第169話 暗中
「なんでいつもそんな離れたところにいるの?」
丸く大きな目を何度も瞬かせながら、心底不思議そうに少年は少女に問いかけた。
少年の手にしている携帯ゲーム機からは、軽快なビープ音が流れる中、少女は無表情で答えた。
「私の役目は、貴方を護衛することです。そのためには、この場所が最適なんです」
およそ自分と同じ四歳児とは思えない、
ともすれば冷淡ともとれるような口振りは、少年と距離を置かんがためにあえてそうしていた。
幼心にそれを感じ取っていた少年は、少女のそんな振る舞いが大層不満であった。
少年と少女は赤子の頃から互いを知る、いわば幼なじみの関係である。
物心つく前から身近にいる間柄であるのに、未だに一定の距離をとる幼なじみの少女を、少年は不満げに見つめた。
「なんですか?」
「べっつにぃ~」
あくまでも無表情を崩さない少女から視線を逸らし、少年はソファーから立ち上がる。
自分をジッと見つめる少女の横を通り抜け、少年は部屋を後にしようとした。
「どちらに?」
「おしっこ」
「お供します」
「いいよ来なくて。落ち着いてできないだろ」
「そういうわけにはいきません。私は、貴方を守らなくてはいけないので…………」
「隙ありっ!」
突然、少女の視界が紺色の布で覆われる。
その布が、自分のスカートの生地と同一であることに、少女はすぐ気づいた。
だが、何故自分の目の前にそんなものが広がっているのか。
その理由と原因に気づいたのは、捲れ上がったスカートが下り、その先にある少年のニヤケた顔を見てからだった。
「好きなのネコ? この前もネコ柄だったよね?」
「なっ…………!?!?」
少女は顔を赤くして、スカートを押さえる。
ようやく無表情を崩した少女を見て、少年は嬉しそうな笑みを浮かべた。
「貴様っ……! このっ……不埒者ぉぉぉ!!」
「うわっ危なっ!! ちょっと落ち着いてよ!! ただのスキンシップだよスキンシップ!!」
「いいや! 今日という今日は我慢ならん!! 今ここで成敗してやるっ!!」
近くにあった脚長の電気スタンドを振り回し、少女は少年を追いかける。
少年は
こんな二人のやり取りは、この先もずっと続いていくこととなる。
その中で、少女の少年に対する態度は徐々に軟化していった。
良くも悪くもであるが。
※
姫乃は泣き腫らした目を擦り、一本の木に寄りかかる。
こんなに感情を露にして泣いたのは、いつぶりだろうか。
いや、もしかしたら生まれて初めてかもしれない。
幼い頃を思い返してみれば、そんなに泣き喚くことを許されていなかったと姫乃は思い至る。
しかし、それ以上に驚いたのは、自分がここまで情動を揺さぶられたことだった。
ある程度のことは予想していたが、さっきまでの自分は、それを遥かに上回るものだった。
それだけ、暁の存在が自分の中で大きなものであることを、姫乃は改めて思い知らされていた。
(どんな顔をして戻ったらいいんだ…………)
普段の自分は皆の前でどんな風に振る舞っていただろうか。
ある程度冷静さを取り戻した今でも、それが思い出せない。
それだけ酷い取り乱しようであったと我ながら思う。
(今戻っても……暁の顔をまともに見れるだろうか?)
姫乃は、恐れていた。
暁に会えば、また冷静さを失い、さっきのように取り乱すのではないか。
それを見た暁が、自分をどう思うのか。
それを考えただけで、肩が戦慄く。
姫乃は震える肩を止めようと、寄りかかった木に肩を押しつけた。
「ん……?」
ふと、木に触れた肩から異質な感触を感じる。
木の皮独特のざらついた感触とは違う、妙な引っ掛かりを姫乃は肌で感じた。
疑問に思いながら、姫乃は自分の寄りかかっていた木を見る。
樹皮を裂き、樹木の中心に達さんばかりに深く刻まれた傷。
明らかに自然に生まれた裂け目ではなく、かといって人為的なものでもない。
姫乃はこの樹木を裂く傷痕に見覚えがあった。
確か、何かの本で似たような写真を見た気がする。
ある冒険家の実話を元にした伝記物で、冬の山を探検している時に大型の熊に出会った話だったはずだ。
「マー…………キング?」
呟き傷をなぞる姫乃の背後から、鋭い殺気が背中を引っ掻く。
殺気を感じた姫乃は、咄嗟に横に跳び、その殺気から逃れる。
着地し体勢を立て直した姫乃が見たのは、自分の寄りかかっていた太い樹木が、砂糖菓子のように粉々に砕け散る様だった。
「なんだっ!? お前は!?」
姫乃は樹木を容易く砕き、獰猛な呼吸を繰り返す巨大な『影』に向かって叫ぶ。
『影』は樹木よりも太い腕を唸らせ、何度も地面を叩き、姫乃に向かって威嚇する。
叩かれた地面は樹木同様砕かれ、幾つもの亀裂を刻んでいた。
「話は通じないかっ…………」
姫乃はポケットから血の入ったアンプルを取り出すと、一気に飲み干す。
瞳を真紅に染め、姫乃もまた臨戦態勢に入った。
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