第84話 懐古の記憶

 暦は目をパチクリさせる。

 朝早くから女中が慌てた様子で自分のところに来た時は何事かと思ったが、玄関に立つその原因を見て、ようやく合点がいった。

 背筋を伸ばして玄関に気をつけをしている暁に、暦は問いかけた。


「あー…………暁君?」


「はい。おはようございます」


「何で君はここにいるのかな? というかお母さんは?」


「はい。今日は幼稚園がお休みなので神無ちゃんと遊ぶために来ました。母は用事があるので、一人で来ました」


「一人って…………ここまで!? どうやって!?」


「電車で来ました。駅からは歩いてきました」


「歩いてって…………駅からこんな山の上まで歩いて来たの!?」


 暦は驚愕を通り越して呆れ返る。

 まさか四歳の子どもが、一人で電車に乗って、さらに十キロ以上の山道を歩いてくるとは思わなかった。

 自分デモニアの子たちならばともかく、人間の子どもがだ。

 蛙の子は蛙というが、魔王の息子ともなれば、やはり普通とは違うのだろうか。

 暦がそんなことを考えていると、その様子を無言で見つめる視線に気づき、気を取り直す。

 暦は屈み込むと、暁と視線の高さを合わせた。


「お母さんは君がここに来たことは知ってるの?」


 その問いかけに、暁は目線を下に向ける。

 その反応を見て、暦はため息をついた。


「神無のために来てくれるのは嬉しいけど、おうちの人に何も言わずに来ちゃったら、お家の人は心配するとおばさんは思うな」


「………………はい」


 暁は落ち込んだ様子で、肩を落とす。

 すると、背中に背負った大きなリュックサックもいっしょに、しょんぼりとするように揺れた。

 この子は、自分の娘に会うために、この小さな体で自分とさして変わらない大きさのリュックサックを背負ってここまで来たのだ。

 その健気さは大変好ましいが、やはり自分も親である以上、勝手な行動をとった子どもを見過ごす訳にはいかない。

 魔王の子息であるならば、尚更だ。

 それでも、とりあえずはこのまま玄関でお見合いしていても仕方ないし、第一既に暁はここに来てしまったのだ。

 暦は暁の小さな手をとる。


「お母さんにはおばさんが連絡をするから、とりあえず上がって。せっかく神無に会いに来てくれたんだしね」


「はい。僕は神無ちゃんに会いに来ました」


「はいはい」


 真面目に返答をする暁に暦は吹き出しそうになりながらも、座敷の方に案内する。

 暁は几帳面に靴を並べると、暦の後についていった。



 ※



 狼森家の本屋敷から、渡り廊下を通って向かう離れには、ほとんど誰も近づかない場所があった。

 それは、地下に作られた座敷牢である。

 大きな南京錠で堅く閉ざされた真鍮の格子をいくつも越えたその先に、その座敷牢は存在する。

 座敷牢の最初の関門には、常に二人以上の見張りが二十四時間ついており、何か異常があれば、すぐに当主である暦に知らせることになっている。

 それだけ厳重に閉ざされたその場所に、暁はいた。

 半年前までは、必ず暦か母、見張りの者がいっしょについてきていたが、最近は暁一人で座敷牢に来ることが増えていた。

 暁としても、その方が気兼ねをしなくて済むので有り難かった。

 何しろ、見張りがいればの気が立ってしょうがない。

 だから、今日も暁は残ろうとした見張りに頼んで、にしてもらった。

 暁は牢の近くに立つと、背負っていたリュックを下ろす。

 暦が連絡をしてくれたおかげで、今日は夕方までここにいることができる。

 時間はたっぷりだ。

 さらに「二人で食べて」と言われて渡された弁当や、リュックの中には大量のおやつもあるので、お腹が空く心配もない。

 暁はリュックの傍らに座ると、牢の中を覗き込む。

 薄暗くて、奥まではよく見えない。

 しかし、その暗闇の奥から確かに気配は感じる。

 暁は丸太のように太い鉄格子に手をかけると、牢の暗闇に向かって声をかけた。


「神無、神無、僕だよ。暁だよ。また遊びに来たよ」


 暁の幼い呼び声は、牢の暗闇に吸い込まれていく。

 暗闇から返ってきたのは静寂だけだったが、しばらくすると奥から、モゾモゾと動く影が見える。

 その影は四つん這いで、ゆっくりとこちらに近づいてきた。

 長く乱雑に伸びたボサボサの黒髪に、伸びたままの汚れた爪。

 かつては美しく絢爛けんらんであったであろう赤い花柄の着物は、ズタズタに破れ、ほとんどただの布きれを纏っただけのような姿。

 一見して人かどうか判別ができず、獣と見間違えてもおかしくはない。

 暁は、ようやく暗闇から顔を出したその影に満面の笑みを向ける。


「おはよう神無。元気?」


 暁の言葉に、獣ーーーー狼森 神無は何も言葉を返さない。

 掠れたような低い声で「あー……あー……」と呻くだけだったが、前髪から覗く大きな丸い瞳は、一週間ぶりの『友達』の来訪に、喜び輝いていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る