第91話 儀式の準備

 狼森の本家屋敷の裏手には、神呼かみこやまという里で一番標高の高い山がある。

 まるで里を見守るかのようにそびえるその山には、狼森の守り神である『天月夜大神あまのつくよおおかみ』が祀られている。

 『天月夜大神』とは、元は狼森一族の祖先と言われる人狼であり、強大な魔力を持っていたが故に死後神となったと言い伝えられている。

 『天月夜大神』に限らず強大な魔力を持ったデモニアは、死後もこの世に魔力を残し、影響を及ぼす場合がある。

 それらが神格化され、神として崇め祀られることは珍しくない。

 現代に伝承されている神には、そういった類いのものも存在している。

 この山は、そんな神を祀る霊峰の一つであるのだ。

 そして、それと同時に、ここはあの忌まわしい邪法である『災禍さいかの呪法』が行われた場所でもある。

 山の頂上に建てられた石造の祠に、一人暁は立っていた。

 その場所こそが数百年前に『災禍の呪法』が実際に執り行われた場所である。

 そこに、何故暁がいるのか。

 それは、この場所で、今夜『封身の儀』を行うからに他ならない。

 元々この祠も『天月夜大神』を祀るために建てられたものだ。

 そのため、この場所は大気の中にある霊的な力や魔力が自然と集まる場所になっている。

 だからこそ、数百年前にここで『災禍の呪法』が行われたのだ。

 『災禍の呪法』は七人の人間とデモニアを生け贄に『天月夜大神』のーーーー神の魔力である『神魔力』を増幅し、その身に宿す術だった。

 しかし、血の呪法により神魔力は汚され、その魔力を宿した者をも蝕んだ。

 それが『禍津大神』だ。

 つまり、『禍津大神』は『天月夜大神』の魔力を分けた分身…………否、『分神』でもあるのだ。

 そのため、『禍津大神』の魔力を浄化するには、その元となった『天月夜大神』の神魔力を借りるしかない。

 その前準備のために、暁は一足先にやって来ていた。

 暁は祠の中にいくつか盛り塩をし終えると、持っていた袋から御神酒の入った一升瓶を取り出し、周囲に撒き始める。

 神前ということもあり、暁の様子もいつもと違う。

 和紙のように真っ白な袴を身につけ、真剣な面持ちで準備を行っていた。

 ふと、準備を進めていた暁は、その手を止めて祠の天井を見上げる。

 天井には大きな穴が開けられており、そこから雲一つない満天の夜空が見える。

 そして、夜空の中心には、穴から祠の中を見下ろすように円やかな満月が、神秘的な光を放っていた。


「いい満月だ…………儀式にはうってつけの夜だな」


 『封身の儀』を行うためには、満月の夜でなくてはいけない。

 狼森一族は、月の満ち欠けによって魔力が増減する。

 特に満月の夜はその力が最大に達する。

 神無も、その例外ではない。

 そして、その時こそが『禍津大神』の力が最も顕在化する時でもあるのだ。

 『封身の儀』はその時を狙って行われる。

 だから、暁も睦も妨害される恐れがあったとしても、儀式を強行したのだ。


(何事もなければいいが…………)


「お待たせ、暁ちゃん!」


「ん」


 暁は見上げていた視線を、自分の背後に向ける。

 そこに立っていたのは、暁と同じようにまっさらな白色の襦袢じゅばんを身につけた神無だった。

 白い襦袢の下には何も身につけていないのか、うっすらと小麦色の肌が見える。

 また、丈が短いために神無の健康的な美脚が惜し気もなく披露されている。

 儀式のための格好とはいえ、何とも扇情的だ。

 そんな神無の格好に、暁は嬉しそうに鼻の下を伸ばす。


(いやぁ~不謹慎かもしれないが、いつもながらええ格好じゃ~。 風呂では突然のことに動揺してちゃんと見れなかったからなぁ…………。 アレは惜しいことをした)


 神無の扇情的な姿に、先ほどの風呂場での出来事を思い出し悔やんでいると、神無の背後から睦が顔を出す。

 儀式の準備で手が離せない暁の変わりに、ここまで神無を連れて来てくれたのだ。


「ご苦労様、睦さん」


「ん」


 暁が睦に労いの言葉をかけると、睦は神無にわからないようにそっと暁に耳打ちをする。


「ここに来るまでに怪しい気配はなかった。 俺は入り口で待機しているから、何かあったらすぐに呼べ」


「わかった。 ありがとう睦さん」


 暁が感謝の言葉を述べると、睦は何かを託すように暁の肩を叩いて、祠を後にする。

 神聖な祠の中には、暁と神無の二人だけが残った。


「それじゃあ、神無始めるよ。 位置について」


 暁に促され、神無は祠の中心にある祭壇に仰向けで寝転ぶ。

 神無の金色の瞳に、満月の金色が重なり映る。


「暁ちゃん…………」


「あぁ」


 神無は不安そうな目で暁を見る。

 さっきまでは明るく振る舞っていたが、やはり神無自身も不安で仕方ないのだ。

 そんな時、暁は儀式の前に必ず神無の手を握ってやるようにしている。

 『狼森 神無』という存在を確かめるかのように、優しく強く握り、神無の不安を少しでも和らげてやるのだ。

 神無も暁の手をしばらく握り続け、心が落ち着くとそっとその手を放す。

 それが、儀式の始まりの合図だ。


「それでは、これより『封身の儀』を執り行う。 力を抜いて…………」


 そう言うと、暁は手皿を作り、そこに御神酒を注ぐ。

 そして、もう片方の手の親指を噛んで血を流し、一滴だけ手皿の御神酒に落とす。

 血はゆっくりと透明な御神酒の中に広がっていった。


「麻葉の血よ、血の鎖を溶かし、邪なる魔性を解き放て…………!」


 暁は呪文を唱えると、手皿の御神酒を神無の体に振りかける。

 すると、神無の体は祠から漏れるほどの強い光を放ち、眩く輝きだした。

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