第176話 私にできるなら……

「僕は今……『催淫』されているんだっ……!」


「さい……いん……?」


 聞き返す姫乃に、暁は頷く。

 今に至る前、暁は夢魔である澪夢といっしょにいた。

 いただけではない。

 体を密着させ、口づけまで交わしていた。

 その時、気持ちが今までにないほど高ぶった澪夢は、無意識のうちに暁に『魔眼』を使ってしまっていた。

 夢魔は別名『淫魔サキュバス』とも呼ばれている。

 夢魔が異性を誘い、性的興奮を喚起させることに長けたデモニアであることからそう呼ばれている。

 元来、夢魔は異性に性的な夢を見せ眠らせているうちに生気を吸収し、自らの魔力へと変換する。

 『魔眼』もそのための能力の一つなのだ。


「凛々沢くんの『魔眼』で、僕自身抑えが効かなくなってきてる……今も必死に抑えてはいるが、いつまた君に襲いかかるかわからないんだ……!」


「そんな…………なんで…………はっ……!」


 姫乃はその先に続く言葉を飲み込む。

 初め、姫乃は不思議に思った。

 訓練を積んでいる暁なら、催眠などそういった類いのものに対する耐性が備わっているはずである。

 なのに、何故澪夢の『魔眼』をまともに受けてしまっているのか。

 不思議に思ったが、すぐにその答えに姫乃は行きつく。

 確かに、普段の暁ならば、澪夢の『魔眼』も跳ね除けることができただろう。

 そう、ならば。


(そうか……今の暁は万全の状態じゃない……!)


