第168話 見たくない

 眠る草木を掻き分け、一つ影が茂みから飛び出す。

 目の前を横切った自分の膝下より遥かに小さい影に、姫乃は息を飲んで立ち止まる。

 飛び出して来たのは、一匹の野うさぎであった。

 郊外からさらに離れたこの海沿いの森には、今でも豊かな自然が息づいている。

 野うさぎの一匹や二匹、生息していてもおかしくない。

 そもそも、姫乃は何度もこの森を訪れているので、数多くの野生動物が生息しているのは既知のことである。

 しかしホラー映画を鑑賞した後の姫乃には、小動物の他意なき行動ですら恐怖の対象であった。

 姫乃と目のあった野うさぎは、長い耳を少し震わせると、何事もなかったかのようにまた茂みの中に消えていった。

 固まったままそれを見送った姫乃は、止まっていた呼吸をようやく再開する。

 背筋を伸ばし、肩を張った状態で固まっていたため、息を吐き出し、全身の力を抜かすその姿は、さながら張り詰めた風船が萎むようであった。

 森に一人で入って数分経つが、足の震えは一向に止まる気配がない。

 目の前に広がる暗闇も、平常時の姫乃ならばなんてことはない光景である。

 しかし、今の姫乃にはその暗闇の奥から、映画で見た不気味な女が飛び出しきそうで恐ろしかった。

 出来ることなら、見たくない。

 しかし、だからといって目を閉じれば、脳裏に焼きついた映画のワンシーンがフラッシュバックのように甦ってきて、姫乃の恐怖心をさらに増長させてしまう。

 今の姫乃に出来ることは、自分の中の恐怖心と戦いながら、一刻も早く与えられた指命を果たすことだけだった。


「アレは創作物だ……実在しない架空の出来事だ……だから大丈夫……大丈夫……」


 自己暗示をするかのように、姫乃はブツブツ呟きながら、震える足に鞭打ち森の中を進む。

 出来るだけ前の暗闇を見ず、自分の足元を見ながら進んでいると、暗く不明瞭だった視界が徐々に明るくなってきていることに気づく。

 ふと姫乃が空を見上げると、いつの間にか雲が晴れ、満点の星々と煌々と輝く月に飾られた夏空がはっきりと見えるようになっていた。

 木々の間から、穏やかな月の光に照らされ、姫乃は少しばかり恐怖が和らいだように感じられた。

 これなら何とか役目を果たせそうだと姫乃が安堵し、視線を前に戻すと、またも姫乃の体は膠着した。

 今度は、恐怖心でではない。

 姫乃の体を膠着させたのは、映画で見たお化けよりも見たくない光景だった。

 栄子の言うとおり、姫乃が歩いて来た道はキャンディが置いてある石碑までかなりショートカット出来るようである。

 だから、後から追いかけた姫乃も、先を行くに追いつくことが出来た。

 この、姫乃からしたら最悪のタイミングで。

 姫乃の足の震えが止まる。

 手にしていた紙袋が、指先を滑り地面に落下する。

 荒くなる呼吸と、痛いくらいに鳴る胸の鼓動を止めようと、姫乃は両手で胸を抑えつけた。

 視線の先にいるのは、先を行っていた暁と澪夢の二人で間違いない。

 月の光が、こうも明るく照らされなければ、ここまではっきりと見えることはなかっただろう。

 しかし、煌々と輝く月の光は、姫乃の瞳に重なる二人の姿を鮮明に映し出していた。

 姿だけではない。

 確かに重なる二人の唇も、姫乃の瞳ははっきりと捉えていた。

 姫乃の唇が、言葉を紡ごうと僅かに動く。

 しかし、乾いた喉から音が発せられることはなく、ただ唇が震えただけだった。


「っ………………!!」


 姫乃は震える唇を噛むと、口づけを交わす二人から視線を逸らす。

 そして、一刻も早く二人から遠ざかるように、森の中に駆け出した。

 生い茂った枝葉が、姫乃の剥き出しの腕や足を引っ掻き叩く。

 しかし、姫乃はそんなことに構いもせず、森の中を走った。

 何かを振り払うように、何も考えないように、姫乃は全力で走った。



 ※



 しばらく無我夢中で走っていた姫乃は、ふと違和感を感じ立ち止まる。

 荒く息を吐きながら、姫乃は違和感を感じた頬に触れる。


「あ…………」


 指先に触れたのは、一滴の雫。

 気づけば、一滴だけではない。

 幾つもの雫が、自分の頬を撫でていることに、姫乃は気づいた。

 気づくと同時に、先程見た光景が姫乃の頭の中で甦る。

 思い出したくないのに、もう見たくないのに、姫乃の頭は主の意思に反して鮮明にその時の光景を突きつけてきた。

 鼻の奥が、ツンッと痛い。

 胸の奥も、今まで以上に悲鳴を上げている。


「ヒッ…………ァ……グゥッ…………」


 堪えきれず、嗚咽が漏れる。

 一つ漏れれば、後は決壊するだけだった。

 抑えきれない涙と感情が、一気に姫乃を飲み込んでいく。

 姫乃は抗う力も湧かず、その奔流に流されるまま、飲み込まれていくしかなかった。


「暁…………暁ぃ…………」


 よろめくように、覚束ない足取りで、姫乃は一人森の奥へと歩み出す。

 行き先は、姫乃にも分からない。

 今の自分の行き場のない思いと同様である。

 しかし、立ち止まっていれば、その思いと悲しみに押し潰されてしまう。

 ハラハラと涙を流す姫乃は、あてもなく、悲しみから逃れるように、暗い森の中へと消えていった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る