような冷たい声に、暁の全身が強ばり固まる。

 気配を感じる。

 確実に、背後にがいる。

 振り向くことも、声も出すこともできない暁は、ただただ背中での存在を感じ取っていた。


「綺麗だろ? 同じだ…………あの時のお前も、こんな綺麗な赤に染まっていた…………」


「かっ…………はっ…………!?」


の邪魔をしたコイツらもな。酷く醜い奴らだったが…………この時は多少マシに見えたぜ」


「えっ…………?」


「な? お前もそう思うだろう?」


 再び視線を下に落とした暁は、自分の足に絡まるものの存在に気づく。

 血の海の中に沈む、二つの体。

 そこから伸びる腕が、戒めの鎖のように暁の足に絡まっていた。

 倒れた二つの体を見た瞬間、暁はポツリと言葉を溢した。


「とう……さん………………かあ…………さん………………」


 呟きと同時に、暁の頭の中にいくつもの映像が次々と流れていく。

 飛び散る鮮血と、苦しみの表情を浮かべる、父。

 その父を身を挺して庇い、呆気なく血の海に倒れる母。

 そして…………それを見て薄ら笑いを浮かべる――――『黒い目』。


「うわああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」


 叫び声を上げた暁は、背後に振り返ると共に、固く握った拳を振るう。

 すると、背後にいたの気配は消え失せ、代わりに白いナイロン生地の手袋がその拳を受け止めた。


「あ………………?」


「随分と早いお目覚めですね?」


 拳を受け止めたムクロは、何のこともないように暁の顔を見る。

 明らかに正気ではない暁の顔を見て、ムクロはその背中を擦った。


「あ…………ぼ……ぼく…………は…………」


「ええ、大丈夫です。安心してください」


 ムクロの優しい言葉を聞いた途端、暁の全身から力が抜けていく。

 人形のように倒れそうになった暁を、ムクロは両手で支えた。


「どこか痛むところはありませんか?」


「…………ムクロさん」


「はい?」


「一つだけ…………思い出した」


「………………何を……ですか?」


「…………『黒い目』…………それが僕から両親と…………記憶を奪った犯人だ」


「『黒い目』…………ですか」


「ムクロさん頼みがある」


 暁は、自分を支えるムクロの腕を強く握り締める。

 その指先は激しく震えていた。

 恐怖ではない。

 その指先から感じられたのは、自分から全てのものを奪った者に対する怒りだった。


「貴方が知っている限りのことでいい。僕の……『逢真 暁』のことについて教えてくれ」


「暁様…………」


「まずは…………『逢真 暁』を取り戻す。そして…………」


 暁は唇を噛み締める。

 あまりに強く噛み締めたために、血が一筋、唇から流れた。


「『黒い目』のヤツを見つけ出す。必ず……必ずだ…………!」


 冷たく、激しい怒りの形相で、暁は静かに呟く。

 暁の記憶は未だに真っ黒に塗り潰されたままだ。

 しかし、その頭の中では、はっきりと『黒い目』に対する怒りと憎しみの炎が燃え上がっていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る