 この海への小旅行のために、暁は過密なデスクワークをこなしてきて疲労困憊だった。

 それに加えて、昼間は苦手な水泳まで練習したのである。

 暁の体調は、お世辞にも万全な状態とは言い難かった。

 『魔眼』などの精神的な術に対する耐性は、対象の体調もかなり関係してくる。

 弱り切っていた暁は、澪夢の『魔眼』に抗うことができなかったのだ。


「だから……頼む! 僕が……抑えが効かなくなる前に…………そうなる前に……! 僕を血糸で縛り上げてくれ!! ぐっ……!」


「暁っ!!」


 苦しそうに背中を丸める暁に、姫乃は思わず寄り添おうとする。

 しかし、それは暁の震える手によって制された。


「さっき……君の涙を見て…………僕は辛うじて我に帰ることができた…………」


「暁…………」


「僕は…………もう君の涙を見たくないんだ…………傷つけたくないんだ…………だから…………ぐぅっ……がぁっ!!」


 暁は頭を地面に擦りつけて、呻きながら突っ伏す。

 体の震えも、さっきより激しい。

 今の暁には、自分を抑えることが拷問のような苦痛に等しかった。

 常人ならば、既に精神を崩壊させていてもおかしくないほどの苦痛。

 一度潰れかけたとはいえ、再び理性を取り戻し、それを抑えているのは、暁の超人的な精神力の成せる技か。

 しかし、その超人的な理性も最早限界が近かった。

 姫乃も、苦しむ暁の姿から限界が近いことを察し、決心を固める。

 もう、迷ってはいない。

 姫乃はソッと暁の傍に寄る。

 暁も、姫乃が決心してくれたと安心し、力なく笑みを浮かべて、血のついた親指を再び差し出した。


「暁……今、楽にしてやるからな…………」


 暁の瞳が、大きく開かれる。

 姫乃は、血のついた親指には目もくれず、背中に手を回し、暁を優しく抱き締めていた。


「なっ…………! 何してるんだ早く離れっ…………姫乃っ!!」


 暁は残った理性をフル稼働させ、姫乃から離れようとする。

 しかし、姫乃は背中に回した腕に力を込めて、さらに体を密着させた。


「いいよ……暁……もう……我慢しなくて……私なら……大丈夫だから…………」


「馬鹿っ!! 聞いてなかったのかっ!? 僕は君を傷つけたくは…………!」


「暁だったらっ……!」


「えっ…………?」


「暁にだったら…………私は…………だから……」


「姫……乃…………」


「…………暁……」


 暁の耳元を、姫乃の温かい吐息が撫でる。

 全身で感じる、女性でしか有り得ない官能的な柔らかさ。

 鼻腔をくすぐる、甘美な香り。

 誘うような色香を醸し出す紅潮した顔。

 そして、自分だけに向ける、自分の全てを受け止めんとする愛に満ちた潤んだ眼差し。

 その全てが、暁の最後に残っていた理性を弾き飛ばした。


「姫乃っ……!」


「んむっ…………!」


 再び、二人は唇を重ねる。

 今度は姫乃も抗いはしない。

 むしろ、自ら暁を迎えにいくように、口づけを深くしていく。

 暁のために自分が今できること、暁の全てを受け止めること。

 その決意に後押しされ、姫乃の中で長年燻り続けていた想いが一気に溢れ出す。

 抑えが効かなくなったのは、姫乃も同じだった。


「姫乃……姫乃……!」


「暁……暁ぃ…………!」


 唇を離した暁の指が、手が、唇が姫乃の全身に触れる。

 その度に、姫乃の体は喜び震え、言い様のない幸福感に包まれていく。

 例え、正常な状態ではないとしても、偽りだとしても、今この瞬間、自分は愛する人に求められている。

 その幸せに、姫乃は抗うことができなかった。


「あ……ん……はぁ……あ…………!」


 胸元に顔を埋めた暁の荒い息遣いと、柔肌に吸いついてくる唇の感触を感じ、姫乃の背筋に電流が走る。

 時折、痕をつけるかのように強く吸われ、姫乃の体は小刻みに震えた。

 甘い刺激の波に晒されながら、それでも姫乃の指先は、暁の背中を掻き抱き、離さない。


「あっ!? そっ……そこはぁ…………!」


 突然の大きすぎる快感に、姫乃は目を見開いて、体を大きく仰け反らせる。

 白い肌を味わっていた暁の唇が、姫乃の胸にある薄桃色の突起に吸いついたからだ。


「んむっ……んんん!」


 咄嗟に、姫乃は指を噛んで、喘ぎ声を押し殺す。

 覚悟を決めたといっても、まだあられもない声を聞かせるのは、姫乃も流石に恥ずかしさが残っていた。

 それも構わず、暁はさらに強く吸いついてくる。


「ひゃあァんっ!!?」


 強く吸われた瞬間、姫乃は白い喉を晒して海老ぞりになりながら、大きく体を震わせる。

 あまりの震えに、暁も驚いたのか、唇を放し姫乃の体から顔を上げた。

 顔を上げた暁は、改めて押し倒した姫乃の姿を見る。

 上着は大きくはだけ、ピンク色のブラも首元にからげられ、豊満で魅惑的な双丘が荒い呼吸と共に上下に揺れる。

 下半身に目を移せば、ホットパンツのフロントファスナーも開け放たれ、ブラと同色のショーツが顔を覗かせている。

 自分を見つめる瞳は、今にも涙が溢れそうなほど潤み、上気した頬と口角から垂れた一筋の涎の跡と合わさって、暁のさらなる劣情を誘った。


「はぁ……はぁ……」


 姫乃は息も絶え絶えな状態で、自分を見下ろし固まった暁を見る。

 未だに苦しげな暁の顔を見て、姫乃は気丈に微笑むと、両腕を広げた。


「ごめん……ちょっと……びっくりして……」


「あ…………」


「もう……大丈夫…………だから……」


「姫…………乃…………」


「きて…………?」


「っっつ!!?」


 暁は目を大きく開く。

 最早、暁の理性は限界を当に超えてしまっていた。


「あああああああああああああ!!!!」


 暁は雄叫びを上げると、姫乃にさらに覆い被さっていく…………わけではなく、近くの岩肌に両手をつくと、自分の頭をその岩肌にぶつけ始めた。


「えっ……あっ……暁!?」


「がああああっ!! ああああああっ!!」


 驚いた姫乃も、体を起こす。

 その目の前で、暁は何度も何度も、硬い岩に頭を打ちつけた。


「暁! 止めろ暁!! 何やってんだ!!」


 姫乃は慌てて暁を岩肌から引き剥がす。

 暁の額には、うっすらと血が滲み、赤い筋が、いくつも流れていた。


「暁……お前…………」


「…………姫……ちゃん」


「えっ……!?」


「ご…………め……ん……」


「ちょっ…………暁!? 暁!!」


 暁は、最後の力を振り絞って姫乃に謝ると、糸が切れた人形のようにぐったりと倒れる。

 一人残された姫乃は、呆然と倒れた暁を見つめた。

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