第103話 逃亡

 暁は割れた窓からつんのめりながら、体を乗り出す。

 すぐに階下の様子を見るが、そこにカイルの姿はなく、突然降り注いだガラス片に驚く往来の人々の姿があるだけだった。


「暁! 上だ!!」


 姫乃の叫び声に、暁は顔を上げる。

 暁の視線の先、ポツポツと星が瞬き出した空に、カイルの姿があった。

 手にしていたマレットを跨ぎ、上空へとグングンと昇っていく。

 その姿は紛れもなく夜空を飛ぶ『魔女』そのものだ。

 違いがあるとするなら、彼女が箒に跨がっていないという点だけだった。


「メル!」


「わかってるっ!」


 暁はすかさずメルの名を呼ぶ。

 メルもそのことがわかっていたのか、暁が名を呼ぶより速く、放たれた矢のように窓から飛び出し、漆黒の翼を広げた。


「待てって! 今外に出たら危ねぇっての!!」


 メルはカイルを追って空を駆ける。

 竜人ドラゴニュートであるメルの飛行速度はその気になれば音速に近い速さまで出すことが出来る。

 ちょっと本気を出しただけであっという間に、カイルに追いついてしまった。


「おい!」


「っ…………! 追って来ないでっ…………!!」


 カイルは苦々しい顔をすると、リュックサックのポケットから何かを取り出す。

 カイルが手にしていたのは、赤紫色をした少し大きめのベルだった。

 カイルは、手にしたベルを軽く揺らして音を鳴らす。

 風切り音が激しい中、不思議なことにその小さなベルの高く澄んだ音は、メルの耳にはっきりと届いていた。

 そして、その音がメルの鼓膜を振動させた瞬間だった。


「えっ…………!?」


 メルは急ブレーキをかけて宙に止まる。

 先ほどまで目の前にいたはずのカイルの姿が、影も形もなくなっている。

 一時も目を離さなかったはずなのに、突然カイルの姿を見失ったメルは、慌て辺りを見回した。

 しかし、やはりカイルの姿は見当たらない。

 どこかに身を隠したのかとも思ったが、ここは遮蔽物のない空の上だ。

 どこにも身を隠す場所などない。

 そもそも、身を隠したとしても、魔力の気配を辿ればすぐに察知出来るはずだ。

 だが、何故か魔力の痕跡すら掴めない。

 デモニアの中には魔力を隠す術を身につけている者も確かにいるが、いくら何でも目の前にいた者の魔力を見失うはずがない。

 思い当たることといえば、カイルが直前に取り出したあのベルだ。

 あれも『魔女工芸品』の一つで、カイルの姿を見失ったのもその力に違いない。


「くそっ…………『魔女』ってのはなんて厄介なんだ…………!」


 星の光と共に輝き出した街の光を見下ろしながら、メルは悪態をついた。



 ※



 ポツポツと輝き出した街の光を、白コートの男が二重ガラス越しに見下ろす。

 男がいるのは、第七区の丁度中心に位置するタワーの展望エリアだった。

 人々はこのタワーを『セブンス・タワー』と呼び、第七区を代表する観光名所としていた。

 現に今も、男の周囲には観光目的の人々がおり、輝き始めた街の景色を楽しんでいた。


「ここにいましたか」


 男の背後に、昼間暁と話をしていた眼鏡の男――――マルキダエルが現れる。


「貴方が観光好きとは意外ですね。レナス」


「…………笑えない冗談だな」


 レナスと呼ばれた男は、クマで重く沈んだ瞳を外に向けたままポツリと言葉をこぼす。

 マルキダエルはレナスの横に立つと同じように街を見下ろした。


「『聖母マザー』からは?」


「まだ何も。今のところは貴方と並んで景色を楽しむしかないですね」


「こんな腐った景色をか?」


「おや、いつも以上に辛辣ですね」


 嫌な笑みを浮かべて視線を向けるマルキダエルに、レナスは「当たり前だ」と呟いた。


「この光の中に、化け物どもがうじゃうじゃいると考えるだけで虫酸が走る。そもそも、こんな不浄の街にいること自体、俺には堪えられん」


 死んだ目つきで、レナスは苛立つように奥歯を噛む。

 そんなレナスを、マルキダエルは宥めるように肩を叩いた。


「まぁ、これも世界浄化のためです。我々はそのために生き、そのために死ぬ存在。浄化のためならば、不浄に身を置くこともまた使命ですよレナス」


「今更言われなくてもわかっている。それと、何故本名で呼ぶ。ちゃんと洗礼名コードネームで呼べ」


「いやぁ、だって似合わないんですもん。それに『ズリエル』ってカッコ悪くないですか?」


「…………」


 そんなやり取りをしていた二人だったが、突然マルキダエルが動きを止める。

 その様子に気づいたレナスも、ようやくマルキダエルの方に視線を向けた。

 マルキダエルは懐から携帯を取り出すと、それを静かに耳に当てる。


「はい…………そうですか…………わかりました」


 マルキダエルはそうごくわずかなやり取りだけを済ませると、携帯を閉じる。

 そして、すぐにレナスの方に視線を戻した。


「『聖母』からです。ようやく動きがあったようですよ」


「ようやくか…………しかし、思ったより早かったな。だが?」


「抜け出したのでしょう。我々の存在を知ったのか、もしくはがまた起こることを恐れたか…………どちらにしても好都合でしょう?」


「ああ…………」


 レナスはそう呟くと、ゆっくりと前に歩み出る。

 そして、銀色の鉄甲が着いた右足を膝が胸につくくらいまで高く上げた。


「位置情報は端末に送信されてます。後で確認しておいてください」


「わかった。俺は先に行く」


「はい。私も後で向かいます」


 マルキダエルはそう言葉を残すと、レナスに背を向ける。

 レナスはそれを合図とばかりに、高く上げた右足で宙に円を描く。

 流麗、かつ刹那の動きに、周りの人々の目には、レナスがずっと右足を上げたままの状態で片足立ちしているようにしか見えなかった。

 しかし、レナスが上げていた右足を下ろし床を踏むと、目の前のガラス窓にうっすらと円形の傷が浮かび上がる。

 レナスはその円を爪先で軽く押す。

 すると、厚さ十ミリの二重ガラスは職人が全神経を研ぎ澄まして仕上げたかのような切り口で綺麗にくり貫かれてしまった。

 そこで、ようやく周りの人々からどよめきが起こり始める。

 レナスはそんなどよめきを気にすることなく、円形にくり貫いた穴から、煌めき色づく夜の第七区の街へと飛び降りた。

 飛び降りる瞬間、周囲の人々のどよめきが、息の飲む悲鳴へと変わる。

 それと同時に人々は目撃していた。

 飛び降りる瞬間、嬉々とした笑みを浮かべるレナスの顔を。

 その瞳に宿る漆黒の光を。

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