第89話 帰郷

「…………きちゃん! 暁ちゃん!」


「あ、えっ?」


 神無の呼び声に、暁は懐旧かいきゅうから立ち直る。

 車外に向けていた視線を車内に戻すと、鼻先がつきそうなくらいの位置に神無の顔があった。


「どうしたの? ぼーっとして?」


 神無は不思議そうに暁の顔を見つめる。

 暁は顔のあまりの近さに驚きながらも、手を横に振る。


「何でもないよ。ちょっと考え事をしてただけさ」


「疲れた? 朝早かったからね」


「大丈夫です。これくらい」


 暦の労いに、暁は笑顔で返す。

 『封身の儀』が執り行われるのは日が沈み、星が瞬いてからだ。

 なのに、暁たちがこんな朝早くに里を訪れたのには理由がある。

 それは、勿論神無の存在だ。

 一族に災厄をもたらす『禍津大神』という存在を、里の者の中には快く思わない者もいる。

 それが、たとえ当主の娘だとしてもだ。

 こうやって人目の少ない早朝から行動しているのも、神無をそういう者たちの忌避の視線から守るためだった。

 勿論、神無にはそのことを伝えてはいない。

 ただ、儀式の準備があるからと伝えている。

 神無に余計な負い目を持たせないための暁の配慮だった。


「そういえば…………」


「ん?」


 暦はバックミラー越しに暁に視線を向ける。

 その視線に気づいた暁は、何事かと同じようにバックミラー越しに視線を返した。


「魔王様は神無にお情けを下さったのかしら?」


「は? おなさけ?」


 暦の言葉に暁は呆けた顔をする。

 その様子に、暦は意味深な笑みを浮かべた。


「だからぁ、優秀な子種は恵んで下さったのかとね」


「ぶっ!!?」


 暁は思わず吹き出す。

 その際に気管に入ったのか激しく咳き込んだ。

 暁の様子に、神無は驚いた顔をしながら背中を擦る。


「ごほっ…………暦さん! 何言ってんですか貴女!?」


「ほらぁ、神無も十六になったしね。そろそろ良いかな~って…………」


「僕がまだ十七なんですけど!? っていうか自分の娘をそんなホイホイ男に差し出してどうすんですか!?」


「あら、前から言ってたじゃないですか。『神無の嫁ぎ先は魔王様のとこしかない』って。それに、魔王様は権力者なんですから、ちょっとくらい早く跡継ぎがいても誰も文句を言う人はいませんよ。仮にいても黙らせれば…………」


「なんてこと言うんだこの人!!」


「暁ちゃんもお母さんも何の話してるの?」


「えっ!? いや何でもないよ!?」


「神無、貴女ももっと魔王様を誘いなさいな。今の時代、女も押しの一手よ」


「?」


「娘に変なこと吹き込まないで下さい! 神無も聞いちゃいけません!」


 暦の爆弾発言に、車内はにわかに騒がしくなる。

 ケラケラと笑う暦を見て、暁は「この人も変わったな…………」と疲れたながら思うのだった。



 ※



 車を走らせること一時間。

 暁たちはようやく神無の実家である狼森本家の屋敷に到着した。

 個人所有とは思えない広さの駐車場の一角に車を停めると、一行は荘厳な面構えの門をくぐる。

 門の先には、屋敷の女中たちが待ち構えており、主の帰還を出迎えた。

 その中から、一番年配の女中がしずしずと暦に歩み寄る。


「おかえりなさいませ御当主様」


「ただいま、たまさん」


『たま』と呼ばれた女中は、暦の背後にいる三人にも視線を向ける。

 その視線は、長男である睦を過ぎると、次に神無と暁の二人を捉えた。

 開いているのかわからないほど細い目が、目尻を下げた。


「睦坊っちゃん、神無お嬢様、おかえりなさいませ」


「ん…………」


「おたまさん! ただいま!!」


 神無は、たまに駆け寄ると、そのまま抱きつく。

 たまは、嬉しそうにそれを迎えた。


「また少し大きくなりましたねぇ。すっかりこのたまを追い抜いてしまいましたな」


「えへへ…………」


 神無は、たまに頭を撫でられ照れくさそうに笑う。

 まるで実の孫と祖母のような微笑ましいやり取りだ。

 長年狼森本家に仕えるたまは、当然神無のことを幼い頃から知っている。

 その上でこのように愛情を持って神無に接してくれているのだ。

 それは、里で風当たりの強い神無にとって数少ない救いだった。

 そんな二人のやり取りを穏やかな表情で見ていた暁に、ようやく神無から離れたたまは深く礼をする。


「魔王様も、よくいらっしゃいました。挨拶が遅くなって申し訳ありません。お嬢様の顔を見ると、つい年甲斐もなく浮き立ってしまいました」


「いやいや、別にいいですよ。今日はお世話になりますね」


「こちらこそ、よろしくお願いします。それでは、粗末ではありますが、おもてなしを用意させていただいております。どうぞ、御上がりください」


 たまに促され、四人は屋敷へと足を踏み入れる。

 暦と神無はたまについて先に入っていった。

 暁もそのあとに続こうとした時だった。

 急に後ろから肩を掴まれ、引き留められる。

 暁が後ろを振り向くと、睦が相変わらずの無表情でこちらを見つめていた。


「睦さん、どうしたの?」


「…………こっちに来てくれ」


「…………なぜ?」


「ここでは話せない。時間はとらせない」


 頭一つ分は違う大男の顔を、暁は見る。

 無表情ではあるが、何か抜き差しならない事情を抱えていることだけは読み取れる。

 暁は先をいく神無たちを一瞥し、こちらの様子に気づいていないことを確認すると、睦に黙って頷いた。

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