第83話 回想

 あれは四、五歳くらいの頃だろうか?

 母に連れられ、初めて狼森の里を訪れた時のことだった。

 母親は暁を連れていく以前から狼森の里に定期的に訪問していたようだが、その日、幼い暁を連れていったことには二つの意図があった。

 一つは、いずれ今自分が行っている役割を暁に引き継ぐため。

 そして、もう一つが…………。


「息子の暁だ。いずれは『封身の儀』もこの子に引き継いでもらおうと思っている」


 母は、そう言いながら暁の頭を軽く叩く。

 その様子を見て、暦は怪訝な顔をする。


「だからと言って、こんな年端もいかない子をこんなところに連れてきたの? 何か別の目的があるんじゃない?」


 暦の言葉に、暁の母は豪快に笑う。

 この豪快な高笑いは、母の代名詞だった。


「人聞きの悪いことを言わないでくれ。私は何も企んじゃいないさ。ただ…………」


 母はそこで言葉を区切り、暁を見る。

 突然山奥に連れてこられ、今度は何だ?

 言葉にしないまでも、暁の視線は母にそう尋ねていた。

 それを母も感じとったのか、今度は人の悪いような高笑いではなく、母親らしい慈愛に満ちた笑みを暁に向ける。


「暁、あんたに紹介したいがいるんだ」


 母がそう言うと、暦はハッとした表情になる。

 慌てた様子で、暁の背を押し歩を進めようとしていた母の肩を掴んだ。


はじめ…………貴女、この子を神無に会わせるつもり?」


「当然だ。言っただろ? 『いずれ私の後を引き継いでもらう』と。なら、会わせておかなくてはなるまい」


「反対だ」


 間髪ない返答だった。

 熟考などしていない。

 それだけ、考えるに値しないことなのだ。

 今に思えば、暦のこの発言も慌てぶりも納得がいく。

 それが、当時の『神無』という存在に対する周囲の見解だった。


「なぜ、反対?」


「当たり前でしょう。あの娘は『獣』だ。貴女は自分の息子を?」


「『獣』か…………自分の娘に対して随分な言い草だな」


「…………事実よ。あの娘は人狼わたしたちとは違う。その分別だけはきちんとつけなくちゃいけない。一族のためにも、神無のためにも…………」


 始は、喜怒哀楽がはっきりとした女性ひとだった。

 笑う時は大きく笑い、怒る時は凄まじく怒り、泣く時は枯れるまで泣く。

 幼いながらに、母の単純明快さには呆れることもあった。

 しかし、自分の手を掴む暦の手を掴み返す母の顔は喜怒哀楽のどれにもあてはまらなかった。

 いや、もしかしたら全ての感情が入り雑じり過ぎて、その時の母の心情を表す言葉が存在しなかったのかもしれない。

 母はその時、


「安心しなよ。何もいきなり二人きりにしやしない。当然私がいっしょだ。それに、これは『封身の儀』の成功のためにも大事な工程の一つだ」


「工程?」


 暦が母の肩から手を放す。

 すると、母も同じく暦の手を放した。


「あの娘を繋ぎ止めるための鎖、いや、この場合はえにしといった方がいいな。あの娘には、人との繋がりが必要なんだ」


「しかし…………もしものことがあったら…………私は貴女に死んで詫びるしかなくなるわ」


「安心して。私が何も起こさせない。何よりこのは私と総さんの息子だよ? そんなヤワな育て方はしてないさ。それに…………」


「………………?」


「子どもは遊ぶものでしょ? 『友達』と」


「っ………………!」


 暦は口元を着物の裾で押さえると、咄嗟にこちらに背を向ける。

 その姿を見て、暁は大きな瞳を何度も瞬かせた。


「お母さん…………」


「んー?」


「あの人、泣いてるよ」


「そうだね。泣いてるね」


「なんで? お母さんが泣かせたの?」


「違うよ。むしろ、お母さんはあの人に泣いて欲しくないって思ってる」


「そうなの?」


 暁は首を傾げる。

 そんな暁を見て、母は髪が乱れるほど乱暴に暁の頭を撫で回した。


「自分の娘を『獣』と呼ばなくてはいけない辛さ。自分の娘を『娘』と思うことが許されない辛さ。お母さんもだから、その辛さがよく分かる。だから、泣いて欲しくないのさ」


「…………?」


「まだ難しいか。とにかく、あの人が泣かないで済むようにするためには、あんたの力が必要なんだ。いっちょお母さんに、暁の力を貸してくれない?」


 母は、首を傾げながら暁の顔を覗き込む。

 暁はキョトンとした顔をしたままだったが、それでもはっきりとわかるように首を縦に振った。

 そんな暁を見て、母は嬉しそうに笑みを浮かべた。


「僕は、何をすればいいの?」


 暁の問いかけに、母は「うん」と頷くと、膝を折って屈む。

 丁度、親子の視線が一直線に重なり、母は優しげな口調で言葉を紡いだ。


「暁には、これから会うと友達になって欲しいんだ」


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