第90話 禊

「ぶふぅ~…………」


 広々とした石造りの浴槽に浸かり、暁は大きく息をついた。

 広さでいえば灰魔館の風呂も負けてはいないが、狼森の風呂の売りは老舗旅館顔負けの露天風呂だった。

 天然温泉の湯加減も素晴らしいが、湯船に浸かりながら一望できる大自然の山々も絶景だった。

 今は夕刻のため茜化粧をしているが、それもまた格別な眺めである。

 『封身の儀』のためにあまり気を抜くことはできない暁にとって、そんな中でのささやかな憩いの時間だった。

 しかし、今回はそんなにゆっくりもできない。

 その理由が、屋敷に到着してから睦に聞いたある事を懸念してのことだった。



 ※


 屋敷に到着した暁は、神無と暦を先に行かせ睦と屋敷の中庭に来ていた。

 睦は周囲を見て人がいないことを確認すると、暁に向き直して口を開いた。


「『封身の儀』が妨害される恐れがある」


「えっ…………!?」


 暁は思わず大きな声が出そうになるのを抑え、口をつぐむ。

 今度は暁が周りを確認し、声を潜めて聞き返す。


「それは本当ですか?」


「…………確証はないが、可能性が高いという話だ」


「…………詳しく聞かせてください」


「一ヶ月前…………俺は『琥珀色の魔王』から違法ハンター集団『銀刃インレェン』を摘発する命を受けた」


「『デモニアハンター』か…………」


 『デモニアハンター』とは、デモニアを専門とする狩猟者や狩猟団体のことを指す。

 本来ならば人に害を為すデモニアを狩って、賞金や報酬を貰い身を立てるのだが、中には無害なデモニアを狩ってその死体を高値で売り捌く者、排他的な思想の下にデモニアを無差別に狩る者など非合法に手を染める者たちが存在する。

 その者たちは『違法ハンター』と呼ばれ、摘発の対象となっていた。

 第五区を治める『琥珀色の魔王』の臣下である睦は、その違法ハンターの摘発を命じられていた。


「数日前に俺は奴らのアジトを見つけて壊滅した…………しかし、何人かの構成員を取り逃がしてしまった。今も奴らはどこかに潜んでる」


「…………」


「だが、問題はそこじゃない。問題は奴らのアジトで見つけたリストだ」


「リスト…………?」


「ああ…………奴らは自分たちが天の代弁者であるとほざいて、デモニアを無差別に粛清する過激派集団だったんだが、奴らは粛清対象としていくつかのデモニアをリストアップしていた」


「粛清対象…………まさか!?」


 暁はハッとして睦の顔を見る。

 睦は静かに頷いた。


「あったんですね…………神無の名前が」


「…………なぜ神無の名前がそのリストに合ったのかわからない。『魔王の臣下』だからかと考えたが、俺の知る限りで神無以外の臣下の名前はなかった。その線は薄い」


「じゃあ、考えられるのは…………神無が『禍津大神』だということが外部に漏れてる?」


「そう考えるのが普通だろう。このことは母にも話していない」


(…………だろうね)


 『禍津大神』の存在は一族の者たち以外には暁たち一部の関係者を除き伏せられ、一族の中でも箝口かんこう令がしかれている。

 しかし、それが外部に漏れているということは…………。


「里の者の中に内通者がいるってことですよね?」


「…………それも確証はない。しかし、もしそうなら、『封身の儀』で皆が浮き足立っている今夜に『銀刃』の残党が襲撃してきてもおかしくない。何より奴らは仲間の仇として俺に復讐したいだろうからな。襲撃するにはうってつけだ。だから、俺は今回帰って来たんだ」


「それで、何故僕にこの話を?」


「確証がない分、里の者に内通者がいるかもしれないとは皆に言えない。余計な混乱を招くだけだ。特に母にはな…………」


「…………そうですね」


 只でさえ神無のことで心労が積もっている暦だ。

 これ以上余計な心配をかけたくないとは、息子なりの母への優しさだった。


「このことを知っているのは、俺と魔王様の二人だけだ。俺の不手際のせいで申し訳ないが、どうか協力して欲しい」


 睦は深々と暁に頭を下げる。

 そこには、長男として、次期当主として一族を案じる男の姿があった。



 ※



 暁は湯で顔を洗うと同時に顔を強く叩き、気合いを入れる。

 睦の懸念が当たるならば、『銀刃』の残党が襲撃してくるのは『封身の儀』の最中だろう。

 しかし、だからといってこうしている今も油断はできない。


(今は睦さんが神無と一緒だから心配はいらないだろうけど…………)


 それでも気持ちが落ち着かない暁は、さっさと上がろうと湯船から立ち上がる。

 そして、湯船を出ようと後ろを振り向いた瞬間だった。


「あれ? 暁ちゃんもう上がるの?」


「ぶわあぁっ!!?」


 暁はあまりの驚きに、足を滑らせおもいっきり湯船の中でずっこける。

 驚かせた張本人である神無は、一糸纏わぬ姿で前も隠さずにバシャバシャと大きな波音を立てながら暁に近寄る。


「大丈夫暁ちゃん? すごい転け方したね」


「かっ…………神無!? なんでここに!?」


 湯船から顔を出した暁は顔を赤くしながら目を背ける。

 突然のことに、暁も頭が全く働いていなかった。


「だって睦兄とゲームしてても弱くてつまんないもん。そしたらお母さんが暁ちゃんがお風呂に入ってるから、背中を流して来なさいって…………」


(あの人はぁ~っ!!)


 暁が目を背けながら憤っていると、神無はその腕を掴み、暁を湯船から引き摺り出す。

 暁は引き摺られながら、慌てて自分の前を隠した。


「さ! 久しぶりに一緒にお風呂に入るんだから、流し合いっこでもしよーぜー!!」


「えぇえ!? ちょっと待って神無!!」


「ほらほら! 観念しろぉ~!」


「あぁん! そんなとこ触っちゃ…………いやぁぁ~!!」


 静かな大自然の夕暮れに、神無の笑い声と暁の悲鳴が木霊する。

 それからしばしの間、暁と神無の風呂場でのじゃれ合い(?)は続いた。

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