第85話 鉄格子越しの縁

「これが『あ』で、これが『き』。この二つを合わせて、『あき』。これで僕の名前の『あき』になるんだよ」


 暁は黒のクレヨンで、習ったばかりのひらがなをスケッチブックに書いていく。

 神無は、牢の中からその様子を珍しげに見ていた。

 暁は口をゆっくり大きく動かし、自分の名前を何度も復唱する。

 それを見て、神無も口の動きを真似した。


「い~っ…………ううぅぅ~」


「『あ』だよ。『あ』。そして、『き』。もう一回言ってみて」


「あぁきぃぃ?」


「そうそう。上手だよ」


 暁は牢の中に手を入れ、神無の頬を撫でる。

 神無はその優しい手つきに、目を細めた。

 神無と出会ってから半年。

 出会ったばかりの頃と比べて、神無は暁によくなついていた。

 今ではこうやって手で触れることができるようになったが、最初の頃は牢に近づいただけで唸り声を上げて威嚇されたものだ。

 だが、こうやって暁が他愛もない話をしたり、いっしょに遊んだりしていくうちに、神無の警戒も解け、次第になつくようになっていた。

 特に神無の興味を引いたのが、暁のする話だった。

 動作が完全に獣のそれである神無だったが、人の言葉はだいたい理解していた。

 生まれてから牢の中の世界しか知らない神無にとって、いつも暁が話してくれる外界の話は大変興味深く、楽しいものだった。


「それで、姫ちゃんのその時のパンツは可愛い花柄だったんだ」


「あー……?」


「うん。神無も見たら、きっと可愛いって思うに違いないよ」


「うあぁー! あー!!」


 神無は手を叩いてケタケタと笑う。

 暁はその様子を見て、嬉しそうな笑みを浮かべる。

 今、自分の目の前で無邪気に笑っている少女が、かつて自分の手に噛みつこうとした者と同一人物とは思えない。

 こうして見れば、普通の女の子そのものだった。


「よし。じゃあ次は神無の名前をどう書くか教えてあげよう。よく見ててね」


「あぅ」


「まずは神無の『か』から…………」


 暁は再びクレヨンでひらがなを大きく書き始める。

 神無の視線は、再び動き出したクレヨンに動き出した。

 鉄格子を挟み、二人の幼子は交流を深めていた。



 ※



「まだ戻らない?」


「はい。午前からずっとです。内線での確認にも応答しません」


 暦は、そう説明する見張りの男の後に続いて、五つめの扉をくぐる。

 男は手にした鍵で頑丈な南京錠に閉ざされた格子の扉を急いで開けていく。

 暁が神無の座敷牢に入ってから、既に半日が過ぎた。

 空が茜色に染まっても暁が出てくる気配はなく、座敷牢の近くに設置された内線電話からの連絡も途絶えていた。

 暦の頭の中に暗雲が立ち込める。

 いくら神無がなついていたからといって、油断し過ぎていたかもしれない。

 神無の体の中には、依然として黒い邪悪が眠っているのだ。

 『禍津大神』という邪悪が。

 その昔、まだ人とデモニアが激しく争い合っていた頃、狼森家は人間の攻勢に反抗するためにある禁術に手を染めた。

 『災禍さいかの呪法』と呼ばれたそれは、満月の夜に七人の人間と七人のデモニアを贄として、その呪法の対象者、そしてその血族に強大な魔力を与えるというものだった。

 人間への憎しみからその凶気に手を出した狼森家は強大な魔力を持つ一族となった。

 しかし、『呪法』は『呪法』。

 一族は今日に至るまで大きな代償を背負うこととなった。

 それが数年に一人産まれてくる凶気を孕んだ忌み子。

 邪悪な魔力に犯され、目に入る全てを喰らい、血を嘗める人の形をした獣。

 それが『禍津大神』と名付けられた凶狼であった。

 呪法によって手に入れた強大な魔力をより多く持って産まれてくるその子は、強力なデモニアである反面、仲間、家族の見境なく何にでも牙を剥く。

 成長し切れば、どんな厄災を振り撒くかわからない存在だ。

 しかし、だからといって間引きをすると、原因不明の疫病が一族に蔓延し、滅びる危険も孕んでいた。

 実際に一度、産まれたばかりの『禍津大神』を処分したために疫病が蔓延し、一族が滅びかけたという記録が残っている。

 それ以来、一族は産まれてきた『禍津大神』を、天寿を全うするまで隔離していくことになった。

 そして、当代で産まれてきたのが神無だった。

 産声と共に産婆さんばの指を喰い千切った神無を、一族はすぐに座敷牢に隔離した。

 出産を終えた暦が、再び神無と対面したのは、出産から一ヶ月後、鉄格子を間に挟んでのことだった。

 当時存命していた神無の父ーーーー先代当主は暦に「を我が子と思うな。あれは魔物だ」と告げ、それ以来一切の接触を禁じた。

 暦は産まれた我が子を抱くことも、名前を呼ぶことも許されなかった。

 それから数年後、体の弱かった先代当主が病でなくなり、当主となった暦は神無と数年ぶりの再会を果たした。

 牢越しに、密かに名付けていた名前で暦は語りかけた。

 誕生月にちなんで名付けた名である『神無』と。

 暦はその時の鎖に繋がれ、唸り声を上げる神無の姿を今でも覚えている。

 逢真親子のおかげで、あの頃の凶気は薄れ、神無も落ち着いた様子を見せるようになった。

 もしかしたら神無も普通の子どもとして生活ができるかもしれない。

 そう思っていた。

 暦は体に絡みついてくるような悪い予感を振り払い、最後の扉をくぐる。

 座敷牢にたどり着いた瞬間、見張りの男は短く「あっ!!」と声を出した。

 男を退き払い、目の前の光景を目の当たりにした暦は目を大きくする。

 そして、すぐに一息ついて弱々しく笑った。


「…………何事もなかったようですね」


「ええ…………」


 暦は牢に近づく。

 そこにはうずくまり、小さな寝息を立てる暁と神無、二人の姿があった。

 よく見ると、二人の右手は鉄格子越しに固く握られていることに気がつく。

 それを見て、見張りの男と暦は顔を見合わせた。


「『禍津大神』すら手なづけるとは、流石は魔王のご子息ですな」


「きっとそれは関係ないさ。ただ、この子が優しい子だから、神無もなついている。それだけさ」


 そう言いながら、暦は再び二人の寝姿を見る。

 あどけない顔で手を固く結んで眠る二人を見て、この子たちの未来を表しているように感じられた。

 そしてそれは、きっとこの子たちにとって、明るく最良の未来であると暦は確信した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る